渦巻く衝動
「うー、やっぱり丸々半日車のシートに座りっぱなしって……疲れる……。身体がが固まっちゃって……」
いつものように、自宅脇の行き止まりの道に静かに停車した車から降り、少しぎこちなく背伸びをした朔海が、2、3回屈伸運動をした後で、反対側のドアを開け車を降りた咲月を振り返る。
「……あ、咲月さん、ちょっと待って」
葉月から玄関の鍵を手渡された咲月が、アプローチを進もうとするのを朔海が止めた。
「出る前に仕掛けておいた術式、解かないと……」
朔海の言葉に振り返りながら、アプローチの石畳に一歩足を踏み出した――その瞬間、ピリッとつま先に静電気が走ったような痛みを感じ、咲月は顔をしかめた。
「――!、大丈夫? ……ごめん、ちょっと遅かったね」
朔海は、咲月の手を取り、そっとその場から引き離しながら、もう片方の手を自らの口元へ運び、その人差し指にがりっと牙を立て、傷口から滴る血を一滴、足元へ垂らした。
――すると。血の滴が地面へすぅっと染み込んでいくと同時に、赤黒く染まった血で描かれた直径50cmほどの円状の魔方陣が現れる。
その魔法陣の端に、更にもう数滴血を落とし、その上から靴を擦りつけるようにしながら血で描かれた線を消し、小さく呟いた。
「――術式、解除」
瞬間、赤黒い線が一瞬青白い燐光を放ち――パシン、と僅かな衝撃とともに弾け飛び、地面に描かれていた魔法陣――赤黒い線がその痕跡すら残さず綺麗さっぱり消滅し――
「消え、た……? あの、これは……」
訊ねながら、咲月は朔海の顔を見上げた。
「ああ、うん。旅行に行ってる間にもしもあっちから迷惑な客が押しかけて、ご近所の迷惑になると困るから、簡単な結界を張っておいたんだ。……あくまで簡易の術式だから、この前みたいな連中相手には効果ないんだけど。でも、弱い奴なら壁に触れただけであっちの世界へ強制送還できる」
朔海は、僅かに赤く染まった瞳をこちらへ向け、そう説明してくれる。
――つまりは、俗な言い方をすれば魔法と呼ばれる類の、現代科学がその存在を否定したはずのもの。
明らかに非現実的かつ非日常的な光景だ。
漫画や小説の中だけの存在だったそれを実際に目の当たりにした咲月の胸の中で好奇心が疼く。
「明日にも、さっそく例の術を構築にかかろうと思う」
朔海の言葉に、トランクから降ろした荷物を両手に抱えた葉月が頷いた。
「ええ。――そのための遠出だったのですからね。さあ、早く中へ入りましょう。こんな所で夜風に当たって身体を冷やせば風邪をひきますよ」
咲月は慌てて玄関に駆け寄り、鍵を開け、扉を開く。
「んじゃ、荷物は葉月に任せて……咲月さん、着替えてからで構わないんだけど、お風呂の支度だけしておいてくれる? その間に僕は夕飯の支度をしちゃうから」
「あ、はい。分かりました。……あの、じゃあ……着替えてきます」
葉月から自分の着替えの入ったバッグを受け取り、小さくペコリと頭を下げてからつっかけたスリッパの音をパタパタと響かせながら階段を駆け上がる。
「僕も着替えてくる」
その背を見上げながら、朔海は短くそう告げて、玄関に置かれた荷物の大半を抱え上げ、彼女の後を追うように廊下を歩き出した。
キッチンに戻す分、葉月の分の荷物、洗濯物――それぞれ荷物を分配した後。
パタン、と後ろ手に部屋の扉を閉め、部屋の大部分を占領するベッドの上に自分の荷物の入ったカバンを放り、明かりも点けないまま、着ていた上着やズボンを脱ぎ散らかす。
はぁ、と小さく吐いたため息が、抑えきれない微熱を帯びる。
ゴクリと、口内に溢れる唾液を飲み下す。
――明日には、また彼女の血を味わえる。
あの、暖かくて甘い、力に満ち溢れた極上の――乙女の、生き血。
他生物の生き血を糧に生きる吸血鬼にとって、間違いなく最高級の極上品に分類されるだろう、あの血の味の記憶――。
この一週間、必死に頭の中からその記憶を追い出そうと苦心してみたものの、その甲斐もなく、ふとした瞬間に不意に思い出しては、その度に溢れる欲を唾液と共に飲み下す事をもう何度繰り返しただろう?
――正直、明日が少し怖かった。
明日。もう一度彼女の血を口にして、その味を覚えてしまったら。
彼女の姿を視界に収める度に喉を鳴らすような、そんなおぞましい化け物になり果ててしまうかもしれない。
「僕が、吸血鬼でも構わないって、彼女はそう言ってくれたのに……この先もずっと、一緒に居られるかもしれない未来が、やっと少し見えてきたのに……何で、僕はこんな――!」
朔海は、口元を手で抑えながらその場に蹲る。
決して、渇いているわけではないにも関わらず、餓えを強く感じる。
これまで、三百年生きてきて、当たり前に自分の傍に居てくれる存在はただ一人。
父王に、自分の教育係だと紹介された葉月――当時は白露と名乗っていた――彼、ただ一人だけだった。
いくら半分は人間の血が流れているダンピールとはいえ、一応吸血鬼の端くれである上、同性の葉月を相手に吸血衝動を覚えたことなどあるはずもなく。
しかも、最近では衝動を感じる前に必要な分は血液パックで補給するのが当たり前になっていたから。
――こんなにも強い吸血衝動を感じるのは……一体何時以来だっただろう。
彼女の傍に居られる事が嬉しくて。
彼女と何気ない会話を交わすのが楽しくて。
ようやく少しずつ見せてくれるようになったまだ少しぎこちない彼女の笑みを見られる事が嬉しくて。
彼女のためにしてあげる事の全てに幸せを感じている自分が居る。
なのにその一方で、彼女自身そっちのけで、欲望のままに彼女の身体を流れる甘い真っ赤な血を目当てに彼女の肌に牙を立てる瞬間の事ばかりを考えている自分が居る事実に、朔海は嫌悪を感じずにはいられなかった。
葉月という唯一の例外を除けば、朔海の周囲に居る者たちにとって彼のその性格は蔑みや嘲笑の対象でしかなく、常に出来損ないの半端者扱いをされ続けてきた。
――さすがに、それを愉快に思える程におめでたい性格はしていないが。
けれど、それでも。朔海は何よりも、、自らの中に流れる血を――戦いを好み、力を欲し、持てる力を誇示したがり、より良質な糧を求めては常に渇望し続け、満足する事を知らない吸血鬼という名の魔物の本性こそをずっと忌み嫌い続けてきた。
吸血鬼の王とその正妃の間に生まれ、吸血鬼の第一王子として優秀な側仕えに囲まれ、物心がつくまでずっと、それこそが唯一絶対の正義であり、当然の本能であり、強さこそを何よりの誇りとする環境の中育ってきた自分ですら受け入れがたい本性。
吸血鬼である事実を知って尚、共に居ることを望んでくれた――それだけでも奇跡だというのに。
あと、一年。――たったそれだけの時間の中で、彼女に強いる選択の重さが、朔海の心にのしかかる。
本当に、もしもの奇跡が起こったとして。その為に彼女が負う計り知れない負担を、果たして自分は共に背負えるのか。
自分が忌み嫌うそれを彼女に押し付るしか選択肢のない現実が歯がゆく、吐き気すら感じるほどの嫌悪感と罪悪感に押しつぶされてしまいそうだ。
「彼女と二人一緒に居て、良い思いをするのは僕ばかりで、嫌なことや辛い思いをするのは彼女だけだなんて、あまりにも理不尽すぎる」
自分が望んだのは、彼女の幸せな未来。自分がしたいのは、彼女のためになる事。――なのに。
実際には不本意かつ過酷な未来の選択を押し付ける結果となり、他ならぬ自分こそが彼女の負担となってしまっている。
自分の判断ミスにより、本当なら全く無関係でいられたはずの運命に巻き込んでしまった関係で生命を狙われている彼女を連中から守るための術式に必要な力を得るために、彼女の血を喰らう。
「本当に……とんだ人でなしだ」
固く目を閉じ、グッと牙で唇を噛み締めながら苦い笑いを浮かべ、朔海は呟く。
「それでも……もう、僕は彼女無しには生きられない――」
あと一年。その間に、本当にそれだけの覚悟をしてもらえる程に魅力ある男になれるのだろうか?
「――いや、もうなれるかなれないかなんて言ってる場合じゃない。……ならなきゃ、いけないんだ」
強く、拳を握り締めながら、朔海は渦巻く欲を半ば無理矢理に抑え込む。
「ご飯、作らなきゃ……。疲れてるだろうし、なるべく軽く食べられそうなもの――。でも明日の事もあるから……しっかり栄養も摂れるような――」
もう一度、唾液を飲み下してから。
朔海は、ゆっくり立ち上がり、身支度を整えて部屋を出た。
――今夜はリゾットにしよう。野菜と魚介をたっぷり入れて、ハーブとチーズで味を整えて。付け合せにスモークチキンをつけるのもいいかもしれない。
朔海の作る料理を、どうやら咲月は気に入ってくれたらしい。旅行中、毎日3度出される朔海作の食事を食べている最中、彼女には珍しい、自然な笑みを度々見せてくれていたから。
元々料理をするのは好きだが、それ以上に今、それが楽しくてたまらない。
「そうだ、明日――仕事だけ済ませたら、彼女が好きだといったレーズンサンドを作ろう。材料にもこだわって、最高に美味しいものを作って……。お茶も、それに合う美味しい紅茶を淹れて。彼女の血の味など忘れてしまえるくらい、とびきり最高のお茶会を開こう」