闇への誘い
ギギギィ、と、聞こえもしない擬音が頭に響いた気がした――。
重々しく開かれた、やけに重厚な造りの扉のその先にあったのは、文字通り、一寸先さえ見えぬ闇が支配する空間だった。
そこは、診療所の事務室。
無骨な事務机が一つ、押し込まれただけのごく狭いその部屋の一番奥の壁――他三方の壁や天井と同じ壁紙が貼られた、何ら変哲のない壁面。
しかし、朔海が手を触れた瞬間、それは目の前で幻のように消え去り、代わりに現れたのは、そこにあったはずの壁から少し奥まった場所に現れた壁面に取り付けられた一枚の扉。
扉のこちら側の部屋は、窓がないため薄暗いが、それでも廊下からくる僅かな光で物を判別するのに困る程ではない。
なのに、扉の敷居のすぐ向こうすらも闇に塗り込められたその先は、すぐそこにあるはずの床すら視認できない。空間の広さは勿論、内装の様子など、一切見て取ることができないのだ。
だが朔海は躊躇うことなく、当たり前のように一歩踏み出し、咲月を振り返ると、こちらへ手を差し伸べた。咲月を、その闇の空間へと誘うために。
五感のうち、人間が一番頼りにする視覚が一切役に立たない闇への本能的な恐怖は、否応なく心の内を支配する。
――それでも、咲月は朔海の手をとり、竦みそうになる足を持ち上げ、敷居を跨いだ。
「――ここからすぐ、下り階段になってる。……気をつけて。ここ……段になってるの、分かるかな?」
朔海はペタパタと、わざとスリッパを履いた足を踏み鳴らし、その音で段差の存在と高低差を咲月に示した。
僅かな、音の違い。確かに段差があることは認識できるが、それを目視することは叶わない。
扉の向こう――事務室側はまだ確かに僅かながら明るいのに、扉のこちら側へ一歩入った途端、すぐ隣に居る朔海の顔さえ闇にうもれて見えなくなってしまったのだ。
確かに目を開いているはずなのに、本当に目蓋を開けているのかどうか、自分でも分からなくなる。
そんな闇の中で踏み出すには相当に勇気が要る。
それも、平坦な道ではなく、一歩踏み外せば事故になりかねない、先の見えない下り階段。
けれど、この闇の先へ行くことを望んだのは他でもない、咲月自身だ。
きゅっと、手に感じる彼の手の温もりを握り締め、それを縁にまずは一歩を踏み出す。
そっと、探るように片足で段差を確かめ、一段下る。一歩、一歩。探り、確かめながら進む歩みはひどくのろい。
この階段が、一体どれだけ続くのかは分からないが、これを下るだけで少なくない時を消費してしまうだろうに、朔海は一切急かすことなく咲月を導く。
彼の足取りには、一切の迷いがない。彼には、この闇も見通せる目が備わっているのだ。
……彼の視界には、今、どんな光景が映っているのだろう?
足に感じる感触や、聞こえる音の感じからすると、この階段の材質はコンクリートか……何かの石材のように思われる。
肌に感じる肌寒さからすると、部屋全体が、同様の材料で造られているのだろうか。
最初の数段こそ一段、二段、三段……と数えていたものの、十数段を数えたあたりで何となく数えるのをやめてしまった。
先の見えない闇の中に居る、という不安からくるストレスは、思っていたよりも重く、普段ならどうということはない程度の運動量で息が上がる。
もしも今、唯一の縁である朔海の手を失ってしまえば、咲月はそこから一歩も先へは進めず立ち往生してしまうことになるだろう。
これまで、自分の力だけを頼りに、人に頼ることを知らずに生きてきた咲月にとってはその事実もまた、ストレスの種だった。
もう……何十段下りてきただろうか?
疲労で、闇以外何も映ることのない視界が一瞬、ぐにゃりと歪んだ気がして――光の星が、パッと散った。
「きゃっ!?」
ちょうど、次の段差を確かめて、そこへと重心を傾ける最中だったのが、良くなかった。
一瞬のこと、頭で何かを考える余裕はなかった。
バランスを崩し、――咄嗟に、繋いだ彼の手をより強く握る事しかできず、ヒヤッと背筋が冷え、思わず息を詰めた……けれど。
――落ちる! と。
……そう思い至るより早く、咲月の手を取っているのと逆の腕に素早く背を支えられ、
「大丈夫!?」
と、心配そうな朔海の声が耳に届く。
咲月は、何とか頷きを返すが、声が喉に詰まり、返事が出来なかった。ドキドキと、一拍分遅れて心臓が騒ぎ出す。
「……怪我は?」
片手を繋ぎ、もう片方の手は背に触れている。――まるで社交ダンスでも踊るかのような格好だ。
視界が利かない分よりその密着度を意識してしまう。いつもより早い鼓動のリズムが、本当にたった今の事故の恐怖によるものなのか判別できない。
「……ごめん、やっぱり最初からこうするべきだったね」
先ほど感じた眩暈とは別に、頭がくらくらしてくる――と、思った矢先、朔海が呟いた。
次の瞬間、咲月の体は軽々と朔海に抱き上げられ、あっという間に横抱きにされる。
「――!」
咲月は驚きと、羞恥で思わず声にならない悲鳴を上げるが、状況的にむやみに暴れるわけにはいかず、耐えるように身体を強ばらせた。
こちらからは朔海の様子は窺えないが、きっと彼の目には真っ赤になった自分の顔が映っているのだろう、苦笑する気配が伝わってくる。
「……ごめん」
――彼はもう一度、謝罪の言葉を口にしながらも、咲月を抱き上げたまま階段を下り始めた。