心の揺らぎ
「うん、やっぱり温泉に来たならこれだよね」
もしゃもしゃと、口いっぱいに頬張ったそれを飲み込み、朔海はほくほくしている。
「それは分かりましたけどね、朔海くん。――いくら何でも食べすぎですよ」
葉月は、呆れた目を彼へと向けた。
温泉街の食堂でお昼を食べたあと、土産屋の並ぶ通りを歩きながら、朔海はそれぞれのお店でそれを買っては食べ、買っては食べを繰り返している。
「だってさ、これ、お店によってみんな微妙に味とか違うんだよ。折角なんだし、この際全部制覇してみたいなあ」
そう言いながら、彼はまた次の店でそれを買い求めた。
「――あ、これは美味しい。おじさん、もう一個ください!」
実際食べてみて、彼が美味しいと判断したものは必ずもう一つ購入し、
「はい、咲月さん、どうぞ」
と、手のひらにすっぽり収まる小さく丸いそれをのせてくれる。
「あ、ありがとうございます……」
蒸したてで、まだほくほく湯気の立つ温泉まんじゅう――これでもう4つ目だ。
いくら一つが小さいとはいえ、すでに昼食をしっかり腹に納めたあとである。いくら甘いものは別腹とはいえ……「食べ過ぎる」という行為にあまり縁のなかった咲月には、その小さなひとつもそろそろ重くなってくる。
しかし、自分の数倍の量を腹に納めたはずの朔海の目はまだまだ意気揚々、次の店のそれの品定めに向けられている。
「甘いもの、好きなんですね」
「うん? まあ、そうだね。食べるのも好きだけど、作るのも好きだよ。ただ――」
朔海は、ちらりと背後の葉月を見やる。
彼は、先程の店で買ったお茶――湯気の立つ熊笹茶を啜りながら、
「別に、甘いものが嫌いなわけではありませんよ。まあ、正直得意でもありませんが」
と渋い顔をした。
「料理……、食事だけじゃなくお菓子まで作れるんですか?」
「ええ、結構本格的ですよ。和菓子から洋菓子まで幅広く。実際、確かに美味しい事は美味しいのですが……」
咲月の問いに、葉月はさらなる渋面を浮かべながら答えた。
「まあ、野郎の作った菓子を野郎と2人きりで食ってもなぁ。ものは美味くとも味気ねぇもんな」
日中――とくに人の多い場所では居ることの少ない青彦が、いつの間にかすいっと葉月の足元に添いながらニヤニヤしている。
「……まあね。せっかく作っても、食べるのは自分と葉月だけだと思うと……ちょっとね」
朔海は少し肩を竦めてみせた。
「あ、……でも、そっか。今は君がいるんだ。ねえ、咲月さんはどんなお菓子が好き?」
「え? ええと……和菓子なら、いちご大福とか好きです。あとは……あ、前に一度だけ食べた六花亭のレーズンサンド! あれが、美味しくて……いつかもう一度食べてみたいと――」
自然に尋ねられ、気づけばするりとそんなセリフが口からこぼれていた。
「レーズンサンド、ね。OK、今度作って来るよ」
朔海はうきうきしながら、さっそく頭の中のレシピの確認作業でもしているのか、視線が店先のまんじゅうからそれた。
本当に朔海は――咲月の行動や言葉一つ一つに必ずそういう反応を返してくる。
そうして向けられる彼の笑みはとても暖かく、優しく――咲月の心に、波紋を残していく。
咲月は、もらったまんじゅうを口に押し込み、心のざわめきと一緒に飲み込んだ。
――これは、……この感情は、恋――なのだろうか?
まだ、良く分からない。
でも、これだけは確かだった。
一年後、彼を失くした未来は――想像しようとしただけでも辛すぎた。
それでも実際に、その状況を想像して感じた、途方もない虚無感――。
もう、彼の居ない未来を迎えるという選択肢は完全に潰えた。
となれば、咲月に残されたのは葉月の言うあの方法に従う以外の選択肢のみ。
――彼とともに生きるために、吸血鬼になる。
まんじゅうの包み紙を服のポケットに押し込みながら、かさりとそれとは別の紙片がかさりと小さな音をたてた。
先日、神社で引いたおみくじの札だ。
―大吉―
このみくじに当たる人は、己の心に従い進めば必ず良き路が拓かれ幸いが訪れる。
・待ち人 近く在る。
・勝負事 自らを信じ望むべし。さすれば勝つ。
・旅立ち 良い。
・縁談 良縁有り。
こんなに良い掛の札を引いたのは記憶にある限りは初めてで、つい持ち歩いてしまっている。
正直、これまで真剣に神様なんか信じたことはなかったけれど。
こうして、吸血鬼が存在するのだから、神様だって間違いなくいるのだろう。
そして――このくじに示された内容は……まるでこれから咲月が歩もうとしている道を肯定してくれているように読める。
あと、一年。その間に、本当にそれだけの覚悟ができる程に恋することができるのだろうか。
咲月は、みくじの紙片をポケットの中できゅっと握り締めた。