運命(ものがたり)の始まり
「――困りましたね……」
はぁ、と一つ大きなため息をついて、男は言った。
「でも、放っとく訳にはいかないだろ?」
他に誰もいない、閑散とした道。
一本隣の大通りは様々な商店が軒を連ねる繁華街で、大いに賑わい込み合っているのだが、その店屋の裏口が並ぶ狭い“通路”と呼ぶべきであろう通りは、あちらの喧騒が建物に遮られて随分静かなものであった。
――そうでなければ、気付けなかっただろう。
いくつも空の段ボールが無造作に積み上げられた中の一つから、赤ん坊の声がするなどと……。
それもまだ、生まれて間もない――本当につい数刻前に生まれたばかりと察せられる赤ん坊がぐずって出した弱々しい泣き声など――。
「王子。……この子はおそらく人間の子供です。こんな場所にいるなど、到底普通ではありえない。そんな厄介と分かりきったものに、貴方を関わらせるなど出来ません」
「……王子って言うなよ、白露。それに、僕がどうなったところであいつらは何とも思わないさ。でも、僕にはこの子を見捨てていくなんて出来ないよ」
「王子、それはとうに捨てた名です。こちら側でも、できれば向こうと同じに呼んで貰えるとありがたいんですがね。」
白っぽい長めのコートに痩躯を包んだ男が、微妙に顔をしかめて連れの少年に言った。
「……まあ、そうおっしゃるだろう事は予想してましたけどね。ですが王子、ではこの子をどうするつもりでおられますか?」
「え?」
「――貴方の屋敷に連れ帰りますか? 人間の赤ん坊を、貴方が一人で育てられますか?」
「……う」
男の問いに、少年は答えを詰まらせた。
人気のない通りを、ザァッと生温いのに酷く冷たい風が吹き抜ける。
風が男のコートを弄び、裾が煽られ翻る。だが、二人は大して寒そうな素振りも見せない。
対して、ビクッと身体を強張らせ僅かに息を詰まらせた赤ん坊を前に、彼等は問答を続けた。
「確かに、我々がこのまま見て見ぬふりを決め込めば、この子供はほぼ間違いなくじきに死んでしまうでしょう。……さすがにそれは寝覚めが悪い。ですが、我々はこの子を育てるのに相応しいとは言えません。そうでしょう?」
「……でもっ、それじゃあ!」
「王子、……今日の所はもうお帰り下さい。この子は、私が責任を持ってあちらへ連れ帰り、然るべき場所へ連れていきましょう。」
男は逸る少年を諭しながら、上着を脱ぐと、ボロ布を簡単に巻きつけられただけの赤ん坊をコートで包み、丁寧に抱き上げた。
「……然るべき、場所って?」
「児童福祉施設です。親を亡くしたり、その他様々な理由で親元で暮らせなくなった子供たちを預かり、育ててくれる場所です。――大丈夫ですよ。人間たちの作ったシステムです。私達が育てるより、よほども上手く育ててくれるでしょう」
まだ首の据わらない、目も開かない赤ん坊を慣れた手つきで抱え、男は言った。
その彼の言葉に納得はしたものの、名残惜しそうな表情を浮かべる少年に、男は苦笑を浮かべた。
「――まあ、とは言え。このまま名無しのままでは可哀想ですね。王子、彼女に名前を付けてあげたらどうです? 記憶には残らなくても――貴方は確かに彼女の命の恩人なのですから」
「王子って言うなって言ってるだろ、葉月。……ていうか、何で“彼女”だって判るんだ?」
「今さっき、確認しましたから」
悪びれもせず男はぴらりと巻きつけた布を緩めてはだけて見せる。
「うわっ、わっ、何してんだよ! 赤ん坊とはいえ女の子なんだろ!? いきなりそんな!」
少年は慌てて叫び、赤面する。
「……相変わらず、初心と言うか何というか。まあ、良く言えば紳士なんでしょうけどねぇ。でも、いざという時はむしろ甲斐性なしって言われちゃいますよ?」
そんな彼の反応に、男は更に苦笑を深めた。
「僕が役立たずの甲斐性なしだって事くらい、皆もう知ってるじゃないか。今さらだろう?」
少年は苦虫をかみつぶしたような表情で反論する。
「――咲月。月が咲くって書いて、咲月」
少年は、空を見上げて呟いた。
墨で塗りつぶしたような漆黒の闇夜に浮かぶ、金色に輝くまん丸の月。
「咲月――。とても綺麗な、良い名前ですね」
「――そう、僕とは正反対の名前だ。きっと……きっと、幸せになれるように」
「……朔海君」
目を伏せ俯きながらも、優しい眼差しを赤ん坊に向ける少年に、男は彼の名を呼んだ。
「大丈夫だよ、葉月。……分かってる。今の暮らしはまあ……悪くないし。あっちも百年近く音沙汰ないし。僕は……大丈夫だよ」
はくちっ、と小さなくしゃみが葉月の腕の中から聞こえた。
風は、ひっきりなしに吹き抜けていく。
――生まれたばかりの赤ん坊には相当堪えるのだろう、身を小さく固まらせている。
「おっと、そろそろ行かないといけませんね。いつまでもこんな所で立ち話をしては風邪を引かせてしまいます。まだ生まれたばかりで抵抗力も弱い子どもに風邪など引かれたら命にかかわるかも知れない」
男の台詞に少年が頷いた。
「ああ……そうだな。――頼むぞ、葉月」
「――では」
言うが早いか、葉月の身体を淡い金色の光が包み込む。と、次の瞬間、ゴッと風が唸り小規模なつむじ風が彼を取り巻くように渦を巻く。
「ああ」
朔海が、彼にかけた返事が終わるか終らないかという間際、風が弾け、彼の前髪を突風が乱した。咄嗟に舞い上がった砂埃から目を庇う様に翳した手を退ける頃には、人気のない道の何処にも、赤ん坊を抱いた男の姿は無かった。
ふぅ、と小さくため息をつき、朔海はクルリと体の向きを百八十度回転させた。
1歩、2歩、3歩。誰の姿も無い通りに靴音を響かせ歩く。
歩きながら、バサリと音をたてて背に羽根を生やした――まるで、巨大な蝙蝠を背負っているかのような羽を。
ふわりと、足が地面を離れて宙へと浮く。羽根を羽ばたかせ、空へと舞い上がり――
――ピピピピピ……
耳元で鳴る、電子音。
「う……」
今の今まで体感していた雰囲気をぶち壊す、無機質なアラーム音に、朔海は目を開けた。
寝返りを打ち、時計に手を伸ばす。
――朝の6時ちょうど。
アラームを止めて起き上がり、あくびをかみ殺しつつ思い切り背伸びをする。
「ああ、そうだ……今日は――」
夢の世界から、現実の世界へと頭をシフトさせ、徐々に昨日までの記憶が蘇ってくる。
「どおりで、あんな夢を見る訳だ」
ペタペタと、板張りの廊下にスリッパの音の響かせ、洗面所へ向かう。鏡に映った、起抜けのだらしない自分の姿。ササっと手早く顔を洗い、歯を磨き、髪を整える。
「さて、行こうか――」
誰に言うでもなく、朔海は呟き――文字通り、屋敷を飛び出す。
そう、今日は――。
「……やあ、朔海君。随分と早いですねぇ」
いつもなら、まだまだ安らかな眠りを楽しんでいたであろう所へ訪ねてきた“友人”である朔海に、葉月は不機嫌を隠そうともせずに皮肉った。
「確かにね、今日は隣町まで出かけるつもりでしたよ? ですけどね、ほとんどの商店は、10時にならねば開かない物なのです。百貨店に至っては、11時まで開かない所もあるのですよ? こんな朝っぱらから早出しなければならないような場所ではありません。」
キッチンに立ち、朝食の用意をする咲月の前で、二人は食卓に向かい合わせに座る。
「昨夜は休診でしたから、まだ良かったものの……。いつもなら、私はこれから睡眠時間を戴くのです。朔海君も、ご存じでしょう?」
刺々(とげとげ)しい口調で朔海をつつく葉月は、まだ眠そうなあくびを繰り返している。
「――あの、朝ごはん出来たんですけど……、葉月さん……どうしますか? もしお休みになるなら、ラップして置いておきますけど」
盆に、朝食を乗せた皿を並べた咲月が尋ねた。
「あ、美味しそう。豆腐と油揚げの味噌汁に出し巻き卵……。ああ、ちゃんと和食にしてくれたんだね、朝食」
昨夜、朝食は和食派なのだと言った葉月のリクエスト通り、鮭の塩焼きをメインとした、れっきとした純和風の朝食が、食卓に並ぶ。
「あの、すいません。冷蔵庫の食材、勝手に使っちゃって……」
「いえ、構いませんよ。好きに使って下さい。後で給料分とは別に、食費も含めての生活費を渡しますから、材料費ですとか、他必要な物に使って下さい。やりくりで余った分は、そのまま小遣いにして構いませんから」
葉月の言葉に、咲月はえっと目を丸くした。つまりそれは咲月にこの家の財布を握らせるも同然なのではないだろうか? ――もちろん、それが収入の全額ではないのだろうが……それでも、日々の生活費というのは月々の収入の中からの支出分の割合としてはかなりの率を占めるはずだ。
「そうですね……、取りあえず月10万ほどお預けしますので、よろしくお願いしますね」
そんな彼女をよそにさらりと言われた金額に、咲月は更に驚いた。
……確かに、二人分の生活費に加え、ちょくちょく訪れる朔海分の食費などを合わせて考えれば、生活費としてはほぼ妥当な金額ではあると思う。
だが、これまで十万などと言う――どころか万単位の金など、とんと縁のなかった咲月にとっては、未知の金額だった。
「明日からのお金は、後でそこの戸棚の引き出しに封筒にでも入れて、置いておきますから。必要な時に、必要な分だけ抜いて使って下さいね。今日は貴女の身の回り品を揃えてしまいましょうね。」
「おいおい、戸棚の引き出しって……。不用心が過ぎないか? 泥棒とか入ったらどうすんだよ」
突っ込む朔海に、葉月は意味ありげな笑みを返した。
「大丈夫ですよ。それなりに“気を使って”ますから」
「……なら、いいけどさ」
チラリと、戸棚を見やった朔海は納得したように一人頷いた。
「そうだ、朔海くん。昨日渡しそびれたアレ、いつもの所に入ってますから、後で持って行って下さい」
「ああ、助かる」
裏に含みのある会話にも、咲月は特に興味を示さずテキパキと朝食の準備を整える。皿を並べ、炊けたご飯を茶碗によそう。
ホカホカと湯気の立つ、温かな朝食。
「……やはり、こういった献立は新鮮な感じがしますね」
目の前に並べられた皿を眺めながら葉月が言う。
「冷めてしまう前に、いただきましょう」
「そうだね、じゃあさっそく」
いただきます、と、行儀よく手を合わせて、二人は箸を手に取った。
「あ、卵は出し巻きなんだね」
「……久しぶりですね、出し巻き卵。朔海君の作る甘い卵焼きも悪くないのですが」
「まあ、葉月の好みからしたらこっちの方が好きそうだよね。うん、美味しい」
惜しげもない賞賛を浴びながら、咲月は少し居心地悪そうな表情をしつつも、自分の朝食に箸をつけた。
今までも、預けられた先で食事当番を任された事は何度もあった。
けれど、こんな風に面と向って「美味しい」と褒められた事はなかったから。
朝食を口に運びながら咲月は、その幸福をしっかりと噛みしめじっくり味わう。
甘く、とろけそうな、その幸せを。
始まったばかりの幸せを、失くしてしまわないように――。