豊生神宮
メモにある、指定の駅に着いた時、時計は既に12時を回っていた。……中央線、というとオレンジ色のラインの入った、本数のある線、というイメージが強かったのだが、高尾から先、乗り継ごうと思ったら日中は1時間に2本しかない上、ローカルな列車。さらにその中央本線から乗り換えた超ローカル線。
乗り継ぎ、乗り換えにも随分と時間を費やした。
――咲月にとっては決して珍しい事ではないのだが、さすがに疲れた。
ローカル線の、ローカル駅。そう言う意味では今日の出発点とほぼ変わらない。
だが、駅前の様子は随分と違う。
駅前は商店街になっているようで、主に奥様方で賑わっている。昨今、田舎の商店街といえばシャッター街と化した場所も珍しくないというのに、主婦に混じって観光客らしい大きな荷物を持った若者もちらほら見受けられる。
さて、メモにはここからバスかタクシーに乗るよう書いてある。
まずはバスの時間を確かめようと、バス停へ近づこうと歩き出したところへ――
突如、車のクラクションが鳴った。
反射的に、周囲を見回した咲月の目に、見覚えのある姿が映る。
真っ黒なサングラスをかけ、年季の入った白い軽トラックに背を預けた和装姿の青年が、軽く手を振った。
慌てて頭を下げる咲月に、彼は身振りで車に乗るよう促しながら、運転席へ乗り込んだ。
咲月は2人乗りの小さな車の助手席に、狛は荷台へ上がる。
「あの、……お久しぶりです」
のどかな田園風景の中を、ゆっくり走る車の中、咲月は車を操る彼におずおずと小さく頭を下げる。
彼は、片手で少しサングラスを持ち上げ、肩をすくめながらかすかに笑みを浮かべた。
「ああ、あん時は瑠羽が世話になったな」
美しいルビーの様な赤い瞳が、咲月に向けられる。朔海と、さして変わらない年頃に見えるこの彼の名は、晃希という。
彼は、あの稲穂様らに仕える狛犬で、瑠羽の父親でもある。
あの日、稲穂様と入れ替わりに医院を訪れ、朔海や葉月にそう紹介してもらったのだが……。
彼は、これで朔海より年上――600歳で、しかも元は間違いなく人間として生きていた人なのだ。――かつて、神聖ローマ帝国が幅を利かせていた時代の、ヨーロッパに。
あの日、彼に色々話を聞いてみたいと思ったものの、翌朝回復した瑠羽を連れてすぐに帰ってしまい、咲月は軽く挨拶をしただけになってしまった。
さて、2人きりの今、いったい何を話せば良いのだろう? 咄嗟に思い浮かばず、さりとて黙ったままでは彼が気を悪くするかもしれない。
焦る咲月に、晃希は左手をハンドルから放し、ぐりぐり少し乱暴に咲月の頭を撫でた。
「……あんまり、頑張りすぎるな」
晃希は、苦笑を浮かべ、飾らない言葉をくれた。
「まあ、今は難しいと思うけど。……あんまり自分を責めるんじゃねえぞ」
その言葉で、咲月は気づく。――彼は、もう事情を知っているのだ。
「……ああ。ちょっと別口で連絡があってな。王子様の都合がつくまであんたをうちで預かってくれってさ」
彼がうち、というからにはもちろん豊生神宮で、ということだろう。
「え、私……、この間稲穂様の誘いをお断りしたばかりだったのに……」
それではまるで舌の根も乾かぬうちに、手のひらを返したようだ。申し訳なさと恥ずかしさで咲月は俯いた。
「皆、……いやチビ達はともかく、稲穂様たちも事情はすでにご存知だ。んなこと気にしちゃいないさ」
彼はニヤリと自信たっぷりに笑う。
「任せな、迷惑な客は皆、俺らが丁重にもてなしてやる。うちは血の気の多いやつばっかりだからな」
彼は窓の外に見える小山の方を眺め、苦笑した。
「もうすぐ、七夕の時期だろう? ささやかながらちょっとした祭事があるんだ。今月の末には夏祭り、来月末は町の盆踊り大会の手伝い。それこそ、猫の手も借りたいほど忙しくてね、人手が増えるのは皆大歓迎なのさ。まあ、騒がしい奴ばっかだけど――」
その小山の麓に、真新しい石柱が立ち、豊生神宮と彫り込まれ、山の上へと続く登山道は、舗装こそされていないものの、しっかりと手入れが施されている。
道を挟んだ向かいには駐車場が整備され、平日だというのに少なくない数の車が停まっている。晃希は、その一番奥、神社の関係者用の枠に車を停めた。
「……ようこそ、我が豊生神宮へ。社に仕える狛犬として、君の来訪を心から歓迎する」
車を降りた彼は、サングラスを外し改めて咲月に向き直ると、朔海たちより、なお白い右手を差し出した。
黒い髪に白い肌、赤い瞳。それは、明らかに人ではないのに、握り返したその手は、暖かい。
彼もまた、朔海や葉月と同じ。吸血鬼ではあるけれど、紅狼のような“魔物”ではない。
だが同時に、強大な力を持ってもいる。だからこそ、自信を持ってその言葉をくれるのだ。
「さて。じゃあまずは先に母屋へ案内するよ」
彼は先に立って歩き、鳥居をくぐって登山道を登っていく。
登山、とはいえ道も整っている。整えられた、長い長い階段を、ゆっくり登っていく。緑の深い山の中は、土と緑の匂いがした。大きく育った木立に茂る葉が直射日光を遮り、程よい木漏れ日を点々と形作り、時折心地よい風が木々を揺すっていく。
程なく、2つ目の鳥居が見えてくる。と、同時に静かだった空気に賑やかな人の声が聞こえてきた。
――拝殿。
そう大きくはない建物の正面に、賽銭箱としめ縄、鈴が定位置に収められ、その少し手前に手水場が備えられている。
社務所の前では色とりどりの札や守り袋が売られ、その前で女の子達がわいわい楽しそうにはしゃいでいる。
そこで売り子をしていた巫女姿の女性が、こちらに気づいて手を振った。晃希もまたそれに気づいて手を振り返し、彼女に近づく。
「やあ、ただいま竜姫」
初めて見る顔だったが、咲月はその名前を聞いて、彼女が当代の巫女姫なのだと気づく。つまり、瑠羽の母親で、晃希の妻で……。
と、彼の後ろで眺めていると、晃希は彼女に手を伸ばし、その頭を引き寄せると自然な動作でそのまま彼女の額に口づけた。
それを見ていた参拝客の少女たちは、少し頬を赤らめつつもきゃあきゃあ楽しそうにはしゃいでいる。
よく見れば、彼女たちの手にある守り袋はどれも意匠が同じ。さらによく見れば、「一番人気」の札のかかるそれは、『恋愛成就』のお守り。
「おかえりなさい、晃希。……じゃあ、その娘が咲月ちゃんなのね?」
人前で堂々と口づけられながら、彼女は自然な笑みを浮かべたままそれを受け流した。
「ようこそ、豊生神宮へ。初めまして、私はこの社の巫女を務める神崎竜姫。よろしくね」
「は、はい。あの、私は咲月、といいます。あの、……すみません、色々ご迷惑をお掛けすると思いますが、よろしくお願いします」
この社の真の主とも言える彼女に、咲月は深々と頭を下げた。朔海の話の通りであれば、彼女はこの社の巫女でありながら、同時に主祭神でもあるはずなのだ。
だが、彼女はそんな咲月を突然ギュッと抱きしめた。
大人の女性の柔らかな体が、咲月を包み込む。……それは、とうの昔に諦めた感触。母、という存在をよく知らずに育った咲月にとっては新鮮な感触だった。
……暖かい。
「ねえ咲月ちゃん、困ったときはお互い様って言うでしょ? ……今のあなたには少し難しいかもしれないけど、一人で抱え込まないで。何かあったら、いつでも言ってね」
そっと耳元にささやきかけてから、そっと離れる。
「私はまだここで仕事があるから、ごめんね、先に晃希に部屋まで案内してもらったら、夕食までゆっくりしていて。……長時間の移動で疲れたでしょう? 良ければ先にお風呂に入っちゃってもいいから」
その言葉に、申し訳なさそうな顔を仕掛けた咲月に、竜姫は軽く片目をつぶりながら意地悪そうに微笑む。
「ふふふ、今日だけ、よ。うちの基本は、働かざる者食うべからず、だからね。明日からはきっちり働いてもらうわよ」
「そうそう。だからこれは今日はしっかり身体を休めて、明日に備えとけっていうありがた〜いご慈悲なわけ。ここは素直に従っとくほうがいいぜ。何せうちの指導係はスパルタタイプが揃ってるからな」
晃希は少し遠い目をしながら苦笑いをし、肩をすくめた。
「さあ、じゃあ行こう」