術式‐描き出される魔法陣‐
「葉月、いいな?」
朔海は、緋色の瞳で咲月の方を振り向いた。
まず、葉月に一言、確認の言葉を向けたあとで、瞳に宿した鋭い光をほんの僅かに和らげ、微笑む。
「――咲月さん、色々聞きたいこととかあると思うけど、後できちんと説明するから……今はそこで、葉月と一緒に待っていて」
朔海は、ズボンのポケットを探り、鞘のついた小さな小刀を取り出した。
果物ナイフ程のサイズの刃物の柄や鞘の部分には、遠目からでもその精緻さが見て取れる見事な彫刻が施され、落ち着いた品の良い彩色がなされている。
一見して、そこらの安物ではない、それなりに価値のあるものとしれるそれの鞘を、朔海は無造作に払い、ポケットに戻す。
鞘の下から現れた刀身は、鈍い輝きを放っている。
――鉄やステンレスでできた包丁やナイフのものとは明らかに違う質感。だが、直に見たことはないが、あれに似た輝きを、咲月は見たことがあった。シルバー製のカトラリー……、高級な西洋料理をいただく時に使う、あれ――それも昔の貴族や現代のお金持ちの使う銀食器の輝きに似ていた。
銀製の、小刀。
その柄を逆手に握り締めた右手を、次の瞬間、朔海は己の左腕へと躊躇いもなく振り下ろし、刃を突き立て、肘から手首にかけて表面の肉ごとざっくりと豪快に切り裂いた。
当然の如く、派手にパックリ開いた傷口からはどっともの凄い勢いで真っ赤な血が溢れ出してくる――が、普通であればそのまま重力に引かれ、当たり前に地に滴り落ちていくはずのそれが、どういうわけかふわりと途中で落下の軌道を変え、ふわりふわりと血の筋が宙を滑るように浮かび、また幾筋にも分かれて、それぞれがまるで生物であるかのような動きを見せ始める。
ただの細長い血の筋であったそれが、徐々にはっきりした容貌になっていく――先程まで、青彦を締め上げていた有翼の蛇と同じ姿へと――。
1匹、2匹、3、4、5……10……13。
最初の1匹を含め、全部で13匹の血色の翼を持った血色の蛇が、朔海に従うように彼の周囲をふわりふわりと漂う。
朔海はナイフを握った手を前へ差し伸べ、何かを指し示すように人差し指を立てた。
「――行け」
朔海は低い声音で短く、鋭い命令を下した。
即座に、漂っていた蛇の1匹が反応し、これまでのふわふわした動きが嘘のように、射られた矢のごとく素早く鋭い動作で、朔海が指し示した方へと飛び出していく。
蛇の長細い肢体が、見る見る間に伸びていく。どんどん長さを増すその肢体はゆるくカープを描き、明るさの届く範囲ギリギリをぐるりと囲い込むような大きな円を形づくる。
自らの尾を咥える格好で、蛇の肢体はゆっくりと床面へと降りていき、それに触れた瞬間、蛇の形が崩れ、元の血の塊へ変わり、ピシャリ、と液体の滴る小さな音を立てて落ちる。
さらに続けて、朔海が命じる。
「――行け」
命じられ、今度は6匹の蛇が同時に飛び出していく。先程の蛇が描いた円の中、蛇は六芒星を描いて消えた。
円の中の六芒星。――見るからに、魔法陣であろうと知れる形だ。
「――行け」
朔海は、三度、命令を下した。
1匹、また1匹と蛇が飛び出していく。
今度の蛇たちが描き出すのは文字――あれは……確かルーン文字と呼ばれるもの。
六芒星の内側、2つの正三角形合わさった中央の六角形のなかには「門」を意味するルーンが。
六芒星の外側、内側の六角形から突き出た6つの三角形のうち、上向きの三角形の内に属する三角形の中には「停止・凍結」を意味するルーンが。
残りの、下向き三角形に属する三角形の中には「束縛」を意味するルーンが。
さらに、六芒星と外側の円との隙間部分の6つの扇形の部分には「防御」を意味するルーンが描かれる。
全ての蛇が血の線へと化すと、朔海は描かれた魔法陣の円の中へと歩いていく。
魔法陣の端、扇の中の「防御」のルーンのひとつの上で、朔海は足を止めた。
そこで、朔海は右手に握り締めたままの小刀で、今度は自らの左の掌を貫いた。
先程からの行為は、何も知らずに見れば自傷行為以外のなにものでもない。
――さして痛そうな表情こそ見せてはいないが……どっと溢れ出す大量の血が床へと落ちていくのを見ると、痛々しくてならない。
吸血鬼の魔力は血に宿る。……だから、どんな術を扱うにも自らの血を用いるのだと、咲月はすでに聞かされ、知っている。
……だが、一方で大怪我を負い、大量の出血で弱った朔海の姿も、咲月は知っている。
掌から落ちた血を、床に描かれたルーン文字がまるで喰らうように吸い込み、赤黒い血色だった線が、青白い燐光を放つ。
それを見届け、朔海は次の扇へと移り、そこにも血を落とす。
全ての「防御」のルーンが青白い光をまとうと、今度は六芒星の外側の三角を反時計回りに進み、そこに描かれた「停止・凍結」と「束縛」のルーンにも自らの血を落とし、青白い光をまとわせていく。
――が、一つ一つのルーンが光をまとうたび、朔海の顔色は目に見えて悪くなっていく。
それはそうだろう。どう考えても尋常ではない出血量なのだから。
もしも咲月があれと同じだけの量の血液を失えば、生死の境を彷徨う事態になるだろう。
最後、中央の「門」のルーンにも血を落とし、全ての文字に青白い光をまとわせた朔海は、次に魔法陣の“線”にもこれまでと同じように血を落としていく。
まずは六芒星の、上向きの正三角。そして下向きの正三角。さらに外側の円。
血を落とせば、それらの線も、文字と同じく青白い燐光を放つ。
魔法陣全体が光をまとった――その瞬間。
魔法陣の円に沿って天井まで届く青白い光の壁が音もなく現れた。