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朔海の言葉に、咲月は頷き、躊躇いなく彼の前に手のひらを差し出した。
だが、朔海は咲月のその行動に、一瞬不思議そうな顔で数回瞬きした後、ようやくその意図を察した彼は、目を見張った。
「いやちょっと、そういう意味じゃなくって! ……その、さっき持ってきてくれた血液パックの残りが欲しいって言ったつもりだったんだけど」
朔海は頬を赤らめて口元を手で覆った。
……その手のひらは、先程の攻防の結果、火傷でもしたように爛れ、その中央を咲月が貫いた傷もまだ完治せず残っている。
顔色だって、決して良いとは言えない状態だ。
持ち出してきた4つのパックのうち、瑠羽のために封を切ったのは1つだけ。残りの3つは手つかずのまま机の上に放られたままになっている。
咲月は一瞬ちらりとそれを眺めやったが、すぐに視線を朔海へと戻した。
「……あれって、そんなに不味いものなの?」
咲月の問いに、朔海は渋い表情になる。
「……どんなに工夫されているとは言っても、やっぱりどうしてもある程度鮮度は落ちるから。何より鮮度を保つために入っている保存液の味が酷いんだよ。まあ、当然だけどね。本来口に入れるべき代物じゃないんだし」
肩をすくめながら答えて、苦い笑いを浮かべた。
「でも、それでも……人を襲って血を啜らなければ生きていけなかった時代を思えば遥かにマシだ。――それを思えば、味なんか二の次、三の次で十分なんだよ」
朔海は立ち上がり、パックの一つを手に取った。慣れた様子でパックの口を牙で器用に噛み千切り、口にくわえる。
本人が認めたとおり本当に不味いらしく、眉間にしわを寄せつつ中身を吸い出し、飲み込む。
――と。朔海の喉がそれを嚥下すると、それに伴い手のひらの傷の治癒速度が増し、顔色もみるみる回復していく。
本当に、何度見ても吸血鬼が吸血によって得る回復力は凄まじい。
……だが、今回のそれは咲月以外の誰かの血によってもたらされたもの。
――そう思ったら、またしても胸の中でもやもやした想いがわだかまった。
先日、咲月の血で回復していた朔海を見たときは、あんなにホッとして、嬉しく思えたはずなのに。
もちろん、青い顔のまま痛々しい怪我もそのままで居られるよりは良い。
……そう思うのに、面白くないと思ってしまっている自分がいる。
「ところで……王子殿下。そろそろ彼女が何者なのか、アタシに紹介してくれないかねえ?」
稲穂は、背もたれのない長椅子から身を乗り出し、瑠羽の眠る寝台に肘を置いて頬杖をつきながら妖艶な笑みを浮かべた。
「このアタシの姿を視ることのできる人間はそう多くないってのにねえ。王子殿下の事情もよく知っているようだし、大した説明もしてやらない状況で、瑠羽の事情もおおかた察しているようじゃないか?」
興味津々な瞳で、稲穂は咲月を見る。
「まあ、確かに放っておいてくれとは言ったが。……けど、お嬢さんの方がアタシに聞きたいことがありそうな様子だしね?」
世間話をするかのような、気安い様子で稲穂が咲月に笑みを向けた。
……相手は、神様だ。
もやもやした心の中を見透かされてしまいそうで、咲月は慌てて思考を切り替え、緊張の面持ちで彼女に向き直る。
「ご、ごめんなさい。あの、私、咲月と申します。苗字は……今は、葉月さんにお世話になっている身なので、双葉と名乗っています」
「ふむ、今は、とな? そういえば白露殿に引き取られたばかりだと、確かに先程聞いたな」
「――はい。私は、もともと施設の前に置き去りにされていた孤児で……苗字なんて、元々なかったんです。……各所を転々と渡り歩いて、その度に苗字も変わって……。だから、それが自分の名前の一部だと理解はしても……どうしてもピンとこなくて」
「……もしや咲月という名もその施設とやらでつけられたものなのか?」
稲穂の問いに、咲月は首を横に振った。
「施設の方が私を見つけた時、私は男物のコートに包まれていたんだそうですが、そのコートに、メモが挟まっていて……そこに、私の名は咲月なのだと書かれていたそうです」
椅子の上の尻を、居心地悪そうにもぞもぞさせる朔海の横で、咲月はかすかな笑みを浮かべた。
「……どんな人が、どんな理由で私をあそこへ置いていったのか分からにけれど。――この名前だけは、気に入っているんです。私に与えられた、唯一確かなものだから」
「そうか。では、君のことは、咲月と呼ばせていただこう。それで咲月、お前はどうしてこの家に来ることになった? まあ、各地を転々としなければならなかった理由は想像に難くないが。その末にたどり着いた場所がここ……というのは考えにくい。何しろ、彼らは人目を忍んで生きる吸血鬼なのだからね」
ちらりと、稲穂が朔海の方へ視線を向けた。……咲月も困ったようにそちらへ視線を向ける。
何しろ、その問いに対する答えを、咲月は持っていない。……というか、彼らが吸血鬼だと明かされて以来、未だ聞けずにいる一番の謎がそれなのだ。
朔海は、飲みかけのパックを咥えたまま大いに咳き込み、顔を真っ赤に染めていた。
「……稲穂様、申し訳ありませんが、私がその問に答えることはできません。どうして葉月さんが――というかたぶん朔海が、私をこの家で引き取ってくれようと思ったのか……、そもそもどうして私の事を知ったのか……。私も、知らないから」
飲み込みかけた血が、食道ではなく気管の方へ入ってしまったらしく、目の端に涙すら浮かべて苦しそうに咳を繰り返す朔海の背を撫でてやる。
「私はただ、この家に来る前にお世話になっていた家の人から、次はここへ行け、と言われたから来た――。本当に、いつもと同じつもりで何も考えずに来ただけで、最初は知らなかったんです。――葉月さんや、朔海が吸血鬼だってことも、朔海の事情も、何もかも。……特に詮索するつもりもなかったんです。どうせ、またすぐにどこか別の場所へ行かされる事になるんだと、そう思っていたから」
――そう。あの時の自分だったら想像すらできなかっただろう。朔海に対し、こんな想いを抱くようになるだなんて。
「僕も、葉月も。――彼女に己の正体を明かすつもりはなかったんです、当初はこれっぽちも考えていなかった。……けれど、僕らの思惑に反して、僕と葉月の“お家事情”に彼女を巻き込んでしまった」
咳が少し治まった隙をみて、朔海が懺悔でもするかのように俯いたまま言った。
「その結果として、僕は、彼女の協力なしには来年以降、この世に存在することすら許されない立場になってしまいました」
ひと呼吸おき、荒れていた息を整えて、朔海は顔を上げる。
「――先頃、我らが吸血鬼の王に呼び出され、命じられたのです。一年以内に妻を娶れ、と。もしも果たせなければ、僕はもちろん母や弟らも含め死罪にする、と告げられました」
全く、何度聞いても無茶な話である。
……だけど。最近の咲月は思うのだ。もしも“それ”がなかったら、間違いなく彼らが己の正体を咲月に明かすことはなかったのだろうと。――そして、咲月は彼らの正体など一切知らぬまま、いつかは彼らの傍を離れていかねばならなかっただろう、と。
そう思うと、感謝はできずとも、否定的な見方ばかりもできなかった。
「でも、それでも僕は彼女に正体を明かすつもりはなかったんです。無責任なのは承知の上で、葉月に彼女を託して、大人しく王の制裁に従うつもりでいたのに。その思惑すら外れてしまって」
空になったパックに視線を落とし、朔海は苦笑を浮かべた。
「――葉月の一族……アルフ族の当代の長であり、葉月の父でもある紅狼殿が、葉月の血の力を欲して、葉月の弱点となりうる咲月の命を今も狙っている。葉月一人で紅狼殿を相手にするには限界がある。……僕が死ねば、葉月の命も咲月の命も彼らによって奪われてしまう」
朔海は、椅子から立ち上がり、空になったパックを持ってくずかごが置かれた部屋の隅へと歩いていく。
「咲月を守りたいなら、僕は生きなくてはならない。けれど、来年以降も僕がこの世に存在するためには、王の命に従わなければならなくて。……しかも、一連のゴタゴタで、結局は僕らの正体も、抱える事情も全部、咲月にバレてしまいましてね」
朔海は、空のパックをくずかごへ落とした。
「でも、咲月は僕らが吸血鬼だと知りながら、こうして傍に居てくれて。……僕には、好きでもない女性を妻に迎えるなんてことは、考えることすらできなくて。だから、僕は今、彼女に求婚している最中なんですよ。彼女を同族に加え、僕の伴侶とするために。……そんなことのために、彼女をここへ連れてきたわけではなかったのに、ね」