招かれざる客人
くつくつと、鍋の中で米が煮える。ふわっと出汁の良い香りが漂うそれを、そっと茶碗に装い、上からミツバを散らす。
――卵がゆ、だ。
「ああ、大したことはありません。少し休めばすぐ治りますから」
と、苦笑を浮かべていたが、それにしても帰ってきた彼の様子は尋常ではなかった。
帰ってくるなり、辛そうに玄関先に座り込んだ葉月。ただでさえ白い肌は青ざめ、見るからにやつれた様子だった。
2人分の食事の支度を整え、咲月は葉月の部屋の扉を叩いた。
「あの、すみません。食事の支度ができたんですが……、食べられそうですか?」
控えめに声をかけると、しばらくして扉が開いた。どうやら、眠っていたらしく、髪が僅かに乱れている。彼は眼鏡をかけ直しながらかすかに笑みを浮かべた。
「申し訳ない、つい眠り込んでしまったようで。……すみません、顔を洗ってきますので。咲月くん、先に食べていてください」
まだ青白いままの顔で、葉月は言った。
「あの、本当に大丈夫ですか? もし良かったら部屋に食事を運びますけど……」
彼がここまで憔悴した状態である理由は、朔海に彼の力を分けたからだ。
今、この家に朔海は居ない。受け取った力を完全に制御できるまでは、当分戻って来れないのだという。一度暴走させれば凄まじい被害を及ぼす力を、コントロールできないまま日常に戻ることは許されない。
魔力は、毒。強力な力は、それだけ強烈な毒となってその身を蝕む。今頃朔海はその苦痛とたった一人で向き合い、闘っている最中であるはず。
そして、力を譲った葉月の方も。――心臓から直接血を、と、口で言うのは容易いが、実際にそんなことをされれば、それがもしただの人間であれば生きてはいられない傷を負ったのだ。
葉月はただの人間ではないが、半分は人間の血を引く彼は、純血の吸血鬼である朔海に比べればその回復力ははるかに劣るのだと聞いた。血液パックから得られる程度の力では、足りないのだ。
傷自体は既に塞がっているものの、傷を癒して消耗した分の回復がひどく遅い。
彼が帰ってきてから既に半日が経過しようとしているというのに、彼の顔色はさっきとほとんど変わっていない。身体は相当辛いはずなのに、葉月はそれでも柔和な笑みを浮かべる。
「大丈夫ですよ。……まあ、酷い有様であるのは確かですが、日常生活を送るのに支障はありません。今、異界からのお客と戦え、というのはさすがに無茶ですがね。幸い、朔海様の結界が効いているので、当分は迷惑な客がやってくることはありませんから」
こういう状態になるのを見越してだろう。今日、明日と医院は臨時休業にしてある。だが、今日一日ではほとんど回復した様子が見られなかったというのに、明日いっぱいで回復できるとは思えなかった。
だが、葉月は相変わらず笑みを浮かべたまま。
「大丈夫です。彼らは戦いに来るのではなく、治療を受けに来るんですから。言ったでしょう? こちらで生活しているものたちは、きちんとこの世界の常識を理解していますから、馬鹿な真似をするような輩はほとんど居ません。いざとなれば狛も居ますしね」
そう言って、咲月を促し歩き出す。
――葉月と2人きりの食事は、そういえばあれ以来だ。朔海が、一時期ぱったりこちらに姿を見せなくなったあの時。朔海が、例の命令を下されたあの時からまだそう日は経っていないというのに、なんだかすごく久しぶりに思える。
それくらい、この家に彼が居るのが当たり前で、自然なことに思えていた。けれど、実際には彼の自宅は別にあり、咲月がこの家へ引き取られてくるまではあれ程頻繁にここを訪れるような事はなかったのだという。
葉月と違って純血の吸血鬼である彼には、こちらの世界に長く留まるのは楽なことではない。だから、せいぜい月に数回やって来ては、その日のうちに異界へ帰るのが常で、長く滞在しても2、3日程度だったのだと聞いた。
ちなみに。
「王子殿下が遊びに来た日にゃ美味いメシにありつけるんだが、それ以外の日は、こいつの作るクソまずいメシで我慢するしかなくってな。いやぁ、そういう意味で俺は王子殿下の訪れを大いに歓迎してたんだ」
とは狛の言である。
逆に、葉月があちらへ訪ねていく場合もあったのだという。
「こちらの世界では手に入らない珍しい薬やその材料などを求めに、ね」
そうして、葉月があちらの世界を訪ね、朔海と会っていた。まさにそんな時だったのだという。咲月を、その世界で見つけたのは。
「あちらの世界に行くことは、普通の人間には不可能な事。……どうしてあんな場所にあなたが置き去りにされていたのか、未だに分かりませんが、何か訳ありなのは間違いないでしょう」
朔海が咲月にその日の出来事を打ち明けたのだと聞いた葉月が、話してくれたこと。
「……私は、それに朔海様を巻き込みたくなかった。ただ、それだけの理由であなたをこちらの世界の施設に預けるよう朔海様に進言したのは私です。結果、あなたを辛い目に合わせてしまった。……異界は、力のないものには居心地の悪い世界ですが、朔海様はああいう方ですからね、彼の庇護の内で育ったなら、きっと幸せに暮らせていたでしょう。……少なくとも、咲月くんをこれまで苦しめ続けた痛みを感じるようなことは絶対になかったはずです」
そう言われて、ついその光景を想像してしまった咲月は、あまりに容易にその場面が頭に思い浮かび、苦笑した。彼の見目では父というより兄といったところか。確かにベタベタに甘やかしてくれただろうと思われた。それこそ惜しげもなく愛情を注いでくれただろう。
「咲月くんには本当に申し訳ないことをしてしまいました」
葉月は頭を深く下げ、咲月に謝った。
けれど、咲月は首を横に振った。施設に預けられたから、不幸だったわけじゃない。ただ、不運だっただけだ。
「施設にいた頃は、特に不幸だと思うようなことはなかったし、最初に引き取られた家にいた頃は、むしろ幸せだったんです。……ただ、その後が――、とにかく、運がなかっただけで」
もちろん、ただ運だけのせいにして片付けるにはあまりに辛すぎる過去の記憶だが――。
咲月は、粥を啜りながら、空の席を眺めて思う。今だから、思えること。……あれは、今とこれからのために必要だったのだと。
人間というものは得てして、幸せに浸っている間はそれが幸せだと気づかない。それを失い、不幸を味わって初めてそれが幸せだったのだと知る。……そういう生き物だ。
もしも普通の家でごく当たり前に育っていたら。
例えば、紅姫に初めて彼らの真実を告げられた時。例えば、傷ついた朔海を前に彼が吸血鬼である真実をまざまざと見せつけられた時。何より、今。
非常識な現実を前に、一体自分はどんな反応をしただろう。……やはり、よくある小説の主人公のように現実逃避に走ったかもしれないし、それこそ彼らを退治してみようとか、ここから逃げ出そうとしたかもしれない。
今、突きつけられている現実。――吸血鬼になり、朔海と共に生きる未来を選択しない限り、明日はない、という現実を前に、自分はそれを不幸だと思ったかもしれない。
だけど、今の自分はそうは思わない。本当の幸せがどういうものなのか、よく知っているから。……何が不幸なのかもよく知っている。痛みも、辛さも身をもって知っているから。だからこそ、朔海が抱える痛みに触れ、彼を守りたいと思えた。彼が何者だろうが、構わない。彼と居られる事が幸せなのだと思える。
――だから。あれは必要なことだったのだと。今なら思える。今を得るための代償だったのだと。そして、葉月も、朔海もそれぞれ痛みを抱えながら、未来のための代償を支払ったのだ。
支払った代償分、しっかり元はとらねばなるまい。
遅れて席に着いた葉月も、ちらりと空の席を見やった。
「……何だか、不思議な気分ですね」
そして、ポツリと呟いた。
「ついこの間までは机上の空論でしかなかった話が、とうとうここまで現実のものになるとはね」
そう、あとは咲月が吸血鬼となれば、全てが現実のものとなる。
と、そこでふと咲月は気づく。
「あれ、そういえば……」
「吸血鬼は、人間を吸血鬼へと変えられる」
紅姫は言っていた。
だが、その具体的な方法については、そういえばまだ一度も聞いていなかったことに気づく。
今日は一度も紅姫も青彦も姿を見せない。葉月の一部だという彼らだ。葉月の具合が悪いことと、なにか関係があるのだろうか?
「……あの、葉月さん」
咲月は、それを尋ねようと口を開いた。
――その時。
轟音が、轟いた。
ガラスが割れ、飛び散る音。重機で壁を破壊したような破砕音。その衝撃で家が揺れ、驚いた拍子に咲月の手から茶碗がこぼれ、床に落ちて割れた。
次いで、狛の吠え声が聞こえた。
「――まさか。……何故!?」
愕然と、葉月が目を見開き、呟いた。
「朔海様の結界は、未だ有効であるはず。……間違いなく、今も存在し、機能しているのに、何故!?」
激しく争い、揉み合う音が徐々に近づいてくる。片方は、狛。――では、もう一方は……?
葉月は席を立ち、分厚いカーテンのかかった窓辺に近づき、カーテンごと窓を開けた。
自らの牙で指先を咬み切り、先日朔海がしてみせたのと同じように血色のコウモリを外へと放つのと、食堂の扉が破壊される音が響いたのは、果たしてどちらが先だっただろう。ドアは一瞬にして木屑と化し、先日直したばかりのキッチンを豪快に破壊しながら、狛の巨体が床を滑った。
狛は床に爪を立て、勢いを殺して立ち上がり、たった今自らの身体でぶち破った扉の向こうを睨みつけながら牙を剥いて呻る。
――狛の視線の先にいたのは、これまた狛に勝るとも劣らない巨体を持った獣。
頭についた一対の三角耳。飛び出した鼻面に、鋭い牙を覗かせる口。四足で歩く肢体に、尻から生えたふさふさのしっぽ。
その形状は、狛のそれらと酷似しているが、その体毛の色は目に痛いほどの赤毛だ。
犬。狼。見分けはつかないが、どちらにしても、こんな奇抜な色をしたそれらを、咲月は知らない。
その獣を、葉月は咲月が見たことのない程恐ろしい目つきで睨み据えた。
獣は、それをニタリと嫌な笑いを浮かべながら眺めてから、嫌味ったらしい声で言った。
「久しいの、我が愛しき息子よ」