朔海の代診
咲月は、荷物を玄関に放ったまま、すぐさま二階の自室に居た朔海に事情を話した。
「……豊生神宮ってのはね、この間葉月が話したあの龍神様を祀る神社なんだ。咲月の言うその方はおそらく稲穂様だ」
朔海は、すぐさまポケットから小刀を取り出し、傷つけた指先から溢れた血を掬いながら、彼は言った。
彼は、掬った血を一度手に握り締めたあとで、再び開いた掌から飛び出した血色のコウモリを窓の外へと放つと、即座に診療所へと直行し、急ぎ、玄関の錠を開けに走る。
「――ああ、やっぱり」
医院の玄関の、扉のガラス越しに彼女の姿を見た朔海が呟いた。
「お待たせしてすみません。葉月への知らせを飛ばしましたので、すぐ戻ると思いますが……」
待合室に彼女を招き入れながら、彼女の腕に抱かれた子どもを見た朔海は、厳しい表情をした。
「――魔力が暴走しかけている。……あまり良くない……のんびり葉月を待つ訳にはいかないみたいですね」
一見しただけでそう判じた朔海の言葉に、子どもを抱えた彼女は、艶やかな顔に子どもを案じる不安な表情を浮かべた。
「大丈夫ですよ。……僕は医者ではありませんから、怪我や病を診たり治療をしたりはできませんけど。魔力なら僕でも処置は可能です。――というよりむしろこの娘の場合、葉月ではおそらく荷が重いはずです」
朔海は、診察室へと彼女らを導きながら言った。
「……名前、たしか瑠羽ちゃんでしたね。稲穂様、彼女をそこの寝台へ降ろしてもらえますか?」
寝台に横たわる子どもは、熱があるのか、赤らんだ顔にびっしょり汗をかき、苦しげな呼吸を繰り返している。
「稲穂様、瑠羽ちゃんに血は……?」
朔海はまず葉月の白衣を羽織り、棚をあさって必要な道具をトレーに揃えながら尋ねた。
「与えたことはない。――晃希と違って瑠羽は神崎の血を継いでいるし、……晃希の血のおかげで普段は身体も丈夫だから。けど、一昨日山で転んだらしくて……怪我をしてね、それがもとで珍しく熱を出した。……とはいえ、そのくらいなら竜姫や優花もまだ幼い時分によくやらかしていたからね。――うっかり甘く見ていた」
朔海は、その説明を聞いて頷いた。
「暴走の原因は、間違いなくそれですね。――魔力の毒に、抵抗力の弱った彼女の身体が耐え切れなくなりつつある。彼女の持つそれへの耐性はとても強いけれど、同時に宿している毒素の質と量もまた並ではありませんからね。……一度、その均衡を崩してしまえば、まだ幼い彼女の肉体と精神ではそれを元に戻すことは不可能に近い」
朔海は子どもの状態にたいしてそう診断を下した。
「稲穂様。瑠羽ちゃんに血を与えても構いませんか?」
続けて、朔海は自らの下した診断に対する処置への許可を、彼女へ求めた。
「僕は彼女の魔力を抑え、毒がこの娘の身体を蝕むのを阻む事が出来ます。ですが、それはあくまで一時的な処置に過ぎません」
朔海は、これから行う処置への説明を丁寧に紡いでいく。
「いくら僕が毒を抑えても、彼女自身が毒への耐性を取り戻さない限りは、根本的な解決には至りません。怪我を癒して体調を整え、体力を回復させる必要がありますが、そのためには血を摂取するのが一番早く確実なんです。血の摂取により、一時的にですが毒への抵抗力も増しますから、今夜一晩あれば、回復できるでしょう。だから、大丈夫。――明日の朝までには完治して元気になれますよ」
朔海は、そう請け負った。
「僕たち吸血鬼の血の持つ毒素というのはつまり、悪魔由来の魔力によるものです。それは生身の身体で耐えきれるものではありません。僕のような、生粋の吸血鬼でさえ、身体が弱れば魔力の毒に犯されます。しかも、この娘の持つ魔力は悪魔からの『借り物』ではなく悪魔そのものの力ですからね。多少耐性があるとはいえ、人間の身にはやはり毒が強すぎる。そして、僕たち吸血鬼が悪魔の魔力に対抗するには、人間の血を摂取するのがほぼ唯一の手段なんです」
そして、朔海は再びその許可を求める。
「――ですから、稲穂様。瑠羽ちゃんに血を与える許可をいただけますか?」
「……ああ。王子殿下がそう判断したなら、アタシはそれに従おう。餅は餅屋に頼むのが一番だ。この娘の――吸血鬼に関する事情について、アンタら以外に信頼して頼れるとこはないからな」
朔海の説明に、ホッと一安心したのか、彼女は少し表情を和らげて言った。
「ごめん、ちょっと頼んでいいかな? 薬品室の冷蔵庫から血液パックを一つ、取ってきて欲しいんだけど」
そこで初めて、朔海がこちらを振り向いた。
彼の作業の邪魔をしないよう、部屋の隅に立っていた咲月は、頷き返した。
薬品室の扉を開け、冷蔵庫をのぞく。――前に見たとき程ではないが、それでも棚2段分を埋め尽くす大量のパックが、中に詰め込まれていた。
ふと、それぞれのパックに貼られたラベルに大きく書かれたアルファベットに気づく。
――A、B、O、AB……。
それがそれぞれのパックに詰められた血液の、血液型を示している事はすぐに察せられたが……
「あれ……、そういえば……これってどうなんだろう?」
輸血に使うのではないのだし、特に指示もされなかったのだからそうこだわる必要はない気もしたけれど。
「血液型によって効果が違うとか……ないよね?」
ふと頭に湧いた疑問に、伸ばした手が惑う。
――本当に、血液型で味とか違ったりするものなのだろうか?
「いいや、とりあえず全部持ってけば間違いはないもんね」
咲月は、少し前なら絶対にしなかったような大雑把な考えで、全ての種類を一つずつ取り出し、急いで朔海のもとへと戻る。
四つのパックを両手に抱え、差し出して見せる。
「ああ、ありがとう……」
咲月の気配に気づいた朔海が振り返る。
彼は差し出されたそれを見て、一瞬「あれ?」と疑問を浮かべたが、パックに貼られたラベルの表示に気づいた朔海はすぐに事情を察したらしい。
「あ、ああ……」
少し彼の口元が緩み引きつった瞬間を咲月は見逃さなかった。
――笑われた。
「うん。……僕は特に好き嫌いとかないけど。――瑠羽ちゃんも、初めてじゃあ好みなんか分からないもんね。というか、正直パック入りの血って、味なんてあってないようなものだし」
朔海は、咲月の手の中にあるそれらからA型と書かれたパックを手にとった。
「まあね、確かに型によって若干味に差があることは確かだけど、本当に味に関わってくるのはむしろその人個人の健康状態とか、生活習慣とか食事事情だ。同じ血液型でも、食べ過ぎや運動不足でギラギラ脂ぎった中年男性と、ダイエットのし過ぎでがりがりな若い女の子じゃ、血の味も全然別物なんだよ。味の好き嫌いはそれぞれの嗜好だから、一概には言えないけど」
朔海は少し冗談めかした口調で咲月の疑問に答えてくれる。
「――さて、どうしようか。……このままでも飲めるかな?」
朔海は、その場に跪き、ベッドに横たわる瑠羽に視線の高さを合わせ、彼女の前にそれを掲げてみせた。
「瑠羽ちゃん、辛いと思うけど、これを飲めば楽になるから。――あんまり美味しいものじゃない……っていうか正直不味いんだけど……頑張れるかな?」
朔海は、少女に優しく語りかけた。
彼女は、薄目を開けて彼が手にしたそれを眺めた。
「それ……、たまにお父さんが飲んでるのと同じ……?」
「そっか、見たことあるんだね。うん、そうだ。それと同じものだよ」
朔海の答えに、少女は顔をしかめた。
「それね、一回お父さんに内緒で舐めたことあるよ。けど、変な苦い味がしたから、ペッてしちゃったの……」
「うん、そうだね。僕も週に一度は飲んでるからひどい味なのはよく知ってる」
朔海は、瑠羽の頭を優しく撫でる。
「でも、今の君にはどうしてもこれが必要なんだ。僕も、君のお父さんも、これを長いこと飲まずにいると、今の瑠羽ちゃんみたいな状態になってしまうんだ。だから、不味いけれど我慢して飲んでる」
瑠羽に優しい笑顔を向ける朔海の様子を、咲月は後ろから複雑な思いを抱きながら眺めていた。
小さな子どもを優しく撫でる彼の姿は、咲月の目にとても素敵に映っている。――のに、その一方で、心の中にもやもやした想いが溜まる。
なんだろう、あんまり良い感じのしない、この感情は?
――だが、その問いの答えを追求する前に、少女がパックの下部にあるチューブの差し込み口にハサミを入れ、封を切ろうとしていた朔海に問いかけた。
「うん……知ってるよ。これ、血なんだよね? でも、何で? お父さんはいつもお母さんにちゅーってしてるのに。それじゃあダメなの?」