魔界の者の目
――息子。
目の前の獣は、確かにそう言った。……この間聞いた話では、彼の父というのは、吸血鬼の中でも力ある一族の長だったはず。
では、この獣は。
「……紅狼」
葉月は、普段の穏やかな彼とは似ても似つかぬ殺気のこもった低い声でその名を口にした。
「半端者の身で一族の長たる我が身を呼び捨てにするでない」
獣は、葉月を汚いものでも見るかのような目つきで眺めながら命じる。
「全く、相も変わらず無礼な。――本来であれば、そのような無礼を働いた時点でくびり殺してやるところだ。……だが、お前の持つ血はそのように無為に流されて良いものではない、至高の宝。お前のような半端物が我が息子だなどとは本来であれば認めぬものを、こうしてわざわざ自ら出向いてきてやったのだ。さあ、ありがたく光栄に思え。この我に、吸血鬼の王となるこの我の贄となれることを!」
その傲慢な台詞を、紅狼はごく自然に放った。絶対的な力を有し、それでもって周囲を圧倒し屈服させることに慣れた、傲慢な支配者。
そのセリフで、咲月はこの目の前の獣が何を求めてここへやって来たのかを理解した。
――彼は、求めているのだ。葉月が持つ、力を。葉月がほんの十数時間前に朔海に渡したその力を、彼もまた欲しているのだ、と。確かに葉月からもそう聞いていた。そして、その時彼はそれを明確に拒絶した。
『……私の力も、命も、全て私の物であり、あの男の物ではない。――あの男の良いようにはさせたくない……あの男にだけは、何一つくれてやりたくはありません』
と、そう明言していた通りに、葉月は怒りのこもった声でそれに答えた。
「――ふざけるな」
葉月が静かに眼鏡を外し、卓の上へ置いた。……その目は、常の穏やかな色から真紅へと色を変え、血濡れた殺気の詰まった鋭い視線を紅狼へと放っている。
「残念ながら。あなたを父と認めたくないのは私も同じ。――生物学的な繋がりを否定することはできませんが、それ以外であなたを父と認めるなど、怖気が立つ。あなたは、ごく当たり前の生活を送っていた私の母を襲った。……まあ、吸血鬼なのですから血を吸うため狩りをするのは当然。ですが、あなたは血を喰らうだけでは飽き足らず、母を慰み者にした。――結果、私が……化物の仔が生まれ……母や、村の者らから忌まれる存在になってしまった家族たちは、最後の瞬間まであなたと私を恨みながら逝ったというのに。……憎しみが深く刻み込まれた血ゆえのこの力が欲しいがゆえに私を息子として認める? ――ふざけるな。この憎しみも、力も、全ては私のもの。少なくともあなたにだけはくれてやりたくありません。ええ、何一つ。あなたに渡せるものなど存在しませんよ」
だが紅狼は、葉月のその怒りを一笑に付した。
「はっ、矮小な人間の血を引いた半端者の分際で何を馬鹿なことをほざいておる? 弱さは罪。弱い者は強い者に喰らわれるのが宿命。抗う力を持たぬお前に、拒否など許されてはおらぬ。――お前に許されているのは、大人しく我が牙の餌食となる未来のみ。……そこな娘と、犬ころ共々、な」
弱肉強食こそが魔界唯一の掟。――朔海や、葉月からそう何度も聞かされていた通り、それが当然だと信じて疑わない紅狼のセリフ。
まさに、『魔界の住人』たる者のセリフだ。
今の咲月に、この巨大な狼と戦う術などなく。葉月の顔色は未だ蒼白なまま。――頼みの綱は狛なのだが……ここへ来るまでの揉みあいで、既に彼の体躯のあちこちに血が滲んでいる。何しろ、相手が相手だ。吸血鬼一族の中でも特に強大な一族の長なのだ。
絶体絶命、という四字熟語が咲月の脳裏に浮かぶ。
「でも……どうして……? 朔海の結界は?」
あれだけの負荷を承知で行った術式は、こういう事態を防ぐためのものであったはずなのに。
「まさか、朔海の身に何か……?」
「いえ、結界自体はまだ確かに有効なままですから、それはないはずです」
咲月の不安を、葉月が打ち消す。
「ですが、だからこそ……。どうして、どうやって結界をくぐり抜けてきた?」
葉月の疑問に、紅狼は失笑を漏らしながら答えた。
「……愚かなのだよ、お前たちが。お前、我らが何の血を引く一族か忘れたか?」
氷の魔術を得意とした魔狼の血を取り込んだ一族、アルフ族。それが彼らの、そして葉月の血の半分を占めるもの。その血を持つ者が、魔界から出ることを禁じた結界。
「確かに、魔界から直接人間界へ来ることはこの我でもできなんだ。……次元の狭間を経由しても、こちらへ来ることは叶わなんだ。だが。お前が一つ失念してくれていたおかげで、こうしてこちらへ来ることが出来たのだよ」
狼は、嫌らしくニヤリと笑った。
「氷の魔術を得意とした魔狼。……その名を、お前は知っているか?」
紅狼の問いに、葉月は悔しげに牙を噛み締めた。葉月にとって、己の血の半分、彼ら一族の血はおぞましいものでしかない。故に、それについてこれまであえて詳しく知りたいなどと思ったことは無かったのだ。
「――フェンリル。その名を、お前は知っているか?」
紅狼の問いに、小さく答えたのは葉月ではなく咲月だった。
「北欧神話に出てくる魔狼……。ラグナロクのきっかけとなる事件を起こすと予言され、忌み嫌われた……」
紅狼は、笑みを深めた。
「その通り。名は魔狼とあるが、れっきとした神々の眷属なのだよ、フェンリルは。まあ、彼らには忌み嫌われておるでの、天界へ一歩でも踏み入れば、たちまち追い回されるでの、長居をしたい場所ではないが……。出入りくらいは、可能なのだよ。我ら一族のものならば」
つまり、天界を経由してきたのだという事か。
「まあ、最も。仮にも神が相手の追いかけっこだ、それに耐えうる者はうちの一族中でもそう多くは居ない。そしてそ奴らは先日の失態で現在謹慎中ときた」
だから、自身が赴いてきたのだ、と笑う狼の肢体は、成程、赤毛に埋もれて目立たないが、よく見るとところどころ乾いた血がこびりついている。あれが、紅狼の言うところの『神々との追いかけっこ』で拵えた傷なのだろう。
「おかげで、喉が渇いた。……主菜に手をつける前に、まずは前菜といこうか」
ぺろりと、鋭い牙が並ぶ口を舌で舐めながら紅狼は品定めでもするように、咲月をじっくり上から下まで眺め回す。
「……ほう、これはなかなか。見目はイマイチだが、血の香りは一級品だ。相当な上物ではないか」
狼はうっそりと目を細め、嬉しそうに笑う。
その視線を受けた咲月は、背筋を悪寒が這うのを感じた。それは、葉月や朔海には感じたことのない嫌悪感。――あの術式を行った直後、朔海が咲月に餓えた瞳を向けた時でさえ、こんな嫌悪を抱くことはなかったのに。
咲月をただの餌としてしか見ていないその目こそが、朔海や葉月の嫌う、魔界の者の目なのだ。
そして今、咲月には魔界の掟に則り、それに抗う術がない。どんなに心が拒絶しようとも、力で組み伏せられれば屈服する他ない。それが、どれほど理不尽な事であっても。
だから朔海は多大なリスクを負ってまでも力を求めた。
――それを、咲月も分かっているつもりだった。
咲月を虐げる人々に抗うだけの力を持たないがゆえの数々の理不尽と、それに伴う屈辱を、咲月もまた味わってきたから。
けれど今、こうしてその目に晒され、それがまだまだ甘く温い世界での出来事だったのだとまざまざ思い知らされる。
確かに、辛い仕打ちを受けてきたけれど、今こうして咲月は生きている。……何故ならこれまでの加害者は、人間社会の中で当たり前の生活を送る者たちだったから。
一定以上の過剰な暴力を振い虐待したならば、流石に警察ざたになる。……そうなれば、困るのは彼らの方だったから。
そう、社会常識と法律というルールに従い、最低限度ぎりぎりで、咲月は守られていた。
だが、魔界の住人であるこの紅狼にそんなものは通用しない。彼が何をしようと、責められるのは弱い咲月の方で、紅狼が責められることは一切ない。それが、魔界の掟。
「――させません」
葉月はその視線を遮るように咲月と紅狼の間に割って入る。
「彼女は――咲月くんは朔海様のもの。私は彼から、留守のあいだの彼女の護衛を仰せつかっておりましてね。――黙って見ているわけにはいかないんですよ」
彼は腰を低く落とし、いつでも動けるように臨戦態勢を整えながら言う。
適うはずがないことくらい、咲月にも分かる。無茶だ。ただでさえ無理のある対戦カードだというのに、葉月のコンディションは最悪、しかも咲月を庇いながらなど、無茶にも程があるというものだ。
しかし現状は、無抵抗に喰らわれるか、無茶でもなんでも抵抗を試み、僅かな希望に縋るかのどちらかしか選択肢はないのだ。そして、葉月は後者を選んだ。
「ふん、半端物のくせに我に歯向かうか、身の程知らずめ。ならばその報い、自らの身体で味うがいい」
紅狼は、さも面倒くさそうに言うと、軽く床板を後足で蹴りつけた。
すると、巨躯はその重さを感じさせないしなやかな動きで床から浮いた。紅狼は、ゆったり優雅に葉月に飛びかかり、牙を剥いた。もしも避ければ、牙は葉月を通り越し、咲月に向かう。
葉月はさらに低く身をかがめ、紅狼の腹目掛けて渾身の一撃を繰り出す――が、紅狼はニヤリと笑い、空中で身をひねってそれを避け、葉月の背後に着地する。
そこを今度は狛が飛びかかり、牙を剥く。身体ごとぶつけてなぎ倒し、噛みつこうと体当たりを試みるも、紅狼は巨躯に似合わぬ軽やかなステップで躱す。
――狛とて、相当な巨躯であるのに、こうして見ると紅狼より一回りも二回りも小さく見えるその身体に、逆に体当たりを受け、狛の身体が跳ね飛ばされる。
これまた先日直したばかりのキッチンを狛の身体がなぎ倒していく。
だが、そうして狛が僅かに稼いだ隙に葉月は再び咲月と紅狼の間に割って入ると、
「――咲月くん、少々、失礼いたします」
小さく呟き、葉月はひょいっと咲月を抱え上げ、キッチンを飛び出した。いくら膂力に優れた吸血鬼である彼とはいえ、今の体調では人一人抱えるのはかなりの負担のはずが、咲月を横抱きにしたまま、いくつも扉を乱暴に蹴破り、廊下をひた走る。
最後に、診療所の事務所の扉を蹴破ると、あの地下室の階段を駆け下りた。
咲月の目には何一つ映ならない暗闇の中、葉月が重たい扉を背中で押し開ける音が響いた。
部屋の中も、ここまでの通路と同様、暗闇に閉ざされ、何一つ咲月の目には映らない。そんな中、葉月はそっと床へ咲月を降ろした。
すぐさま、2人を追って紅狼と、さらにそれを追う狛の息遣いが迫ってきた。
「――狛!」
葉月が叫んだ。
「……咲月くん。そこから、決して動かないでくださいね」
次いで、咲月にそっと囁いた。
「大丈夫、決して君を朔海様以外に触れさせたりはしません。必ず、守り通してみせましょう」
――ひとつの、誓いを。
「……この、命と引き換えにしても」
その囁きに、咲月はハッとして彼の顔があると思われる辺りを見上げた。――猛烈に、嫌な予感がする。駄目だ、彼をこのまま行かせてはいけない。
しかし、無情にも彼の足音はすぐさま咲月から遠ざかっていってしまう。
闇以外何も映さない咲月の目では、最早彼を止める術がない。
代わりに、狛が咲月を無理やり床に伏せさせ、その上にのしかかる。
「ちくしょう、せめて今でさえなければ、もう少し他にもやりようがあったものを……! ちくしょう!」
狛の身体が、小刻みに震えている。
咲月の中の嫌な予感はだんだんと確信へと変わる。
「……狛、葉月さんはいったい何をするつもりで――」
咲月の問いが、途中で途切れた。……突如顕現した、途方もない邪気と、殺気に満ちた何かが、空気を圧倒する。直後に轟いた咆哮が、その正体を咲月に悟らせた。
まるで象の鳴き声のような、はたまた恐竜の鳴き声の再現のようなそれ。
少なくとも狼の声ではないそれは――。
「白露……、ンの馬鹿野郎めが!」
「や、ダメ、ダメです……だってそんなの……や、嫌、嫌、いやあぁぁぁぁぁ!」