恋の自覚
朔海は、憤りもあらわに狛に掴みかかろうとする。
――が、狛はするりとそれを躱して、逆に朔海に体当たりを喰らわせ、幼子をあしらうようにかるくどついた。
「さて、お前さんはいったい何にそんなに腹を立ててるんだい? なあ、我が悪友の主にして吸血鬼の王のご子息……綺羅星殿?」
それを受けて軽くよろけた朔海に向け、狛は挑発するように揶揄を繰り出す。
「もう何百年も白露の悪友をやってるが、俺はこいつの使い魔じゃない。――もちろん、お前さんの配下でもない。だから、お前さんの思惑に従わなきゃならん道理はないからな、俺は俺の思った通りに動いたまでだ」
狛は堂々と胸を張って言い切った。
「思った通りに、だと? ならお前の目論見は何だ」
静かに冷たい怒りをぶつける朔海に、狛は嘲笑を返した。
「お前たちの過保護っぷりが目に余ったんでね。綺羅星のや白露どころか葉月のガキですらまるで薄氷を踏むかのごとき有様とはな。真綿でくるんで大事にしてるだけじゃ、いつまでたってもその場で足踏みしたまま……核心には迫れない。――なあ、そうだろう? お嬢さん」
尻餅をついた格好のままの咲月を振り返り、狛はしてやったりと言わんばかりの笑みを浮かべる。
咲月は真っ赤な顔で右腕の傷をおさえたまま、動かない。――動けなかった。
傷から滴る血を舐め、啜りあげる朔海の、やけに艶っぽく色気の滲む表情を間近にしたまま、傷口を這う舌の感触をたっぷり堪能させられた挙句に傷口に口づけられ、強く吸われ……。
その状況と伝わってくる刺激に、頭は真っ白になるわ、心臓は暴走するわで正直いっぱいいっぱいだった咲月だが、頭と心に少し冷静さが戻ってきた後の方が問題だった。
血を吸われている最中にも感じた羞恥が、何倍にも増幅されて咲月を襲う。
下手に思い出したりしたら、きっと叫びだしたくなるに違いない。
けれど、冷静さを取り戻した心の奥で、咲月は気づく。――凄まじい羞恥を覚えたその行為に、一切の嫌悪を覚えなかった事実に。
今も――必死に思い出さないようにしているにもかかわらず、脳裏に次から次へと浮かんでくる光景に悩まされているのに、狛を相手に喧嘩をしている朔海の常と変わらぬ様子を見ると嬉しくなる。
ふと、こちらを振り返った狛の視線を追ってこちらへ視線を向けた朔海と目が合った。
先程の余韻でまだ治まらない心臓のドキドキが、その瞬間更に早まった。
顔が、熱い。
いったい今、自分の顔はどれだけ真っ赤になっているのだろう?
本の中でしか恋を知らず、自分の気持ちにも他人の気持ちにも疎く生きてきた咲月は、これまで自分の気持ちが恋なのかどうかよく分からなかった。
けれど、さすがに自覚した。
――これが、恋なのだと。
今感じているこの気持ちが恋するという感情で、その想いは確実に朔海に向いている。
――私、彼のこと……いつの間にか本当に好きになってたんだ……。
朔海に好意を抱くようになった時期と理由は明白だったが、それがいつ恋へと変わっていたのか……さっぱり分からないけれど。
でも、彼のことをもっと知りたいという想いはより強くなった。
腰が抜けて力の入らない足を叱咤し、ゆっくり立ち上がろうとする咲月に気づいた朔海が、即座に手を差し伸べてくれる。
咲月は、血で汚れた左手と、まだ少し痛みの残る右腕とを見比べ、少し逡巡した後、右手を差し出した。
「……ごめん」
朔海は小さく呟いて咲月が立ち上がるのに手を貸したあとで、そっと傷を左手でなぞった。
驚くことに、彼の手が触れたところから、たちどころに傷が跡形もなく治癒していき、痛みも消えていく。
「――ごめん」
朔海は、もう一度謝罪の言葉を口にした。
咲月が、彼の顔を見上げると、朔海はまた苦しそうな表情を浮かべている。
咲月は、彼に小さく首を左右に振ってみせた。
「あの、……ありがとう」
「――え?」
「傷、治してくれて……ありがとうございます」
朔海は、咲月のお礼の言葉に驚いた顔をする。
「私を信じてここまでついてくる事を許してくれたのに、私は言いつけを守れませんでした。だから、謝らなきゃいけないのは私の方です」
咲月は、血で真っ赤に染まった朔海の左手に目をやった。――傷は消えても、既に流れ出た血までは消えない。
「あの、……身体はもう大丈夫ですか?」
「え? ……うん、それは……もう、大丈夫だけど……」
戸惑いを隠せない朔海の答えを聞きながら、咲月は自分の左手を朔海の前に差し出す。
――ちらちらと、掌についた血へと朔海の目が泳いでるのに気づいていたから。
「でも、まだ少し辛そうに見えます。……最初から、そういう約束だったんですから、無理はしないでください」
それを目の前に突き出された朔海の瞳は、案の定、一瞬赤みを帯びた。
「無理……か」
朔海は苦い笑みを浮かべる。
「そう――狛の言った通り、僕も吸血鬼だ。……君の血の香りに惹かれずにはいられない。血に餓え、渇いている僕は今、君の血が欲しくてたまらない」
――咲月の掌を見つめながら。
「でも、僕が君を咬んでしまったらどうなるか……葉月に聞いたよね? 僕は今、腕のすり傷を癒したけれど、どうしてそんな事ができたか分かる?」
朔海は、咲月の手首をやんわり掴んだ。
「僕ら吸血鬼の魔力は血に宿る……そして僕らの体液にも僅かにそれは混じっていると、葉月が説明したね? さっき、僕は吸血衝動に抗いきれずに君を襲い、血を啜った。……傷を癒したのは、僕の唾液に含まれていた魔力の作用だ」
掌を、口元へと運ぶ。
「暖かくて、とても甘くて美味しくて、しかもちょっと飲んだだけでも物凄い力が得られる。吸血鬼にとって君の血は最高のご馳走だ。……その誘惑に抗うのはすごく大変だし、正直言えば辛い」
掌の上の血をジッと睨むように凝視しながら、朔海は眉間にしわを寄せる。
「でも、僕が好きなのは咲月さんで、僕が欲しいと思うのも君自身だ。決して、君の血を欲しているわけじゃない……そう思いたいのに、吸血鬼である僕は君の血が欲しくてたまらない――」
掌に、唇が触れる。
羞恥にまた顔が熱くなってくるのを感じながらも、咲月はまた、もどかしさを覚えた。
「……それの、どこがいけなんですか」
掌を舌が這う感触が、こそばゆい。腕の皮膚より、感覚の鋭い場所だけに余計にくすぐったく感じる。うっかり変な声を出してしまわないよう気をつけながら、咲月はその思いを朔海にぶつけた。