それぞれの毒事情と力の差
朔海は、咲月の手から滴り落ちていこうとするそれを、痛そうな顔で見つめた。
「――僕に咬まれても構わない? そんなことで傷ついたりしない、だって? 君は、知らないから……」
朔海は瑠羽の方へちらりと視線をやり――すぐ先程咲月が穿った手の傷痕へと視線を落とし、その手で拳を作り、きつく握り締めた。
「僕が――僕たち吸血鬼が持つ血の毒は、等しくこの世界に生きる“生物”にとっては毒となる。血が濃ければ濃いほど――魔力が強ければ強いほど、その毒性は強くなる」
咲月の指を伝い血は流れ落ちる。ぽたぽたと、赤い雫が床へと落ちていく。
「彼女――瑠羽ちゃんを苦しめた原因こそ、まさにそれ……“毒”によるものなんだよ。彼女の持つそれはとりわけ強い……何しろ、あの晃希さんの血を継いでいるんだから」
それをなるべく見ないように、朔海は視線を稲穂へ向けた。
「――まあ、うちの狛犬は特別製だからな」
稲穂は、すました顔で肩をすくめてみせてから、にやりと微笑んで言った。
「……狛犬? ――あの、晃希さんて吸血鬼ではないのですか?」
「ああ、吸血鬼だよ。相当な変わり種ではあるがね。――だが、うちの先代が認め、当代の主神が任じた、我が豊生神宮の大事な狛犬の一人だよ」
吸血鬼で、狛犬。当代の巫女の夫で、次代の巫女の父親。――確かに変わり種だ。
だが、稲穂の言い様はそれを指して言ったようには思えない。
「今から、約六百年程前……神聖ローマ帝国がヨーロッパを支配していた時代。晃希さんは、ルードヴィヒ・アンセルムという名の人間として生まれ、育った。でも、十六歳の時、吸血鬼に咬まれて血を吸われ――吸血鬼になった。……葉月が言ったね? 致死量を超える程の吸血行為を働けば、体内に入り込んだ毒の作用で中途半端な吸血鬼が出来上がる――心も感情も理性も失ったヴァンパイアとして蘇った、正真正銘の化け物になると。……彼の場合、まさにそのパターンだったんだ」
稲穂が、朔海の説明に頷きを返し、更に補足の説明を加えてくれる。
「――咲月。あちらの方の聖典を読んだことは? 遥か大昔、天が遣わした御使いが、天の秘密を人の子に漏らした上、人との間に子まで作ったが、その子供というのがとんでもない化物で、そいつを片すために“大洪水”が地をさらい、“ノアの方舟”に乗れた者のみ生き残った話――グリゴリの話を知っているかい?」
咲月は頷いた。
「はい、……物語のひとつとしてなら、ですが。信者でもないので、あの分厚い聖書を真面目に読む気にはなれなくて。でも、その聖書の節目節目のお話を、子供向けに編集した本があって。それの中にそのお話もあって……それで読みました」
「――そうか。その、天から遣わされた御使いの中に、サハリエル、という名の天使がいた。大洪水の折り、天から堕天し悪魔となったそいつが、人間の生気を欲して、当時の奴に取り憑いた。そいつに生気を奪われ、弱っていたところを、吸血鬼に咬まれたらしい。――で、結果的に、奴は『中途半端な吸血鬼の身体』に『高位の堕天使の魔力』を宿した魔物となった」
「吸血鬼が持つ魔力は悪魔と契約し“借りている”力だけど、彼が持っているのは、悪魔の力そのものなんだ。吸血鬼の血の毒って、つまりは“悪魔の魔力”だから。高位の悪魔そのものの魔力の毒性は計り知れない」
朔海は、静かに眠る瑠羽を見下ろし、咲月に背を向ける。
「――正式な儀式を経て吸血鬼になるのであれば、その血に見合った身体が――血の持つ魔力……つまり毒素に耐えうる肉体が出来上がる。だけど、毒素によって生み出された『中途半端な吸血鬼』の身体は『吸血鬼』より人間のものにより近い。身体能力だけは飛躍的に向上するけれど、毒に対する耐性は無いに等しい。――毒への耐性を十二分に持ち合わせた生粋の、純血の吸血鬼である僕でさえ、弱れば毒に犯され、理性を失い見境なく血を求めてしまうんだからね。彼らがひたすら血を求めるばかりの化け物になってしまうのは……むしろ当然の結果だ。唾液に含まれる、血に含まれたそれより遥かに量の少ない毒でも、そうなんだ。そんな身体に、僕たちが血に宿すそれより遥かに濃い毒を宿して……。そのままで、耐えきれるはずがない」
「だからね、晃希は先代の魂を取り込み、『狛犬』という枷で自らを戒め、当代の巫女姫たる竜姫の血を飲むことで己の魔力に対する耐性を得ているんだよ」
「葉月が、言っていただろう? ――強すぎる魔力に見合わない身体でそれを使えばどうなるか。……瑠羽ちゃんは、葉月と同じ半吸血鬼だ。しかも、半分は巫女姫の――神に連なる聖なる血を継いでいる。だから、並みの半吸血鬼なんかより遥かに毒への耐性は優れているんだ。……だけどその一方で、継いだ魔力の総量も、晃希さんには及ばないまでも、下手な純血の吸血鬼より遥かに強い力を持っている。……だから、今回みたいに体調を崩したとか、ちょっとしたきっかけで耐性が弱まってしまえば、たちまち毒に犯されてしまう」
朔海の言葉に、稲穂は辛そうに表情を歪めた。
「――先代の、最後の望みだったんだ。どうしても、この子が必要だったから。普段はやんちゃすぎるぐらい元気な娘だけど……こうなると罪悪感を感じずにはいられないよ。晃希の子という時点で、すでにある程度こういう事態になるだろうことは分かっていた。……むしろ、もっと酷い事になっていた可能性だって決して低くはなかったんだから。それでも、どうしても、この娘が我らには必要だったんだよ」
そっと、眠る瑠羽の頭を撫でてやりながら、稲穂が呟く。
「この娘の――晃希の血の力に唯一対抗できる王子殿下が話の分かる男で本当に良かったと思うよ」
稲穂の言葉に、朔海は苦い笑みで答え、ようやく咲月の方へと向き直った。
――大して深くもない小さな傷は、既に血が固まり始めている。
「さっき、僕が瑠羽ちゃんにした施術はね、魔界においての唯一の掟である弱肉強食の理でもって、彼女の血に、僕の血の方が強く優秀であると力づくで認めさせ、無理矢理抑え込むものなんだよ。……その意味が、分かるかい? “借り物”でも、高位の悪魔を従わせられる――僕らの先祖が契約を交わした悪魔は、サハリエルよりさらに高位の悪魔だったらしい。その直系の子孫である僕の血の毒の方が、晃希さんの持つ毒より、僅かとはいえ強いんだ。」
朔海は、ゆっくりとした足取りで咲月の方へ歩み寄る。
「……その意味が、分かるかい? 優れた耐性を持つ瑠羽ちゃんでさえあんな風になる、それより強い毒を、なんの耐性もないただの人間の身体で受ければどうなるか――」
朔海は、咲月の手首を拾い、傷に自分の指を這わせて拭い取った血を、ぺろりと舌を出して舐めとった。
その表情は、ひどく切なくて――
「……晃希さんの身体は、今も『中途半端な吸血鬼』のままだからね。生粋の吸血鬼と、咬まれて変化したそれとの大きな違いうちの一つが……血液以外の体液に含まれる毒の有無だ。――彼の場合、その血に宿る魔力は強いけれど、唾液や――その他の体液に毒はない。……誰かを咬んでも、新たに『中途半端な吸血鬼』を増やしてしまうことはない。そして、晃希さんが血を吸わせてもらっている相手は、おそらく現存する人間の中では最上級の耐性を備えている、豊生神宮の当代の巫女姫だ」
その指で、もう一度傷口をなぞった。
ささやかな傷は、それだけであっという間にふさがってしまう。
「たった、この程度の毒でも……ね、」
不意に、朔海の瞳が緋色へ変わる。赤く光る瞳が、咲月の瞳を捕らえた。
「このくらいのことは可能なんだよ」
と、同時にじんと指先に痺れが走った。――まるで、麻酔でも打たれたかのように。確かに自分の身体の一部であるはずなのに、思うように動かない。
何か、物凄い違和感を感じる。……まるで、自分の身体ではないような――そんな感覚が、朔海が消した傷跡を中心に、じんわりと広がっていく。
確かに触れているはずの、朔海の手の感触が脳まで伝わってこない。
――これが、朔海の言う“毒”の……“魔力”の力なの?
痺れた手の先から、力が抜ける。
朔海の言う“毒”に触れていた時間も、その量だって、先日の一件と比べて遥かに少なかったはずにもかかわらず“こう”なっている理由は――。
魔力は、ただあるだけでは大した意味をなさず、それを扱うのに必要なのは“意思”の力だと、ついこの間彼自身から聞かされたばかりだ。
つまり、これは朔海の意思――。今は“麻痺”で済んでいるが、それ以上の事もありうるのだという、警告のつもりなのだろう。
「……ね? 咲月では、僕の魔力に逆らえない。――晃希さんと竜姫さんの場合と、僕と咲月の場合では、事情が違うんだ。だから、軽々しく“咬まれてもいい”だなんて二度と言ってはいけないよ」
朔海は、あくまで優しく言い聞かせるように言う。
だが、咲月の胸の奥でずっとくすぶり続けていた思いがここへきて熱く煮えたぎり、火の粉を散らし始めていた。
なんだかすごく、むかむかする。
成程、確かに先程までの瑠羽の状態は確かに酷かったし、それを押さえ込む際の激しい攻防と、その結果も全て見ていたのだから、“悪魔由来の魔力が持つ毒の恐ろしさ”は理解した。
それに加え、先日の葉月の説明だってしっかり覚えているし、実際に弱って理性を飛ばしかけていた朔海の姿も見ているから、その毒に犯される恐怖だって、理解しているつもりだ。
だから、決して軽々しく言った訳ではないのだ。
――私が吸血鬼になる覚悟を決めない限り、朔海は私のことを信じてはくれないの?
朔海が厭う力に抗う力を得ない限りは、常に一方的に守られるしかないのだろうか?
――力が、欲しい。
咲月は痛切に思う。今、この手を支配する力を退け、朔海と向き合えるだけの力が欲しい、と。
今、朔海に言ってやりたいことがある。……その前に、一発くらいひっぱたいて目を醒まさせてやりたい。
そう思い至った途端、火の粉を散らせていた胸の奥が、一気に熱くなってくるのを感じた。
比喩ではなく。本当に腹のあたりが熱をもち、心臓の鼓動が早まり、体中を巡る血が沸き、一気に血圧があがったのが実感として如実に分かる。
ドクン、と一際強く心臓が脈打ち、力強く熱が全身へと放たれる。腹、足、首、頭、両腕と――その、先まで。
熱が、肘の先を通過し、手首まで至る途中、一瞬ピリッとした痛みに似た刺激を感じ、それを皮切りに痺れていたはずの手に感覚が戻ってくる。
――動く。
ほんの一瞬の、タイムラグ。途中で途切れていた神経が再び繋がったと感じた直後、もう一度ピリリと、静電気にも似た刺激を感じた後で。
咲月は力任せに朔海の手を振りほどき、その間に散々イメージした通りの行動に出た。
感情のまま、力いっぱい彼の頬を平手で張った。
バチン、と結構いい音がして。
朔海はあまりの衝撃に声もなく、打たれた頬へ手をやることもできずに、ただ呆然と立ち尽くしていて。
彼のその様子に、咲月の胸は一気にすき、ようやく溜飲も下がる。実にいい気分だ。
咲月は、改めて朔海の前に手を突き出した。
「朔海が、私のことを心配して言ってくれてるのは分かるよ。……でも、私は朔海のことを信じているから。朔海が私のことを信じてくれるまで、何度でも言うよ。――私は、朔海にだったら咬まれても構わない」