無謀な挑戦
これまで、白龍の長い身体で雁字搦めに拘束されていた身体をいっぱいに広げ、宙を舞うその姿は、神々しい雰囲気を纏っていた白龍とはまた別の、しかし確かに王者たるに相応しい威風堂々とした姿をしていた。
全身を覆う黒色のウロコは、その一つ一つが艶ややかな光沢のある鈍色を宿し、美しい輝きを放つ。
竜王は、背の翼を羽ばたかせ、一気に空の高みへと昇っていく。
朔海も、それを追って地面を蹴った。即座に背の翼を広げ、竜王を追いかける。
竜王の背にあるのは、鳥の翼ではなく、どちらかといえばコウモリの皮膜に似たタイプの翼であるが、朔海のそれと比べてみると、こちらの翼が酷く貧弱なものに思える。
あちらの方は、太く頑丈そうな軸に、分厚く丈夫な皮膜が張られている上、翼角部分には鋭い鉤爪まで装備されているのに、こちらとくれば、少しでも乱暴にすればすぐにでも折れてしまいそうな繊細な軸に、障子紙のように薄っぺらい皮膜のみなのだ。
それは、まるで鳥の翼に虫の翅で挑むような。
あちらが滑らかにどんどん加速していくのに対し、朔海はその羽ばたきが巻き起こす衝撃波を避けながら、ただひたすらに、背の翼を動かし、引き離されまいと必死に追いすがる。
ぐんぐんと高度が増し、見る見る間に地上が遠ざかる。青彦たちの姿はあっという間に点となり、見えなくなる。この龍の巨体を受け入れて尚、広く見えた泉すらもマンホール大まで縮んだところで、竜王は自分のすぐ後ろに貼り付く朔海をちらりと振り返り、ニヤリと笑んだ。
竜王の翼が僅かにしなる――と、その巨体がしなやかに反り返り、くるりとトンボを切った。
朔海のすぐ横で尻尾がムチのようにしなったかと思えば、朔海の眼前に、凶悪な牙の並ぶ真っ赤な口腔が、文字通り口を開いた。
だが、限界ギリギリの高速での飛行中、即座に止まれはしない。
慌ててこちらも海老反りながら身体を体操選手さながらにひねり、全力でお口の中へまっしぐらの軌道を逸らす。
ビリっと、シャツが破ける。鋭く尖った牙の切っ先に、シャツの切れ端だけ残し、ギリギリで牙の外側を掠めた朔海に、息つく暇もなく次なる危機が襲いかかる。
――お互い、凄まじいスピードで飛んでいる最中に衝突などすればどうなるか。単純に身体の大きさだけ比べれば、ジャンボジェット機と超小型プロペラ機なみに図体の差があるのだ。しかも相手の身体はどんな鉾をも跳ね返す硬い鱗に覆われているのだから、朔海の小さく柔らかな身体などぺしゃんこになってしまうのは間違いない。
朔海は必死に翼を操り、流線型の竜の体に沿うように飛び、それを回避する。口、頭、肩、腕――と、そこまで至ったところで更なる危機が朔海をおそう。
その巨体の全体から比較して見ると、少々頼りなげに見える細い腕も、こうして間近に見てみれば朔海の胴よりも太く丈夫な腕のその先、手指から生えた上部に三本、下部に一本、合計四本の鋭い鉤爪が迫る。
大きく開かれた手が朔海に迫り、ぐわりと掴みかかってくる。
朔海は、ギリギリのタイミングで指と指の股の間をすり抜け、あわやの危機をすんでで回避し、今度こそホッと一息つこうとしたその時、頭上に巨大な影が落ちた。
ハッと振り仰げば、大きく頑丈な翼が力強く空を叩き――それと一緒に、朔海の身体をも叩き落とした。
強靭な翼によりもたらされた衝撃は凄まじく、全身の骨が砕かれ、内腑が体内でぐしゃりと潰れ、弾け飛んだ。
その強烈な痛みに視界に星が飛ぶ。
――もしも朔海が吸血鬼でなければ、この時点で即死していただろう重傷を負った身体に、竜王は容赦なく追撃を浴びせる。
竜王の翼に背を打たれ、もの凄い勢いで地上へ落下していく朔海の腹に、振り上げられた竜王の尾が強烈な一撃を加え、その身体を叩き上げた。
潰れた内腑の混じった血が朔海の口から吐き出され、くの字に折れた朔海の体が向かう先は――ついさっきギリギリで避けた竜王の手の中。
竜王は、蚊か蠅でも払うように、朔海の体を叩き飛ばした。
今度こそ、朔海の体は地上へまっしぐら、一直線に落ちていく。いつの間にかペットボトルのキャップ大まで縮んだ泉が、見る間に近づき、大きくなる。
……このままの勢いで水面に叩きつけられればどうなるか。――いくら吸血鬼とはいえ、身体ごと弾け飛んでしまえばもう自力での再生は不可能だ。
朔海は朦朧とする意識の中、激痛の走る身体に鞭打ち、翼を広げ、必死に空を掴む。下から吹きつけるように感じる、空気の抵抗で皮膜が限界まで張り、チリチリと痛むが、朔海はそれを無視してさらに翼を広げる。
ピリッと、皮膜が破けたらしい刺すような痛みが走ったと思った次の瞬間、凄まじい水飛沫を上げながら朔海の体が水面を突き破り、冷たい水の中へと沈む。氷水のように冷たい泉の水が、朔海の肌を刺す。
朔海は思わず悲鳴を上げ、ごぼりと水中で大量の泡を吹いた。
――朔海は、純血の吸血鬼だ。身体は頑丈だし、竜王の血を引くおかげで翼を持ちそれでもって空を飛ぶことができるが、残念ながら今のところ、水中で呼吸ができる能力などは持ち合わせていない。
慌てて水面を目指してあたふたするも、骨も内蔵も筋肉も多大なダメージを受けた直後だ。吸血鬼の驚異的な治癒能力も、万能ではない。
さすがにこれだけの大ダメージを即座に治癒させるには、相応のエネルギー源を必要とする。――つまり、大量の良質な血液が必要なのだ。
朔海の喉に、焼け付くような痛みが走る。――強烈な渇き。本能が、彼女の血を求めて騒ぐ。朔海が傷つき弱るたび、いつも彼女の血が心地よく身体に染み渡り、優しく癒してくれた。あの暖かくて甘い血に焦がれ、ほの暗い欲望が腹の底に溜まっていく。
だが、今ここに彼女は居ない。何より、この闘いは朔海自身の力のみで制さなければ意味がないのだ。
千々に乱れた意識をかき集め、朔海はもがいた。底の見えない深い泉の中で、朔海は無我夢中でもがき続ける。ひたすら、より明るい方を目指して重たい手足を不器用に動かす。
――息は既に限界を超えている。酸素不足で視界がチカチカしてくる。だが、この視界が暗転したら最後、――喰らわれて終わりだ。今にも消えそうな意識にしがみつき、朔海は死に物狂いでもがく。
鼓膜にかかる圧が、少しずつ、少しずつ軽くなり、ぱしゃり、と軽い水音と共に圧が完全に消え去ると同時に聴覚が一気にクリアになる。
朔海は大口を開け、新鮮な空気をこれでもかとばかりに肺へと送り込んだ。突然雪崩込んだ大量の空気に半分潰れた肺が抗議の悲鳴を上げ、盛大に咳き込んだところで、視界が不意にパッと明るい橙に染まった。
下半身を刺す冷たい水の感触。それとは別に、ただでさえ激しい渇きを覚える身体から根こそぎ水分を奪おうとでもいうような乾ききった熱が迫り――ふと見上げれば、はるか高みに居る竜王の口から、炎が吐き出され、すぐ間近にまで迫っているではないか。
朔海は吸い込んだ息をそのまま詰め、再び冷たい水の中へと身体を沈め、今度は深みを目指して再びもがいた。
刻一刻と、時が過ぎるたびに徐々に治癒は進んでいるものの、まだ砕けたままの骨が、水圧に軋み、ぼろぼろの臓腑に負荷がかかる。こみ上げてくる吐き気を堪える朔海の背後で、氷水のように冷たい水に炎が沈み、周りの水を一気に沸騰させた。
ジュワッと水泡が勢いよくはじけ、対流により巻き起こった激しい水の渦に朔海の体は否応なく巻き込まれる。
抵抗する余力のない朔海の身体は、急流に弄ばれる木の葉のように軽く押し流され、強制的に水面へと押し上げられた。
朔海は、肺に溜め込んでいた空気を一気に吐き出し、もう一度大きく息を吸い込んだところへ、再び炎が迫る。
他に逃げ場のない朔海は再び水の中へ逃げる。炎を受けた水面が再び沸き立ちボコボコと泡と湯気が立ち上る。
急激な温度変化に水面は荒く波立ち、朔海が再び押し流されて水面に顔を出したところへ更なる炎が投下される。
――それはさながら一方的なモグラ叩きのよう。……いや、実に愉快そうにその様を見下ろす竜王の顔は、間違いなく朔海を弄ぶ愉悦に満ちている。
竜王にとってこれは、朔海をいたぶるゲームでしかないのだ。
あれ程冷たかった泉の水が、徐々に生温くなってくる。――水面などはすでに熱い温泉にでも浸かっているかのようだ。朔海の全身が茹だるのはもう、時間の問題だろう。手も足も出ないとは、まさにこの事だ。
あっぷあっぷとかろうじて息こそ繋いでいるが……。さて、何時まで保つやら……。
情けないにも程がある。――結局、僕は何もできない、名ばかりの“綺羅星”でしかないのか……?
薄目をあけ、落ちてくる巨大な火球を見上げながら思う。
あれに、喰らわれたら負け。実に単純明快な規則に則った闘い。逆に、あれを喰らえば勝ち。
絶対に負けてはならない、絶対に勝たなければならない闘いなのだ、これは。――そうと分かって、その覚悟をもって臨んだはずの闘い。
もしも負ければ、自分だけではない、葉月や咲月の運命までをも道連れに、破滅へ向かうしかなくなる。
だというのにもう、身体が言う事を聞かない。
朔海は、静かに目を閉じた。まぶたの向こうのちらちら眩しいオレンジ色が、目に痛い。迫る炎の熱が肌を焦がす。
――そして。全ての感覚が消えた。