吸血鬼の口づけ
まるで、吠えるような叫び――。
苦痛の末に吐き出された悲鳴が空気を震わせ、咲月の心をも揺さぶった。
叫びが絶えた――その次の瞬間に、彼の身体が傾ぎ、力尽きたように床へ身体を投げ出し、力なく横たわった。
その肩は激しく上下し、荒い呼吸を繰り返す。
彼の着衣は汗でぐっしょりと湿り、まるで土砂降りの中で傘も刺さずにつっ立っていたかの様な有様だ。
顔色は蒼白、瞳も煌々と緋色の輝きに染まったまま。
魔力を行使するため自ら拵えた傷の数々こそ既に治りかけ、出血は治まってはいるものの――その様子はまさに、あの日大怪我をして弱り切っていた時の様……。
今の彼に、必要なもの。それ程までに消耗した朔海を癒すための方法。
彼の心に応える術が、今、たったそれだけしかない事に、咲月はひどくもどかしい思いを募らせる。
彼の傍にいる覚悟はしたけれど、本当の意味で彼の傍で生きるには、まだまだ足りない。
けれど今は、出来ることがある。たった一つだけれど、それでも何も出来ないよりは少しはマシだろう。
咲月は、朔海の傍へ行こうと足を踏み出した。
――が。
「いけません、……今、朔海様に近づいては――」
葉月が、咲月の行く手を阻むように片腕で制した。
「今、朔海様は術式に多くの魔力をつぎ込み、消費したことでひどく消耗しておられます。――我々吸血鬼は、ひどく消耗した際、それを回復するため人間の血液を必要とし、その為に強い吸血衝動を覚えます。……今の朔海様は、血に餓えている状態です」
床に横たわったまま、荒い呼吸を繰り返しながら、緋色に染まった瞳で何かを探すようにあちこちへと視線を流す朔海。
「我々吸血鬼にとって、血の渇きというのは食欲や睡眠欲などの本来生物に当たり前に備わった生命活動に関わる類の欲より優先されます」
葉月は、朔海の状態を注視しながら、咲月を庇うように、朔海との間に立ち位置を調整する。
「――我々は、元々他生物の遺伝子を吸血によって得て生き存えてきた生物であり、悪魔から借り受けた力によって魔物となった一族です。悪魔の力の毒は強く、それに抗えるだけの力を失った場合――自我や理性はその毒素に犯され、歪められ……真実、化け物になってしまう」
朔海へと向ける葉月の視線は、いつになく厳しい。
「だからこそ、弱った時の吸血衝動は凄まじい。意志の力だけでそれを抑え込むのは、至難の業です」
葉月は、咲月の行く手を阻んだ腕で、そっと部屋の扉の方へと促した。
「今近づけば、朔海様は衝動を堪えきれずに咲月くんに牙を立てるでしょう。……朔海様は、後から私が運びます。今はまず、部屋を出ましょう」
「……嬢ちゃんを、坊ちゃんから守れ、とのご命令だからな。大丈夫だよ、ちょいと魔力を使いすぎただけなんだから。嬢ちゃんの血を飲めば、たちどころに回復するさ」
「ええ。……その為にも、急いで採血の準備をしなければなりません。さあ、行きましょう」
葉月と、青彦とに交互に促される。
「でも……」
理由を説明されても、消耗しきった朔海を置いて行くのはあまり気持ちの良いものではない。
「ははっ、お前ら、相変わらず過保護なんだなぁ」
躊躇っていた咲月の服の裾をクイッと咥えて引っ張り、狛が葉月の腕から彼女を奪った。
狛は葉月らと咲月との間に割って入り、自らの身体で2人の間を遮る。
――必然的に、咲月と朔海との間を遮るものがなくなる。
ひたりと、朔海の瞳が咲月へと据えられた。
爛々と光り、輝く緋色の瞳の奥に、暗く虚ろな影が見え隠れしている。
ジッと、こちらを凝視しながら、ゴクリと唾を飲み込んだ。
葉月の説明がなくとも、血を欲しているのだということは彼のその様子から明らかだった。
ふと、彼らが吸血鬼だと知った翌朝、もしも彼らに襲われたら……などと考えたことを思い出す。
そして、血を吸われすぎてしまった場合の結末について以前、葉月から聞かされたこと――毒により、化け物となってしまうのだと。
むくり、と力なく横たわっていた朔海が、ぎこちなく起き上がった。
「――! いけない、咲月くん、今すぐ朔海様から離れて!」
葉月が鋭く叫んだ。
……けれど今、朔海から離れるというのは、彼から逃げる事になりはしないか。
朔海が今朝渋っていた理由とはつまり、まさに今の状態を目にした咲月の反応を恐れていたからだ。
逃げない、と。咲月は彼に約束をした。
けれど、ここへ来ることを許してもらった際、彼自身から葉月の傍を離れないよう言われた。
今のこの状態は、彼にとっては不本意な事なのだ。
朔海は、咲月を傷つけてしまう事を恐れていた。
咲月は、どちらの行動を選ぶべきなのか、咄嗟に選ぶことはできなかった。
足をその場から動かせないままただ立ち尽くす。
朔海が、一歩、こちらへ歩み寄ろうと足を踏み出した。
「咲月くん! ――ええい、狛、どきなさい!」
「嫌だね。過保護もほどほどにしておかないと、何も始まらない」
後ろで、葉月と狛とがもみ合いながら押し問答をしていたが、咲月は朔海から目を逸らすことができなかった。
一歩ずつ、ゆっくりと彼が近づいてくる。足元がおぼつかず、ふらふらの状態で――彼の瞳がまるで睨むように見据えるのは咲月の首筋。
もうすぐ、彼が手を伸ばせば届いてしまうだろう距離。
このままいけば、彼に咬まれてしまうのは必至。咲月の心臓が騒ぎ立てる。
……だが、何故だろう。不思議と恐怖は感じない。
血で汚れた左腕を重たそうに持ち上げ、朔海が咲月の肩に触れようとし――突如、がくんと彼の膝から力が抜け、崩れ落ちそうになる。
咲月は咄嗟に自分の腕を伸ばし、朔海を支えようとしたが、女の腕で男の体重を支えるのは難しい。
支えきれずに、朔海に下敷きにされる格好で尻餅をつき、一緒に倒れこむ。
「――っ、痛っ」
はずみで、右腕を床にこすりつけ、肘から手首にかけての広い範囲に擦り傷ができ、そこからじわっと血が滲んだ。
――それを、今の朔海が見逃すはずはなかった。
朔海は、咲月の手首を捕まえて傷口を自らの口元へと運んだ。
擦ったばかりで熱を持つ傷口を下から上へと暖かく湿った感触が、何度も執拗になぞり上げる。
傷口を眺める緋色の瞳は艶っぽく潤み、血の滲むそこを熱っぽく見つめ続ける。
やがて、僅かに滲むだけの血を舐めるだけでは足りなくなったのか、朔海は傷口に唇を寄せ、強く吸い付いた。
牙こそ立てられていないものの、ものすごくくすぐったい。
でも、朔海の喉が咲月の血を飲み込むごとに、明らかな回復がみられる。
心臓がどうにかなってしまいそうな程に暴れているけれど、一方でホッとする。
少しずつ、朔海の瞳が緋色から元の濃紺へと色を変えていき、理性の色が戻ってくる。
「――っ、ハッ……ハァ」
傷口を口元から放し、朔海はまだ少し荒い呼吸を整えながら、辛そうに眉間にしわを寄せた。
「……狛」
そして、ぽそりと小さく呟いた。
「――狛」
そしてもう一度。今度ははっきりと、咲月の背後の狛を睨みながら低く唸る。
「お前、いったいどういうつもりだ!」




