朔海の決断
――衝撃だった。
“傷ついたりしない”と、彼女は言うが、それは“毒”の恐ろしさを知らないから言える事だ。
確かに、彼女はファティマーの一族の血を引き、少々特殊な能力を有しているらしいが、ファティマーとてその肉体はごく普通の、当たり前の人間のそれだ。
もちろん、毒への耐性も普通の人間と大差ない。
……彼女は妖や精霊を操る術に長けているから、術式を介せば一時的に耐性を上げ、抵抗することは不可能ではない。
だが、何もしないまま、朔海の持つ“毒”――魔力に抗うことは、ファティマーといえども不可能なのだ。
当然、何の予備知識もない彼女が、朔海の魔力に抗う術などなく、もしも何かのきっかけで朔海の理性が飛び、際限なく血を求めてしまうような事態になれば、取り返しのつかない結末へと至る可能性は決して少なくない。
だから、朔海は少しでもその可能性を減らす必要があり、彼女に牙を立てるなど論外だと――そう、思っていたのに。
ほんの僅か、唾液に含まれるほんの少しの魔力を、本当に少しだけ、彼女が自分で作った小さな切り傷へ仕込み、彼女の傷を治してやるついでに、二度とそんな事を思いつくことのないよう、少し脅かしてやろうと考えた。
……まさか、仕込んだ魔力が圧し負け、撥ね退けられられるなど。――いくら仕込んだ魔力が少なかったとはいえ、普通ではありえないことだ。
だが、確かに咲月は朔海が意識的に操っていた魔力を自らの意志の力で抑えつけて圧し負かし、自らの支配下に置くことにより魔力の効力を無効化し、撥ね退けた。――それは、朔海が瑠羽にした施術と同じ理屈だが、……もちろん、そんな事は普通の人間には不可能だし、ファティマーでも術式なしに行えることではない。
……そして、咲月に術式を扱うのに必要な知識は一切ない。
しかし現実的に、咲月は朔海の魔力に自力で逆らい抵抗し、実際撥ね退けてみせた。
――まさに、衝撃だった。
もしかしてこれが、咲月のもう一方の親の一族の持つ能力なのだろうか?
驚きで一杯の頭で、そんな事を思っていたところを――
――衝撃が、襲ってきた。
バチン、と結構いい音がして、張られた頬が熱を持つ。……人間の少女の腕力など、所詮たかが知れている。肉体的な痛みは無いに等しかった、が。
朔海の精神は、激しい衝撃をモロに喰らった。
ぐだぐだ考えていたもろもろが吹き飛ばされ、真っ白になった朔海の脳に、咲月の言葉が染み渡っていく。
「葉月さんの力を貰う覚悟をしたんじゃなかったの? ――今でもそんなに強い魔力を持っているのに、それより強い力を……毒を取り込んで……でも、それに振り回されないよう覚悟しろって、葉月さん、言ってたよね? 朔海はあの時、覚悟は出来てるって、葉月さんに言ったじゃない」
「私はそれを信じている。朔海に血を吸われたからって、それで私が傷つくことはない」
――そうだ。確かにそう言った。でも、覚悟をしたからこそ力に理性を奪われることのないよう、より自制を強く心がけていたつもりだったのに。
「三百年も『生粋の吸血鬼』をやってる朔海がコントロールしきれないような力を、私はどうすればいいの? 吸血鬼歴三百年の朔海が――魔力のコントロールに慣れてる、いわばベテランの朔海ができないものを、初心者の私がいきなりできるようになるとは、到底思えない」
咲月は、先日の葉月の話を朔海たちが望む以上に真面目に受け止め、しっかり自分の事として捉え、考えていた。
――いや、その話だけでなく、これまで咲月に話し、実際に見せてきた事柄の全てを、彼女は同様に受け止め、捉え、考えていた。
「お前なんかより、彼女の方が余程も自分の責任を良く理解して、きちんと覚悟をもってお前に向き合っているじゃないか」
稲穂に、これまで朔海が彼女に対し行ってきた対処の全てを『無責任』と断じられ、叱責された上で言われたセリフ。
「彼女の覚悟にきちんと向き合い、その責任を果たす気がないのなら。今すぐ彼女を手放せ」
その言葉に、朔海は打ちのめされたような衝撃を受けた。
豊生神宮で、咲月を預かってくれる。稲穂は言った。
あそこで暮らす面々と、朔海は面識がある。
先頃身罷られた龍神、多喜様は、葉月の“恩神”である。たいそう破天荒なお方で、神だという割に、たいへんおおらかで、気安く、親しみやすい神様だった。
そんな方が主神であった豊生神宮の当代の巫女姫は、元々人間としては相当な霊力を有した、優秀な巫女であった。――が、とある事件がきっかけで、多喜の跡を継ぎ、将来は豊生神宮の主神として立たねばならない宿命を負った。
そんな彼女を支えているのが、豊生神宮の狛犬の一人、晃希だ。過酷すぎる過去を背負わされながら、それから逃げることなくしっかり向き合い、その贖罪を兼ねて、社とその主たちの護衛を勤めながら、巫女姫を手伝い、社の仕事にも精を出していると聞いている。
その巫女姫のため、彼女との間に子をもうけ、子育てにも勤しみながら巫女姫とも随分仲良くやっているらしい。
そして、彼と対をなすもう一人の狛犬。こちらも日本の神社では相当な変わり種、なんと元天使なのだという。――色々あって、天から追放され、今は堕天使……つまりは悪魔とされているらしいが、性格上少々素直さに欠けるものの、忙しい瑠羽の両親に代わり、遊び相手を勤めることも少なくないという。
また、当代の巫女姫――竜姫が新たに豊生神宮の祭神として迎えた、九尾の狐の仔どもの久遠も竜姫を慕っており、彼女の夫である晃希に対して小舅のような振る舞いをしては、稲穂に叱責を受け、鉄拳を喰らうことも度々らしいが、あの地の豊穣を神としての務めは一人前にこなしている。
もちろん、その稲穂は――見ての通りだ。
あそこでなら、咲月は幸せに暮らせる。少々賑やかすぎる毎日になる可能性は否定しきれないが――こんな陰気な家で自分たちと、その命を危険に晒しながら生活するよりは、間違いなく穏やかな日々を送れるだろう。
咲月の幸せを願うなら、どう考えてもそうするべきだろう。
――頭ではそう分かっていても、淡い期待を現実の夢として描いてしまった未来図を諦めることが、どうしてもできなくて。
YESともNOとも答えられず、黙り込んだ朔海の代わりに、稲穂にNOと答えたのは、他でもない、咲月だった。
「やっと……初めて自分から“ここに居たい”と思える居場所を見つけたのに。……そんなのは、嫌です」
そう言い放ったあとで、こちらを振り返った咲月の、不安そうな顔。
彼女を守ると、彼女に酷な選択をさせなければならない未来をそれでも選んでもいいと思ってくれるように努力すると口では言いながら、彼女にそんな顔をさせているのは、他でもない、朔海自身。
彼女のためと言いながら、実際は自分自身の事しか考えずに彼女を振り回していたのだと、稲穂の叱責の言葉を嫌というほど実感させられた。
彼女を手放したくないというのなら。彼女にあんな顔をさせないためには、一体自分はどうしたらいいのだろう。
責任。覚悟。
どんな責任を負い、どんな覚悟をすれば、自分の身勝手のためでなく、真実彼女のためと胸を張って言えるのだろう?
そんな折、それまで静かに眠っていたはずの瑠羽が、苦しげなうめき声を上げた。
見れば、再び呼吸が乱れ始めている。
「――!、 もう来たか。……早いな」
瑠羽の魔力を抑えていた朔海の血の魔力が、摩耗し、徐々に圧し返されているのだ。早く魔力を補給し、再び抑え込まねばならない。
朔海は即座に立ち上がり、いつもの習いでズボンのポケットを探り――そして思い出す。
それはまだ、咲月の手の中にあった。
瑠羽に施術を施すのに、小刀を返してもらわねばならなのだが、咲月の辛そうな表情に、“軽々しく”『返せ』とは言い出せなかった。
けれど、元々場の空気を読むことに長けた咲月は即座に察し、一度だけ、躊躇うように強く強くそれを握り締めたあと、彼女はそっとそれを朔海に差し出した。
それを受け取り、“ありがとう”と言おうとして――しかし場にそぐわない気がして他の言葉を探したが、うまい言葉が見つからず、言葉に詰まった。
自らの本心を押し込め、自分の願いと裏腹な行動を取るのは、それより朔海の願いを優先したから。
朔海が魔力を使うためにはそれが必然の行為だと、朔海が、苦しむ瑠羽を放っておけるはずなどないことを、理解しているから。
本心では、朔海の自傷行為など見たくはないと、その末に朔海が傷つき弱った姿など見たくないのだと思いながら、その感情を殺して、朔海の意思を尊重した。
――ああ、それが答えか。
咲月の幸せを、勝手に自分のものさしで計り、枠に嵌め込んでいてはいけないのだ。
彼女自身をきちんと見て、彼女自身が願う事、望むことを理解し、受け止め、受け入れる覚悟と、それに伴う責任を負う必要があるのだ。
さしあたっての望みは、既に彼女は何度も繰り返し口に出して朔海に訴え続けていたこと。
咲月を信じること。
朔海自身を信じること。
そして。
……彼女は、朔海が傷つくのを見たくないと言った。
だが、朔海が吸血鬼である以上、必要に迫られればそれは避けられない事と彼女は理解している一方で、吸血鬼が吸血によって得るものも、彼女自身が持つ血の効果も理解している。
だから、次善の策として咲月は朔海の完全な回復を願い、そのための手段として朔海に自らの血を差し出そうとするのだ。
咲月は、ここに――朔海の傍に居たいと、強く望んでくれている。
ならば、自分はそれをしっかり受け止め、受け入れなければならない。
自らの欲に溺れることを恐れて彼女を拒むのではなく、自らの欲を戒め自制できるよう、コントロールする術を身につけなければならないのだ。
先程施した術に、新たに魔力を注ぎ、再び瑠羽の魔力を抑え込みにかかりながら、朔海は自らに、自らの覚悟の程を問う。
……彼女を、手放したくないというのなら。
そう、稲穂の言うとおり、無理でもなんでもそれをしなければいけないのだから。
施術を終えたあと、一度、先程から放置したままのパックへ視線をやった。
瑠羽や咲月に語ったとおり、ひどく不味い上、最低限の効果しかのぞめないそれでも、今回の施術で負った分のダメージはまあ回復できるだろう。
だが、ちらりと時計をみやればまだ最初の施術を施してから30分ほどしか経っていなかった。
――さすが、聖書に名を残す程の悪魔の魔力は桁違いに強い。今は良くても、いずれ回復が間に合わなくなるだろう事は明らかだった。
朔海は最後にもう一度だけ、自らにその覚悟を問うため一度目を閉じ、大きく息を吐いた。
「――咲月、血を貰ってもいいかな?」
両の拳を握り締め、朔海は咲月に向き直り、改めてそのセリフを口にした。
「パックの血ではなく、君の――咲月の血が欲しい」