白龍の試練
背筋の寒くなる笑いを浮かべながら放たれたその言葉に、朔海は奥歯を噛み締めた。
あれに喰われたら、負け。……全てが終わる。
朔海は覚悟を飲み込み、強い眼差しで竜を見上げた。
「そんな事には、絶対にさせない。僕は、お前を制して力を得るんだ。……咲月のために」
朔海は、左手で右手首の石に触れながらはっきりと言い切った。
その朔海の宣言を聞いた白銀の龍がくすりと笑った。
「いい目をしているね。……濁りのない、澄んだ瞳。愛する者を守る、その覚悟を秘めた眼差し。成程、あれが気に入るわけだ」
竜王の体にさらにきつく巻き付きながら、白龍は牙がズラリと並んだ口を開けて微笑みらしき表情を浮かべた。
「我もあれの目を通してお前を見てきたが……、こうして直に見るのは初めてだな。確かに陰の気が少し多すぎるきらいはあるが、純粋な魔の者の心の内とは俄かには信じがたいほどに、この世界は清浄な空気で満たされておる」
「だよなあ」
白龍の言葉に青彦がうんうんと首肯を返した。
「まさかこんなに真っ白けだとはなあ。……さっきの竜王が言った通り、白龍様と契約する前の葉月の心の中の世界は、そりゃあ酷かった。あっちこっちささくれだった闇色だらけの世界に、殺気立った魑魅魍魎が跋扈するような……、まさに魔界さながらな世界だったんだぜ? まあ、今はだいぶん落ち着きゃしたが、それでもまだ闇はそこかしこに転がってるってのになあ。ここでは闇の気配すら感じないんだから、疑いたくなるのも無理はない。坊ちゃん、あんたホントに純血の吸血鬼? ってさ」
「……、の、はずなんだけどね。まあ、昔からいつも言われ続けた事だから、この返しももう幾度口にしたか数えるのも嫌になるほどなんだけど」
苦笑を浮かべる朔海に、紅姫が柔らかな笑みを向けた。
「でも、そうでなければきっと、葉月が朔海様に肩入れすることはなかったはずだわ」
そして、もう一つ。
「……いいか、オレは魔を狩る一族の守護精霊なんだ。その主が魔物だなんて、本来有り得ないんだぞ。いくら姫様の御力を得たからって、本当ならオレの力と反発してオレの糧にはなり得ないはずなのに、実際今オレは……認めたくはないが確かにお前の力で成長している。それは多分、お前が、お前だからだ」
少しむくれた声が上から降ってくる。
「悔しいが、姫様のお命と御心をぎりぎりで救いあげたのは間違いなくお前なんだ。だから、オレはお前を主と認め、お前に手を貸してやるんだ」
潮はふわっと朔海の頭上から飛び降り、そのままスタスタと泉の辺へ歩み寄ると、白龍に向けて頭を垂れ、跪いて拱手した。
「――お初にお目にかかる。我が名は潮、起源をドリアードに由来する大精霊、ローレルによって生み出された種より芽吹きし月の石の精霊」
そして、これまでの乱暴で横柄な口調とは一転、重々しく名乗りを上げた。
朔海は、潮の名乗りの文言に登場した名前に目を見張った。
「ドリアード……、に、ローレル? って、どっちも天界に住まう、神にも等しい名前じゃないか……」
それも、正しく魔を狩る者の名だ。吸血鬼である朔海にとっては天敵とも言える存在である。
「神龍たる白龍様――我、主の願いに応え、ここに伏して希う。――力を」
潮は、跪き拱手したまま深々と頭を下げる。それを、白龍は面白そうに眺めながら頷いた。
「うむ。……あれの、最期の望みでもある。いいだろう。ただし、その前に」
白龍は、竜王の身体をしっかりと拘束したままその頭を朔海の方へ向ける。
「お前が、我が力を託すに真に相応しい者であるかどうか、試させてもらおう」
白龍は、青彦と同じサファイアブルーの瞳をすがめながら、朔海の瞳を覗きこんだ。吸い込まれそうなほど深い、青。それが、朔海の視界を覆った途端、突然周囲の景色が溶けた。
それまで、滝の轟音の他はいたって静かであった周囲に、突如ざわざわと大勢の人の声が入り混じった雑音が満ちると同時に、周囲の景色はそれまでの幻想的な泉の辺の風景からは似ても似つかぬ薄暗いくせに、何か暑苦しい光景に取って代わる。
――気づけば、泉どころか竜王や白龍、青彦や紅姫までもが消え去り、朔海はその光景を見上げていた。何となく既視感があるような……。
(ここは……まさか……)
いや、間違いない。ここは、魔界にある吸血鬼の王城に数ある離宮の中でも特に特別な祭典を行う際にこうして人を集め、パーティーを催すための場所だ。
ゾクリと、嫌な記憶が頭をもたげてくる。
まるで人間の王侯貴族のごとく着飾り、紳士淑女を装う者たちから嘲笑を浴びせられるのはいつもの事だが……。朔海がこの場所への立ち入りを許されたのは過去にたった一度だけ。二百と数十年もの大昔、あの忌まわしい儀式を受けさせられた、あの一度だけだ。
朔海はふと己の姿を見下ろした。
つい先程までは、確かに簡素なシャツとズボンだけの至ってシンプルな格好をしていたはずが――いつの間にやら仰々しく吸血鬼の王族の盛装をきっちり身に纏っているではないか。
朔海は咄嗟に辺りを見回し、目的のそれを見つけると、慌ててそれに駆け寄った。
十分すぎるほど広い空間を、さらに広く見せかけるため、部屋の壁のいたるところに設置された巨大な鏡の向こう側で、驚きに目を見張っているのは――
「朔海様! 見つけましたぞ!」
驚きに目を見張る幼子の腕を後ろからいきなり乱暴に捕まえ、大声で怒鳴る男に、鏡の中の幼子はびくりと身体を強ばらせた。
「涼牙……」
かつて、まだ本当に幼かった時分に己の侍従長としてつけられていた老臣の冷め切った眼差しに射すくめられ、幼子は黙って俯いた。
「朔海様、本日は貴方様が真に吸血鬼の王族たる資格ある者である証を得る、大事な儀式の日であると、私は確かにお伝えしたはずでございましたな?」
幼子――朔海は、涼牙に掴まれていない方の手で、そろそろと己の胸を探った。
「私は、何度もお教えしたはずでございますな? 貴方様は確かに、紅龍様と、その正妃、緋桜様の間に生まれた御子にございますが、本日の儀式を経て印を勝ち得、二つ名を戴くまでは真に王子とは認められないのだと」
ああ、そうだ。――魔界唯一の絶対の掟に従い、吸血鬼の王を名乗り、その椅子に座るには相応の力を示さなければならない。そして、それは王に連なる名を負う者にも課せられる義務。
それが、既に育ち切った大人同士の事であれば話は簡単だ。戦って勝ち、衆目に己の力を存分に見せつけてやれば良いのだから。
だが、いくら吸血鬼とはいえ、生まれてたった数年の幼子にそれを要求するのはさすがに無理であるので、その分、吸血鬼としての資質――身体の頑強さを、その“儀式”で証明しなければならないのだ。
そう、覚えている。忘れたくとも、忘れられない記憶。
その“儀式”が恐ろしくて、まだ幼かった朔海は、招待客に紛れて逃げようとした。王族だなどと、認めてもらえなくてもいい。――あの時、朔海は本気でそう思っていた。周りの大人の言うことがいまいち理解できず、ただひたすらに自分の存在に違和感を覚えていたあの頃。
既に、自分が王族として相応しくない事くらい百も承知であったから。既に周知の事実であるそれを、わざわざ儀式で改めて証明する必要性が感じられなかった。
――儀式に失敗すれば、後には死が待っている。
それは、別に構わなかった。こんな世界に生きていたいなどとは思えなかったから。けれど、わざわざ痛い思いをしたいとも思えなくて、つい、逃げ出したのだ。
けれど、結局はこうして早々に見つかり、掴まれた腕を引っ張られ、無理やり引きずられるようにして祭壇を登らされ、その情けない姿に玉座の王と王妃は顔をしかめた。
……正直、その場の誰もがその時は思いもしなかったのに違いない。このいかにも弱々しい幼子がまさか、この儀式を耐え抜き生き残るなどとは。
朔海は、儀式の間中、みっともなく泣き喚き、暴れた。王や王妃の渋面がより深くなるのも構わずに、散々醜態をさらしたが、それでもこうして生き延びた――故に、今、自分は綺羅星の名を受け、第一王子の座を得ているのだ。
正直、思い出したくもない記憶であるが――。
だが、しかし、この儀式を耐え抜いたからこそ、自分は咲月に会う機会が得られたのだ。もしもこの時、朔海が生き残れていなかったなら……。咲月も、あの夜、あの寒く寂しい場所へ置き去りのまま、儚くなっていただろう。
儀式から逃げれば、もう死以外の選択は許されない。朔海は、涼牙の腕を無理やり振り解き、自らの足で祭壇を登った。後ろから浴びせられる嘲笑も、目の前の王や王妃が向ける冷ややかな眼差しも跳ね除け、その場に立った。
玉座よりは若干低く設えられた壇上には、青い炎をたたえる器が、一つ。その中で、その忌まわしい儀式の“主役”が炙られ、赤々と燃えている。
朔海は、記憶通りに周囲に控える侍従達が寄ってたかって来る前に、自ら盛装を解き、上半身の肌を衆目に晒す。
見下ろしてみれば、やはりというか、あるべきはずの場所にそれはなく、まだまっさらな肌があるのみ。
――今から、それを受け入れなければならないのだ。
吸血鬼の王を継ぐ名を。その、証の印を。
その名前のせいで、朔海は咲月を己の事情に巻き込むことになる。だけどもう、その名前にも、力にも、振り回されるばかりではいけないのだ。それでは、咲月を守り通すことはできないから。
受け入れ、受け止め、自ら制して逆に喰らってやるくらいの意気込みでなければ、この苦しいばかりの世界に咲月を招く資格はない。
朔海は一度、大きく深呼吸をし、そして一歩、炎へ近づいた。炎のすぐ傍に立つ儀式の催者が恭しく炎の中から真っ赤に色づく拳大の銀の塊を取り出した。
かつて、泣いて暴れて嫌がる朔海を周囲の侍従達が取り囲んで押さえ込み、それを無理やり胸に押し当てられた時の衝撃的な激痛の記憶が蘇る。
――紅狼の一族を人界から締め出す術式を行った際の痛みも、先程葉月の血を得た際の痛みも、相当な激痛であったが、それでもあの時の痛みと比べればさほどのものでもない。……そう思える程の痛み。
直方体の形をした銀の塊の、その下部の一面には、細かい彫刻が施されている。――その図柄は、王家の紋章。つまりは、判なのだ。それを熱して、肌に押し当てる――焼き印なのである。
だが、ただの火傷など、純血の吸血鬼にとっては大した怪我ではない。よほどの大やけどでもない限り跡も残さず即座に治癒してしまい、普通のやり方では全く意味をなさないがため、銀を使うのだ。
――銀は、悪魔をも滅ぼす力を持つ故に、その力を借りた吸血鬼の驚異的な治癒力をも無効化させてしまう。銀の刃を心臓に突き立てられれば、即死は免れない。
そんな、吸血鬼にとって忌むべき素材で作った焼き印で負わされた火傷の痕は、一生残るが――。
……その瞬間の痛みは、言葉では言い表すことのできない程の激痛、並の吸血鬼では耐え切れず狂うものも少なくない。――ましてや、幼い子供であれば……。
事実、この儀式によって、朔海は幼い異母弟妹たちを幾人も失っている。痛みでショック死した者、痛みに狂い、王族不適格と見なされ処刑された者。
だが、その激痛を耐え抜いた後も、まだ油断はできない。
何しろ、銀によって治癒能力を著しく抑えられている状態なのに、傷口に滲んだ血と混じった銀の成分が血管に入り、体内を巡れば、魔力と反発し合い、激しい拒絶反応を引き起こすのだ。……そしてそれは、容赦なく体力を削り取っていく。結果、耐え切れなかった者も、決して少なくない。
そんな過酷な儀礼を、まさか朔海が耐えきるなどとは、思いもしなかっただろう。散々醜態を晒した挙句に、生き残ってしまった朔海を見る玉座の主たちの苦々しい顔は、忘れたいと思っていたはずが、今も容易に思い出せる。
何故、こんな激痛に耐えながら、あんな目を向けられ、嘲笑を浴びせられながら、その名を得なければならないのか。
今なら、あの時の自分に答えを聞かせてやれる。――全ては彼女と共に生きる未来を勝ち取るためなのだと、そう言えるから。
朔海はその印を自ら受け取り、もう一度、深呼吸をする。襲い来るであろう苦痛に備え、歯を食いしばり、腹に力を込める。ひと呼吸の後、それを胸に押し当てた。
その瞬間、脳天を突き破るような衝撃的な痛みを伴う熱さが襲う――その痛みを覚悟し息を詰めた朔海は、ふと身体から力を抜いた。
目に映る景色が再び解け、過去の記憶の世界から元居た泉のほとりの風景にすげ変わり、耳障りな嘲笑も、滝の音へと変わる。手に握りしめていたはずの印はいつしか消え、朔海の装いも元の簡素なものへと変わる。
「――お前の覚悟、しかと見届けた。この白龍、お前をこの力に相応しき者と認めよう」
朔海の視界に再び現れた白銀の龍の姿が、その言葉を最後に見る間に溶けていく。ほろほろと、その姿が幻であったかのように光の粒となり、それらが潮の頭上に降り注ぐ。
潮は立ち上がり、垂れていた頭をあげて空を振り仰ぎ、両手をいっぱいに広げてそれを全身で受け止める。
降り注ぐ光は、潮の身体に触れると儚く消えていく。――が、徐々に潮の身体を光の膜が覆い始める。
白龍の姿が完全に溶けて消え去り、その光の粒が潮を覆う光となりかわると、潮は再びその場に跪き、頭を垂れた。
「我が願いを聞き届け、ご加護をお与えくださいましたこと、御礼申し上げます」
朔海も、潮の礼に合わせ、頭を下げる。
「――さて。余興は済んだか?」
泉の中、白龍の戒めから解放された竜王が、背中の翼をいっぱいに広げ、バサリと羽ばたいた。見るからに重たそうな巨体が、ふわりと宙に浮かぶ。
「あの白蛇の鬱陶しい戒めから解放された今、わしはすこぶる機嫌が良いからの。……少し遊んでやろう。のう、“綺羅星”よ」
竜王は大口を開けて高笑いしながら朔海を見下ろした。
「あの小蛇の力が如何程のものか。せっかくの機会だ、存分にわしを楽しませるがいい」
竜王は、実に楽しそうに微笑んだ。