牙の洗礼
「――咲月、血を貰ってもいいかな? パックの血ではなく、君の――咲月の血が欲しい」
咲月が一番恐れていた一言ではなく、今一番望むセリフ。
ようやく、その言葉を聞けた咲月は、素直に嬉しいと感じた。
――分かって、もらえたのかな?
まだほんの少し……一抹の不安はあるものの、朔海の言葉にようやくもどかしさも鎮まり、咲月はホッと息を吐く。
もちろん、咲月がそれに否と答えるはずがない。
咲月は躊躇いなく、朔海の前に手を差し出した。
今の自分に朔海のような力はないけれど、朔海にとってこの血が“力”となるならば、少しでも多くの効果を発揮し、彼の“力”となれたらいいと思うから。
朔海は、その差し出された左の手首を右手で捕まえ、手のひらを上に仰向けにさせた状態で自らの口元へと運び、手首から小指の付け根にかけての手のひらの柔らかい部分に唇を寄せる。
覚えのある、暖かく湿った感触に、そろりとなぞられ、怖いのとは違うゾクゾクする感覚が咲月の背筋を伝っていく。
この間のように――先程のように、そこに傷はない。まっさらな皮膚の上を、朔海は数回、試すように場所を変えながら甘噛みを繰り返す。
怖いとも、嫌だとも思わないけれど、やはりその妙に艶かしい仕草に心拍数は跳ね上がり、羞恥がこみ上げてくる。
2本の、固く尖った牙の感触が、ある一点で留まり、何かを確認するように同じ場所を何度か甘噛みをし――。
彼が、これから何をしようとしているのか。考えるまでもなく、明らかだ。咬まれても構わない、とは言ったけれど。……さすがに緊張せずにはいられない。
肌に触れた牙に、それまでとは明らかに違う力が加わり、皮膚に強い負荷がかけられた時、咲月は思わず息を詰めた。
甘噛みされるのとは違う、鋭い痛みとともに皮膚が破られ、牙が肌の下へと埋まっていく。
そうして穿たれた傷口から、鮮血が溢れ出し、朔海はすかさず傷口に強く吸いつき、啜り上げた。
じんじん、じわじわと痛みが広がり、傷口に刺激が加わるたび、また新たな痛みが生まれる。
朔海が一息、血を啜り上げるたび、やけにリップ音が咲月の鼓膜を強く刺激してくる。
傷口を湿す唾液が、次第にじんわりとした痺れをもたらし、少しずつ痛みがぼかされていく。
まるで熱に浮かされたように潤む朔海の目がうっとりと細められる。
新たな痛みの波と、痛みをぼかす痺れの波が交互に咲月の神経を刺激し、それらが徐々に拮抗していく。
――ぼかされた痛みが、次第に何か違う感覚へと変換されつつ……あるような……。
だが――幸い、と言うべきなのだろうか。その“感覚”を理解する前に、朔海は傷口から牙を抜き、穿たれた傷をぺろりと舐め上げた。
傷はたちまちのうちに消え、ドキドキと、一向に治まらない心拍と痛みの余韻だけが僅かに残る。
朔海の手の傷は全て癒え、顔色も平時よりも遥かに血色が良くなる。――心なしかただでさえ綺麗な彼の肌のツヤとハリまで向上した気がする。
とりあえず、効果は上々のようだが――……心拍は、まだ当分収まってくれそうにない。
……今は、まだいい。でも、きっとまたあとで一人になったら憤死するはめになるだろう。咲月はほぼ確信に近い予感を覚えながら、朔海を見上げた。
「もう、いいの?」
「ああ、十分すぎるくらいだよ。――ありがとう、……助かった」
ありがとう、と感謝の言葉を朔海から貰った咲月の表情筋は自然と緩み、やわらかい笑みを浮かべながら喜びを噛みしめる。
朔海は、それを見ながらばつが悪そうに視線を泳がせた。
「その……、ごめん。……その、痛かったんじゃないかと……」
確かに、咬まれた際に感じたそれは、痛くなかったと強がるには少し無理がある。
「大丈夫だよ。……痛くなかったわけじゃないけど、我慢できない程じゃないし。朔海がきちんと回復してくれたなら、このくらい、何てことないよ」
だけど、そう、朔海が傷ついたままなのを何もできず見ているだけより、余程も気分が良い。
気分が少し落ち着いてきたところで、咲月はふと空腹を思い出した。
改めて時計を見上げると――お昼を、だいぶ過ぎている。
「何か、簡単につまんで食べられそうなもの用意しようか?」
そういえば、買い物の荷物を玄関に放り出したままだったことを思い出す。
――生鮮食品は諦めたほうがいいかもしれない。
「ええと、稲穂様は……?」
「ふむ、そうだな。アタシらにとって食事は嗜好品でしかないんだが……。少々塩っけのあるものを口にしたい気分ではあるな」
稲穂は、生暖かい目をこちらに向けながら、手で空を仰ぎ、暑がる仕草をしてみせた。
「まあ、仲良きことは良きことだがね」
稲穂は、再び気安い態度でからかうように言った。
と、ガチャガチャと忙しない物音が医院の方の玄関から聞こえた。
「――申し訳ございません、戻るのが遅くなりました」
すぐに玄関が開く音がして、葉月の声が飛んできた。
「ああ、葉月殿か。いや、こちらこそ突然すまなかったね。なにか大事な用を邪魔したのでなければ良いのだが」
「いえ、大丈夫です。ただ、途中で抜けてくるのに少々難儀致しまして……本当に申し訳ない。――それで、瑠羽ちゃんは……」
「ああ、王子殿下に診てもらって、大体の処置はしてもらったところだよ」
「魔力が暴走していて、一刻の猶予もならない状態だったから、僕が処置した。――今は、僕が瑠羽ちゃんの魔力を抑えて、彼女の回復を待っているところだ」
葉月は、朔海の報告を聞きながら、ざっと瑠羽を診る。
「ああ、確かにこれは朔海様でなければ……私ではどうすることもできなかったでしょう」
葉月は頷いた。
「……ですが朔海様。――その、お体の方は?」
葉月は心配そうに、朔海の様子をうかがう。
「大丈夫だよ。……たった今、咲月に血を貰ったばかりだから」
「咲月くんの血を……? まさか、朔海様――」
葉月の言葉に、朔海は頷きを返した。
「……この間は、狛に過保護だって言われたけど。今度は無責任だって稲穂様に叱られた。……さすがに、反省したんだよ。少なくとも僕に咲月を手放すって選択肢はありえないんだから」
朔海は、苦笑を浮かべる。
「咲月が選んでくれたんだ。稲穂様のところで預かってもらう事より、僕と居ることを。なら、僕は全力でそれに応える責任がある」
「――だからもう、僕は迷わない。葉月、例の件はどうなってる?」
「はい。今月中にはなんとかなりそうです」
朔海は葉月の答えに一つ頷いた。
「そうか、……なら来月頭には始めよう。術の期限が切れる前までに、なんとしてでもその力、支配下においてみせる」