闇の中に咲いた月
「僕はあの日……彼女に幸せな日々が訪れるよう願って、月の無い朔の夜の海という真の闇の中に、頼りなく瞬く星を意味する僕の名とは真逆の――夜空に咲いた満月を意味する名をつけ、人間の手に委ねました。……けれど、僕の願いとは裏腹に、彼女は幸せとは程遠い生活を強いられていた。……だから、僕は葉月に協力を要請し、彼に彼女を引き取って貰ったんです。彼女が、自身の手で自らの幸せを掴み取る力を得るまでの、その間、彼女に安心して幸せな日々を送って欲しかったから」
朔海は、壁の方を向いたまま――こちらへ背を向けたまま言った。
「あの日――まだ産まれて間もない小さくて弱々しい人間の赤ん坊だった彼女を見つけて……。僕は、温もりを求めて伸ばされたその小さな手を、守りたいと……心からそう思った。……でも、こんな身の上の僕のもとでは彼女を不幸にしてしまう。そう思ったから、僕は伸ばされた手を人間に委ねる決断をし、彼女を手放したのに」
朔海は、拳を握り締め、壁を殴りつけた。
「僕が、彼女のために良かれと思ってした事の全てが見事に裏目に出た、その結果がこれです。……彼女のためになるどころか、逆に過酷な未来を選ぶ覚悟を迫らなければならなくなった」
朔海は、一つ大きく息を吐きだして、こちらを振り返った。
「僕が、咲月をここへ呼んだのは、君の幸せを守りたかったからだ。……君が、幸せな日々を送ってさえいてくれれば、それだけで、僕は幸せを感じることができたから。葉月がその話を受けてくれた時、僕は嬉しくて堪らなかったんだ。咲月に会えるのが楽しみで仕方なくて。葉月がこの家まで君を連れてくるまでの間すら待ちきれなくて、葉月の気配を辿ってスーパーまで押しかけてしまうくらいにね。葉月にイヤミを言われるのも気にせず、朝から押しかけて一緒に買い物へ出かけて、一緒にご飯を食べて……本当に、毎日が楽しくて。つい、少しでも長く君の傍に居られる幸せを味わっていたいと、思ってしまうくらいに」
一体これは何の――誰の話だ? 咲月は、朔海の話を聞きながら、脳が痺れていくような感覚を覚えた。
それが、稲穂の問いに対する答えなのだと――咲月の最後の疑問に対する答えなのだということは理解できたけれど。
話の内容に対する理解が、一向に追いついていかない。
朔海の言う“彼女”だの“君”だのという単語が自分の事を指しているのだと理解はしても、実感が伴わないのだ。
「吸血鬼だなんて知られたら、そんな毎日も終わってしまう。……そう思っていたのに。君は、僕が吸血鬼だと知ったあとも逃げずに傍にいてくれた――どころか……僕の事情に巻き込んでしまったせいで、今も君の命を危険に晒して、酷な選択を押し付けているにもかかわらず、君は僕が吸血鬼だと理解して、受け入れてくれようとしてくれる」
朔海は、右手首の腕輪に視線をやり、そっとムーンストーンに触れる。
「咲月が僕にくれたこれ……。ムーンストーンが、夜を照らす月の光が宿り、持ち主の悪夢を追い払い、月の満ちている時身につけると将来の恋人に出会えると言われるパワーストーンなんだって知ってた?」
――そういえば。あの日、紅姫に言われて葉月と朔海の会話を盗み聞きした際、葉月がそんな事を言っていた気がするけれど、彼に贈った時点ではもちろんそんなうんちくなど知るはずもなく。
だが、彼はそうと知りながら、いつも必ず身につけていた。
「本当に、効能書きにある全部のご利益があったよ。それも、期待以上のご利益がね。――どんなに感謝してもしきれない。僕の全てを賭けても足りない。……僕は、君が愛おしくてたまらないのに……」
何だろう。今、何か物凄いことを言われた気がする。
「僕は君と生きる未来を得るために必要であるというなら何だってする。葉月の血の力を得る覚悟だって、君の生い立ちに関する事情を含め、咲月がこの先直面する問題の全てを共に背負う覚悟だって――」
――ああ、また……
「でも、だからこそ僕は……己の牙と毒で咲月を傷つける事はしたくないんだ」
……そんな風に、大切に思ってくれるのは嬉しい。――だけど。
咲月は、ぎゅっと両の手を強く握り締め――そして思い出す。右手に握ったままの、朔海の小刀のことを。
ふと視線を落とし、手の中のそれを眺める。
――どんなに感謝をしてもしきれない? ……朔海の話が真実だとすれば、それは咲月の側の台詞だ。
どことも知れぬ場所に放られていた自分を見つけてくれたのは朔海で。彼が居なければ、咲月の命はその時点で潰えていただろう。
この、咲月という名前をくれたのも朔海で。
辛い日々を過ごしていた咲月を案じ、そこから救い出してくれたのも朔海で。
いつも何かと手を差し伸べ、優しくしてくれて……『恋』という感情を教えてくれたのも朔海で。
「自分のせいだから」と彼は言うが、実際のところ彼自身の責任とは言い難い現状の危険から、命懸けで咲月を守ってくれているのも朔海なのだ。
本当に、一体自分はどれだけ彼が咲月に向けてくれる想いの深さを見誤っていたのだろう。本当に、初めの最初から、彼はずっと咲月のことを想い、守り続けてくれていたのに。
新月の夜の海――闇の中に輝く綺羅星。……それは、おそらく毎度話に出てくる『魔界の方々』とやらが、朔海の性格を皮肉ってつけた名なのだろう。
朔海は、そんな自分の名が好きではないようだ。
そんな彼が、咲月の幸せを願ってつけてくれた名前――。夜空に浮かび、闇を照らすフルムーン。
――そういうつもりで贈ったわけではないのだが。朔海を悩ませる“悪夢”を払う存在に自分がなれたのだとしたら、嬉しい……。そう、思うのだ。
そう、朔海の想いにはまだまだ適わないけれど、咲月だって朔海のことを愛おしく思っているのだ。
そして、咲月の心にふと強い思いが閃く。自分だって、朔海を守りたい。傷ついた彼を何もできずに見ているだけなんて、絶対にしたくない。
そのための痛みや傷であるなら、いくらでも受け入れよう。
「ねえ、朔海。私、この間言ったよね、――信じてって。朔海が吸血鬼なのはもう分かってるんだから、私の血を吸うのを悪いことみたいに言うのはやめてって、言ったよね?」
咲月は、鞘を払い、抜き身の刃を人差し指の腹でなぞった。
よく手入れされ切れ味の良い刃は、咲月の指に小さな痛みと、一筋の赤い線を刻む。
刃から指を離せば、小さな傷口から血が溢れ、重力に従い滴っていく。
咲月はそれを、朔海の前に突き出した。
「……このくらいのことで、私は傷ついたりなんかしないよ。それは……少しは痛いけど。でも、私だって、朔海が傷つくのを見るのは嫌」
咲月はまるで挑戦でもしているかのような強い視線で朔海を見据える。
「このあとに、何もないならいい。でも、違うんでしょう? だから血が欲しいんだよね? ……なら、効果も今一つな上、美味しくもないような血で中途半端な回復をして、後でまた血が足りなくなるような事態になるくらいならーー 」
朔海に信じてもらいたいから。咲月はまばたき一つせずに、ひたすら彼の瞳の奥を見据え続けたまま、言った。
「そうなる前に、私の血を飲んできちんと回復して欲しい。……信じて欲しい。そのためなら、私は朔海に咬まれても構わないと思ってる。そんなことで、私は傷ついたりしない。――だから、」
「――だから、お願い。私の血を飲んで」