メモリアル・ピクチャー
「……ねえ、これ。ロープウェイを使わなくても、ここまで車で来れたんじゃないの?」
朔海は、大きなログハウス調の建物の前にある駐車場と、今まさに歩いて来た道のりとを交互に見比べながら半眼で葉月を軽く睨む。
「そういえば、途中で車道をの上を横切りましたね……」
麓駅で車を降り、山頂駅までの約13分間。確かに眺めは悪くなかったが。
山頂駅に着いてから白根火山の湯釜へと続く道の入口であるここまで、短くない距離を歩くことになった。
「しかも、ここから湯釜までも20分かかるんだろ?」
道は整備されているし、傾斜も――本格的な登山を考えれば緩やかなものだろう。
小さな子供やご年配の方々ならばともかく、若く体力もある、咲月くらいの年頃の人間ならばこの程度は十分散策のうちだろう。
とはいえ……。
咲月は空を見上げた。――空に浮かぶ雲の割合は昨日に比べてだいぶ少ない。
広がる、澄み切った青空と、そこにさんさんと輝く太陽。
……火山特有の臭いはあるが、人間である咲月にとってはとても気持ちの良い最高のハイキング日よりの天気だが……。
「……あの、大丈夫ですか?」
身体能力だけを言えば咲月より遥かに優れているはずで、当然体力も然り――。
しかし、この日差しの下を歩くのは……
「へ?」
彼らにとっては辛いことなのかもしれない。そう思って尋ねた咲月に、朔海は間抜けな返事を返した。
「あの……、今日は天気も良いし……日差し、きついんじゃないかと……」
咲月は慌てて先の問いに補足を付け足す。
「ん、ああ。それは大丈夫。ちゃんと対策してきてるから。ほら」
ウエストバッグをゴソゴソやって小さなプラスチックの小瓶を取り出し、蓋を開けて中身を見せてくれる。
「日焼け止めクリームなんだ、これ」
瓶の中身は半分程なくなっている。つまり、これを塗っているから大丈夫、ということらしい。
「これで3、4時間は保つかな。もっとカンカン照りになったら日傘も欲しいとこだけどね。でも……一昔前に比べればマシになったけど、やっぱり男が日傘をさすってやっぱり目を引くんだよね、良くない意味で」
頭を掻き、渋い顔をしながら目をそらす。
「確かに日光が得意な体質ではありませんが、命に関わるほどの大事にはそうそうなりませんし。何より我々の身体はそういう意味では割と便利にできてましてね、軽度の負傷であればすぐ回復できますから」
葉月はにこりと笑う。
「ですから、ご心配には及びません。それに朔海くん、ここへは適度な運動を兼ねて来ているんですから、いい若者が疲れたサラリーマンみたいな事を言わないでください」
周りを見れば、今いる観光客の大半はご年配の方々だ。おそらく今日が平日であるせいだろうが――彼らは無料レンタルの杖をつきつつも割と皆さくさく登って行っている。
ほらね、と葉月がにこにこ笑いながらそれを指して朔海を見る。
「ぼっ、僕はそういうつもりで言ったんじゃ……っ」
「さあ、サクサク行きましょう。今日は火山ガス濃度も問題ないようです。一番よく見える展望台まで行けるようですよ」
やっぱりにこにこしながら朔海の反論をさっくり無視して、葉月は咲月を促しさっさと歩き出す。
「あっ、待て葉月っ」
それを追って早足に歩き、朔海は2人を追い越した。
そんなやりとりを見ていると、咲月の顔は自然と緩む。
「待った、……せっかく持ってきたんだ。誰かに頼んで撮ってもらおう」
もう一度ウエストバックに手を入れ、取り出したのはコンパクトデジタルカメラ。
「すいませーん!」
すかさず、近くの人を呼び止める。
「すいません、悪いんですけどこれ、ちょっと頼んでも構いませんか? あの前で」
登山道入口の脇に立つ案内板を指して朔海は人の良さそうな夫婦にカメラを渡した。
笑顔で快く引き受けてくれた二人の前で、葉月の前で咲月は朔海の隣に並ぶ。
「はい、チーズ!」
シャッタを押すお決まりの掛け声のあと、パッとフラッシュがたかれ、ジジっと小さく機械音がした。
「えっと……これでいいのかしら? 今時の機械って良く分からなくて。撮れてる?」
シャッターを押した奥さんが、朔海に確認を取る。
「あ、はい。大丈夫です。どうもありがとうございました」
朔海は嬉しそうに笑いながらぺこりと頭を下げる。
「引き受けてくれる人が居てよかった。最初の一枚くらいは皆で撮っときたかったんだ」
確かにこういうのは今みたいに誰かに頼みでもしない限りはどうしても誰か一人、シャッターを押した人物が欠けた画になる。
「これ、もう買って3年くらいは経つけど、人物撮ったのは今日が初めてなんだよ」
ほくほくしながらカメラを構え、不意打ちでシャッターを押す。
「葉月を撮っても面白くないし、自分を撮るのなんてもっと面白くないから、いつも景色とかばっかり撮ってたんだ」
「写真を撮ってくださるのは構いませんがね、それにばかり夢中になって転ばないでくださいよ?」
「おい、僕は何歳の子供だよ」
笑顔を引きつらせ、朔海が葉月を睨む。
「おみくじ、大凶だったんでしょう? 調子に乗りすぎると……ほらね」
こちらを向いて後ろ歩きをしていた朔海のかかとが、小石を踏みつけた。角のない、丸い石は彼の体重を受けて下に向けた面の向きをその上にあった彼の足ごと変えた。
「わっ、」
ぐらりと、彼の体が背の方へ傾ぐ。
「あっ、」
咲月も思わず声を上げたが――朔海はすかさず空いている方の手を地につき、ヒョイっとその場でバク転し、転倒を回避してみせた。
イレギュラーな事態だったにもかかわらず、実に身軽で綺麗な身のこなしで。
咲月は思わず拍手を送った。
ついといった様子で照れた顔をする朔海に、葉月があからさまなため息をつく。
「言わんこっちゃない……」
「こ、転んではないだろ?」
照れていた朔海の顔がまた赤くなった。
「まあ、転倒はしてませんが。今みたいのを世間一般には“つまづいた”と言いましてね、立派に転んだうちに入るんですよ。ほら、もう前を向いて歩いてください」
葉月は朔海をすげなくあしらう。
なだらかだった勾配が、蛇行する山道に変わる。
舗装されていた足元が、いつしか砂利道に変わり――現れた景色に、咲月は息を呑む。
――あれは……青みがかった白……いや碧? それともコバルトブルーというのだろうか、普通の水面の色とは明らかに違う、美しい色をしたカルデラ湖。
目の前に広がる荘厳な景色に目を奪われる。
「うわ……これは凄いな」
朔海も隣で手にしたカメラを構えることも忘れたまま、景色見入ったまま呟いた。
「綺麗……」
「ええ、これはなかなか……写真で見るより見応えがありますね」
「うん。山とかこういう景色って、写真で撮ると肉眼で見るよりやけにこじんまりしちゃったりするから」
もちろん、写真に撮った景色の方が本当で、こうして目に映る景色は脳が起こす錯覚現象のひとつなのだというが、それを知っていても尚、圧倒される。
「朔海君、カメラ、貸してください。折角ですから湯釜をバックに撮りませんか。……えーと、これは……どこを押すんです?」
「ああ、ありがとう。これ、ここの上の大きい丸いボタンがシャッター。フラッシュとか細かい設定は機械が自動でやってくれるから、ここの画面見ながらボタンを押すんだ」
機械の説明をしながら葉月にカメラを渡し、咲月のすぐ隣に立った。
「では、撮りますよ?」
そういった直後にすぐフラッシュが光った。
「いやいや、そこはさ、そのあとチーズとかなんとか言うもんで……って……や、いいや」
撮りますよ、と言われて振り返った瞬間を撮られた咲月は、変な顔でもしていなかったかと焦ったが、デジカメの画面を見た朔海は葉月への文句を途中で切った。
「今度は僕が撮るよ」
朔海が、カメラを構える。今度は葉月が咲月の隣に立ち。
「いちたすいちはー?」
朔海は画面を見ながら軽い調子でのせる。
正直、こういうのはあまり得意ではないのだけれど。
「にー!」
旅行気分のせいか、それともこの景色につられて気持ちが弾んでいたのか、割合すんなりノリに答えるセリフが口をついて出た。
フラッシュが光り、シャッター音がする。
「そっちの湯釜ほどじゃないけど。こっちも……ほら、さっきの駐車場がちょうど見下ろせる」
構えていたカメラを下ろし、朔海が手招いた。
「駐車場の先、ほらあっちにもなんかあるんだよね。……弓池だって。紅葉の時期だとこんなに綺麗なんだね」
ガイドマップと見比べながら朔海が指さす。
「帰りがけに、寄ってみますか? ちょうど道沿いのようですし」
「ああ! そうだ……車、麓駅に置いたままだもんな。またロープーウェイで下らなきゃならないんだな」
「まあ、その前にあそこで少し休憩してからにしましょうか。暖かい飲み物でも飲んで」
下に見える駐車場にあるログハウス調の建物を指差し、葉月が微笑む。
「賛成!」
「では、とりあえずあそこまで。――行きましょうか」