覚醒
空気が、重い。――それも比喩的な意味ではなく、実際に重みを感じるのだ。酸素や二酸化炭素、窒素……空気を構成している気体の一つ一つの質量が、突然倍化したように、普段は意識することのない空気の重さを、全身に感じる。
普段であれば、特別意識せずとも出来るのが当たり前のはずの呼吸も、吸い込む空気が重すぎて、意識的に息を吸い込まねば呼吸ができない。
しかも、その空気に重みだけではなく、チリチリと刺すような痛みも感じる。
強すぎる陽光の下、強烈な紫外線に肌を焼かれているような痛み。それは、それを取り込んだ咲月の喉や肺をも痛めつける。
「お嬢さん、手で口と鼻を塞ぐんだ。……結界の作用で、だいぶん軽減されてはいるが、本来なら人間の身で耐えられる毒じゃない。そう、長いことはかからないはずだから、しばらく呼吸は控えめにしとけ」
それから咲月を庇って覆いかぶさる狛の声が苦しそうに掠れる。
(そんな、長いことはかからないって……!)
咲月は片手で石の床を引っ掻く。指の先から血が滲み、ぬるりと冷たい感触が床を湿した。
――竜の血を暴走させると、辺りがまるで地獄絵図みたいになる程の毒素が撒き散らされる。もちろん、巻き込まれたらひとたまりもない。――が、それは相手だけじゃない。……誰よりもまず、白露自身の肉体が耐え切れなくなる――と、そう教えてくれたのは狛だ。
――ある一定量を過ぎてしまえば私の身体の方が耐え切れずに消滅し……、と、そう話してくれた葉月の声が脳裏に蘇る。
闇に閉ざされた目には何も映らないが、狼の呻き声や、聞きなれない獣の咆吼は断続的に聞こえ続けている。
あれが、狛が“翼を持ったトカゲみたいな真っ黒くてでかい竜”と称したものの声、なのだろうか?
とすると、やはり葉月はあえて自らの力を暴走させたのだ。――咲月を、守るために。わざわざこの空間へ移動してきたのも、最初からそのつもりだったからなのだろう。力の暴走による被害を、ご近所に及ぼさないために、そしてその毒で誰より咲月を傷つけてしまわないために。そのための対策が施されたこの場所へ、無理を押して咲月を抱えてきたのだ。
(葉月さんが……死ぬ……? そんな……、何で、どうして!?)
頭では、理解する。――それ以外に、この状況を打破できる有効な手段がなかったからだ。紅狼という強大な敵に対抗する力が、なかったから。
弱さは、罪。――その罪の代償が、葉月の命なのだと。
だが、心がそう納得するのを拒絶する。
何の力も無く、何もできずにいる自分。ここに来ていったい何度目になるだろう、歯がゆくもどかしい思いを噛み締めるのは。けれど、今こうして噛み締める無力感は、これまでの比ではない。
何しろ、今、この瞬間にも刻一刻と葉月の命が削り取られていっているのだ。それを、ただ黙って見ているしか――いや、見ていることすらできないなんて。
咲月は、何の力も持たない手で、もどかしく石の床を引っ掻いた。――力が欲しい、と、そう強く思い……その、耳の奥で朔海の言葉が響く。
“――意味のある文字や形……力をもった記号を利用するんだ”
朔海は、あの魔法陣を描くのにルーン文字を使っていた。
その手の小説が好きだった咲月は、その意味を全て知っていた。……反射的に、今、一番欲するものを意味するそれが、咄嗟に頭に浮かぶ。
――ルーン文字は、魔術を操るいわばハンドルの役目を負っているだけで、エネルギーもエンジンもない状態では何の意味もなさないと知りながら、咲月は血の滲む指で、床にその形を刻む。
ケン。――火や松明の炎を意味する文字で、ひらがなのくの字に似た形を持つその文字に、ありったけの想いを込める。
(力を……。お願い、力を貸して……!)
……文字は、あくまでも魔力の制御装置、それも補助的な意味しか持たない。それを、何の力も持たない人間が突然扱おうとしたところで、何が起きるわけもない。
だから、咲月は祈りながらも、頭の片隅にじわりと絶望感が広がっていくのを止められなかった。
――だが、偶然という名の運命が、彼女に味方をした。描いた文字が、一瞬淡く白い光を帯びた後、パッと一気に燃え上がり、橙色の炎を吹き上げたのだ。
「うお!?」
とつぜん吹き出した炎に、狛が咄嗟に咲月の首根っこを咥えて飛び退る。
吹き出した炎はそう大きなものではない。せいぜい焚き火程度の小さく、ささやかな炎だが、部屋の様子を照らし出すには十分な明るさをもたらした。
その明かりに照らし出されたのは、翼を持った真っ黒い、竜の姿。――否が応でも視界いっぱいに写り込む巨大な西洋風の竜が、紅狼を壁際に追い詰めている。
あれ程の巨躯も、この竜と比べれば象に追い詰められたハイエナの様だ。
何より、その巨躯もさることながら、竜が放つ毒気が凄まじいらしく、あれ程見事だった紅狼の毛並みから艶が失われ、苦しそうに舌を出している。
その様子に、咲月は不安を覚える。生粋の吸血鬼の中でも特に強いという紅狼があれ程の消耗を隠しもせず表に出しているのだ。……では、葉月は?
急いでその姿を探す――と、居た。竜が、翼をはためかせるたび、ゆらゆら左右に振れる尾の傍で、床に膝をつき蹲っている。
咲月は、すぐにも駆け寄ろうとして、だが自らの足元のそれに気づき、咄嗟に踏み出そうとした足を止めた。
咲月がそれまで狛に庇われながら伏せていた床に描かれた、血色の文字。――ユル。イチイの木を意味し、防御の意味をも有するそれこそが、紅狼を疲弊させるほど強力な毒から、ただの人間でしかない咲月を守っているのだろう。
もしも、この文字の効果の及ぶ範囲を出れば、おそらく咲月など一瞬でチリも残さず消し飛んでしまうのだろう。……それでは、本末転倒だ。
咲月は、燃え盛る炎を眺めながら考える。どうして成功したのかは分からないが、少なくともあれは成功した。だったら、ダメ元でもっと試してみたらいい。
これまで読みあさった小説で読んだその手の知識を求め、脳みそをフル回転させる。
(――まずは何をしたらいい? どうするのが一番良い?)
最優先事項は、言うまでもなく力の暴走を止め、葉月の命の消耗を食い止めることだが、それにはやはりまず先に事の元凶にご退場願うべきだろう。
咲月は再び、それが成功するよう祈りながら、新たなルーンを宙に描く。――上向きの矢印にも見える、テュール。その名のとおり、北欧神話に出てくる軍神テュールを意味するルーンだ。
成功すれば、あの魔狼フェンリルとは特に因縁の関係にある神だ。その血を引くというあの紅狼にも何か効果があるかもしれない。
人差し指で空を切り、形を完成させる。――といっても、空に描いた文字の軌跡は残らない……はずだったのが、咲月の人差し指が空をなぞるたび、その奇跡が淡く白い光の線となって宙にその形を浮かび上がらせる。
――すなわち、テュールのルーンを。咲月は、直感的に完成したその文字を押し出し、紅狼へ投げつけた。
すると、文字は紅狼に迫る直前で、光の軌跡の形がぐにゃりと崩れ、四つの輪っかに分かれて紅狼の四足にそれぞれ巻き付き、枷となって彼を拘束した。
「……あ、……もしかして、グレイプニール?」
軍神テュールが作成したと言われる、フェンリルを拘束するための道具だ。
ならば、と、咲月はさらに新たな文字を空に描く。すこしひしゃげたFの字に似た形を持つアンスールの文字。――意味はロキ神。フェンリルの父神とされる存在だ。
続けて、雷神トールを意味すると言われるソーンのルーン――縦棒の真ん中に三角をくっつけたような形のそれを描き、共に紅狼に向かって投げつける。
二つの文字が重なり、ぐにゃりと形が崩れたかと思えば、大きな槌が現れる。
意図した通りの結果が顕れたことにホッとしながら、その槌――ミョルニルの行く末を見守る。ミョルニルは、ロキが作らせ、雷神トールが愛用したとされる武器だ。
槌が、雷を放ちながら、紅狼の身体を打ち据える。――暴力を振るうのはあまり気分の良い行為ではないが、今はそんな事を言っている場合ではない。
咲月は休むことなく次のルーンを描く。
「……お嬢さん、やるねえ?」
狛の感心した声を励みに、今度も一度に二つのルーンを描き出す。ひとつは、菱形のルーン、イング。――フレイ神を意味する文字と、そしてもう一つ。アルファベットのRの字を角ばらせたような形をした、ラドのルーン。意味は、乗り物。
フレイ神の船、スキーズブラズニルも、雷神トールのミョルニルと共にロキが作らせたものだ。――槌がまだ消えずにいるうちに、と咲月は二つのルーンを急いで押し出し、更なる追撃のルーンの用意にかかる。
7の字を左右反転させたような形をしたラグズ、水を意味するルーンと、Mの字に似たエオー、移動を意味するルーンを押し出す。
水の上に浮かぶ船に、紅狼を叩き込み、そのまま押し流す。そして、最後にもう一文字、もう一度ソーンの文字を、今度は門の意をこめて描き、押し出す。
ソーンのルーンは、部屋の壁に張り付き、壁に新たな扉を一つ増やし、ゆっくりとそれが開いていく。そこへ、雪崩こむように水が流れ、その上を船が滑っていく。
――その間、竜が出張る機会もなく、紅狼は扉の向こうへ押し流されていく。
咲月は、油断なく凍結の意味を持つイスのルーン――アルファベットのIの文字に似たそれを扉に叩きつけ、逆流してそれが戻らぬよう扉を封じる。
「おおお、お見事……!」
狛が感嘆の声を上げた。――だが、まだ終わっていない。……あの竜を、何とかしなければ。
葉月は、あの時何と言っていた? そう、確か、毒素を浄化して云々と言っていた。
「浄化……、シゲル、かな……」
そこで咲月は迷いを覚える。物事を好転させ、健康の意味も持つルーンだが、一番の意味は――太陽、なのだ。
ただでさえ弱りきっている葉月にとって、むしろ害となる可能性が否定しきれない。
「なら……あと、他には……? 何か、あったっけ……?」
咲月は必死に、全力で過去の記憶を探る。
「……ユル、なら」
防御を意味するルーンだ。
「それとも、エオルーとか?」
保護を意味するルーン。
思いつく端から文字を描き、竜に向かって投げつける――が……
文字は、確かに軌跡の淡い光を保ちながら竜へと飛んでいくが――
「ああ、だめ、また弾かれた……!」
翼で、尻尾で、鉤爪のついた手で、跳ね飛ばされ、消し飛んでしまう。
紅狼が去ったというのに、葉月は蹲ったままピクリとも動かない。――もしや、意識を失っているのかもしれない。そうであれば尚の事、急がねばなるまい。
もはや一刻の猶予もない。
咲月は奥歯を噛み締める。
「ねえ、狛、……どうすればいい?」
「……豊生様はな、神龍さまの神気でもって、この毒気を祓ったんだ。並の力じゃ、この毒はどうにもできないんだよ」
狛が苦々しく言う。
咲月は、唇を噛んだ。もう、迷っている暇はない。
「狛、一つ、お願いしてもいい?」
「……何だい?」
「さっき、私にしてくれてたみたいに、ちょっとの間でいいから、葉月さんを庇って」
「……、何か、考えがあるんだな? 分かった」
狛は頷いた。――狛とて、おそらくこの場を離れれば毒素に犯され、少なくないダメージを負うはずだが、迷いなく駆け出した。
途端、ジュっと嫌な音が咲月の鼓膜を刺激した。
プスプスと狛の毛皮が焼け焦げる。狛は痛そうに顔をしかめるが、駆ける足を緩めることなく竜の腹の下へ潜り込み、葉月に覆いかぶさる。
咲月は、覚悟を決め、これまで以上に強く祈りながらその文字を書く。
――シゲル。雷のマークに似た形のそれを、上へ放り投げる。
軌跡の淡い光が、突如目を灼くような眩い光を放った。咲月は思わず目を伏せ、腕で目を庇う。
間髪いれず、鼓膜が破けるかと思うような大音声が、部屋に響き渡った。
苦悶の叫び。――竜の咆吼だ。
咲月はハッとして目を開ける。まだ眩いばかりの光景に目を細めながらも、それを咲月は確かに見た。
苦しげに身をくねらせる、竜の姿。
嫌々をするように頭を振り、逃げるように葉月へ突進を仕掛ける。
「葉月さん! 狛!」
思わず咲月が叫ぶ。
もう、我慢が出来なかった。――シゲルの効果だろうか、先程から感じていた空気の重みが消え、肌を灼くような痛みももう感じない。
咲月は一度は留めた足を踏み出し、急いで葉月へ駆け寄る。
竜は、頭から葉月にぶつかり――そして……
部屋いっぱいに、咲月の悲鳴が響き渡った。