覚悟
「――朔海様。……よろしいですね?」
葉月が、朔海を諭すように尋ねた。
しかし朔海は返答しないまま、渋面を深める。
咲月は、そんな彼の表情に既視感を覚え、ふと、思い出す。
――行かないで……頼むから……逃げていったり……しないで……
彼の心からこぼれた、声にならない言葉。あの時も彼はこんな表情をしていた。
あの時、彼は恐れていた。自らの正体が咲月にバレ、咲月が彼から離れていくのを。
では、今回は何を恐れているのか。
……力を使うこと? ううん、それだけなら昨日、ほんの少しだけど見せてくれた。力をたくさん使う術だから嫌だ――って……あ、もしかして……
これまで聞き及んだ話から、なんとなく彼の恐れの理由を察した咲月は、まず自分の心に覚悟の程を問うた。
――うん。きっと……ううん、絶対に大丈夫。
咲月は、そっと手を伸ばし、湯呑みをきつく握り締めたままの朔海の手に触れる。びくりと朔海の身体が固まるのを無視して、彼の片手を包み込むように両手を添えた。
「……私はもう、あなたが吸血鬼だと知っています。理解している、って言うにはまだ早いかもしれないけれど、だからこそきちんと知りたい。あなたが恐れているその事も含めて」
咲月は、揺れる朔海の瞳を見据えながら言葉をつなぐ。
ひとから忌避や嫌悪の目を向けられ、言葉の暴力を受ける痛みや辛さなら嫌というほど良く知っている。
ましてやそれを、身近な者……それも数少ない自分を受け入れてくれていた者から向けられる恐怖は計り知れない。
彼は初めから、何よりそれを恐れていた。
――私に嫌われたくないから、だから優しくしてくれるの……?
彼が優しいのは、勿論元々の性格というのも多分にあるのだろうが……
――逃げないって、言ったのに。……信じてくれてないの?
きっと、彼は信じてしまうのが怖いのだ。信じて、その結果期待が裏切られるのが怖い。
その気持ちも、咲月には良く分かる。
――だからこそ。
「その過程で、あなたの事を“怖い”と思ってしまう瞬間ももしかしたらあるかもしれません。でも、それだけであなたを嫌ったり、この家から逃げ出したりは絶対にしません。――できません、私には」
両手に、力がこもる。
「それだけは、信じてください」
辛い過去と、この先の人生を大きく左右する重大な岐路が待つ未来。
その内容の濃さにこそ差はあれど、朔海もまた、咲月と似たような境遇の中を生き、そして咲月と同じようにこれから先の未来への不安を抱えているのだと、今更ながらに気づいたから。
「――っ、」
思わず言葉を詰まらせる朔海。
一瞬の後、彼の固まっていた体から一気に力が抜け、椅子の背もたれにだらしなくもたれかかった。
眉尻が下がり、情けない表情を片手で覆い、呻いた。
「おいおい坊ちゃぁーん、嬢ちゃんにここまで言わせたんだ、勿論断るなんて言いやしねぇよな?」
「……出来るわけないじゃないか、そんな事」
一つ、大きなため息をついて。朔海は姿勢をただして座りなおす。
「――分かった。その代わり……なるべく、葉月か紅姫たちの傍から離れないで」
そして、咲月には聞こえぬよう、葉月に命じる。
「葉月、命令だ。彼女を――僕から守れ。」
「朔海様……それは……」
葉月は朔海が渋っていた理由を悟り、気遣わしげな表情を浮かべた。
「……承知いたしました、朔海様」
朔海に頭を下げてから、葉月は席を立った。
「では。私は場所の準備をしてまいります。――すぐ、戻りますので」
もう一度、朔海に対して頭を下げると踵を返し、部屋を出ていく。
「僕も……ちょっと診療所の方に用があるから」
朔海も席を立ち、葉月の後を追うように部屋を出る。
――廊下に出た途端、再びため息が漏れる。
「あぁ、もう……魅力ある男って……道のりは険しいなあ……」
必死になって隠していた怖れを見透かされ、励まされてしまうとは。
「情けないにも程があるって……」
朔海は診療所へ続く扉を開け、薬品室の冷蔵庫を勝手にあさり、血液パックを一つ、掴み出す。
「……ほんの気休めにしかならないだろうけど」
それでも、ないよりはマシだ。――何もしないまま臨んで、うっかり餓えに理性を奪われ彼女に牙を立てるなんて失態を犯す訳にはいかない。
「あの時、場所で、彼女を最初に見つけたのは僕だ。彼女を人間たちに預けると決めたのも、彼女を僕たちのもとへ引き取ると決めたのも僕だ。――僕が、彼女を守らなきゃいけないんだ」
彼女から、とても嬉しい言葉を貰ったのだから。
「――朔海様。部屋の支度が整いました」
口にくわえたパックの中身が空になる寸前、背後に立った葉月がさっとその場に跪いた。
「朔海様……。先日青彦からもそれらしい報告を受けたのですが……その渇き、いつ頃から感じていらっしゃいますか」
跪いたまま葉月が気遣わしげな表情で朔海の顔を見上げる。
「多分……あの日。彼女が、この家に来たその日からだ。でもあの時はまだ、そんなに強い渇きでもなくて……久しぶりにこっちの世界に長居したせいかと思ってたんだけど。その後……葉月から例の話を聞いた日あたりからかな……日に日に渇きを強く感じるようになって……。でもやっぱり決定的だったのは、彼女の血の味を覚えてしまったあの日だ」
朔海の答えを聞いた葉月は目を伏せた。
「術式の後……渇きに暴走するかもしれない。もしそれがなくとも、再び彼女の血を口にして、今より更に強い飢餓を感じるようになったら……一体どこまで自分を抑制できるかも自信がなかったから」
朔海は葉月に背を向けたまま、目を閉じる。
「――でも。僕は、彼女を守りたい。……僕が彼女を守る。だから、葉月――」
覚悟を決め、朔海はようやく葉月の方へ体ごと向き直り、彼を見下ろしながら告げる。
「葉月が持つその血の力を、僕に分けて欲しい」
「朔海様……」
「もちろん、今すぐじゃない。けれど、今回施す術の期限が切れるその時までにはその力、僕のものにしてみせる」
きっぱりと言い切った朔海の宣言に、葉月は再び、深く頭を下げた。
「――承知いたしました、朔海様」
「……さて、じゃあそろそろ始めようか。と、その前に……咲月さんを呼びに行かなきゃ」
朔海は、葉月に手を差し出した。葉月はその手に自分の手を軽く合わせ、パチンと互いに叩きあい、立ち上がる。
「では、私は先に部屋でお待ちしておりますので」
そして、それぞれ目的の場所へと歩き出した。