神の縁
「……っ、な……、何で……」
縦に細長い紙切れをつまむ朔海の両の手の親指と人差指とがぷるぷる震えている。
だがそれは、咲月からすればもうだいぶ前から繰り返し頭の中で自問し続けて来た台詞だ。何とも言えない気持ちを抱えながら、自分の分のそれに目を落とした。
「クケケッ、今時神社のみくじで大凶当てるって……、坊ちゃんてばホント、そういうのハズさないよなぁ」
ここは、草津温泉。言わずと知れた温泉地で、つまりは名のある観光地なのである。
見て回れる様な所など、探せばいくらでもあるだろうに……。
ちらりと、先程大分苦労して登って来た急こう配の階段の前に立つ鳥居に書かれた「白根神社」の文字を見やる。
「ふむ。私は小吉ですね。……まあ、良くも悪くもなく、まあ無難な所……、む、勝負事『難あれど励めば勝つ』ですか。……成程、悪くない」
長い階段を、えっちらおっちら上り、拝殿の鈴をガランガランと派手に鳴らし柏手をパンと打ってしっかり拝んだ後で、おみくじ百円の看板を見つけたのは青彦だった。
宿の周辺と同様、時期や曜日の関係で人数は少ないものの、それでも有名な観光名所であるらしいこの神社には、自分たち以外にも観光客はそれなりにいる。
だが、異様な瞳の色を有した猫達を見とがめる者は誰一人いない。
が、その主である葉月と、連れ立って歩く朔海には、やはりというか何というか、浮足立った雰囲気の視線が集中している。
「このみくじにあたる人は、災いあるが、励み努めれば転じて路が拓ける。待ち人『来ない。努めて待つべし』、勝負事『努めを怠ければ負ける』、旅立ち『熟考した上即断すべし。長引けば悪し』。……縁談『己が身を疎かにすば後破談する』、…………、――――。」
ぷるぷる震える指でつまんでいるせいでやっぱりぷるぷる震えるくじの紙面を朔海はボショボショと小声を震わせ読み上げた。
「んー、まー、とにかくあれだな。不幸になりたくなきゃ……つーか、あの娘とよろしくやりたきゃ、とっとと覚悟を決めて、全力で踏ん張れよって事だろ?」
そう言う青彦は、実に楽しげな笑みを浮かべる。人目のあるこの場で、下手に手が出せないのを良く知っている青彦は、恨みがましい目で睨み下ろしてくる朔海をからかいを多分に含んだ目で見上げ返し、
「葉月の場合の勝負事ってのはまあ、奴さんとの決着って事なんだろうけど、坊ちゃんの場合はなぁ。連中のこと以上に例の策の成就って方の意味のがでかいだろうからなあ」
引いたくじを小さく丁寧に折りたたんでポケットにしまいこむ咲月をちらりと横目で盗み見ながら小声で言った。
「……あの、」
みくじの大凶に落ち込んだ様子の朔海に、咲月がおずおずと声をかける。
「大丈夫、ですか?」
見目の良い朔海が集める視線の数は刻々と増す一方で。見るからに気落ちしている様子の朔海に、声をかけたそうにしている女性達の数も徐々に増えつつある。
「あの、ありきたりな事しか言えないですけど。大凶って、今が一番最悪だっていう意味で、それはもうこれ以上悪くなり様がないって事で。だから、この後は少しずつでも、運は上向いてくるはずだって。……それはそういう事にして、あそこに結んで来れば良いと思うんです」
と、くじの紙片がたくさん結びつけられた木を指した。
「ああやってにおみくじを結んで帰ると、神様と縁が結べるって言われてて……」
四方から刺さる、軽い嫉妬が多分に含まれた刺々しい視線に心を突かれるのを一生懸命気にしないようにしながら、
「……あ……、と……でも……」
社と鳥居と朔海の手のみくじと彼自身とを見比べ、
「神様との縁……、って……えっと……要り……」
言いかけて、困ったように視線を泳がせ、
「ま……せん、よ、ね?」
聞きとるのがやっとという位の小声でボショボショと呟いた。
そんな咲月を、朔海は目をぱちくり瞬かせて見た後で、
「要る、要るにきまってるじゃないかっ! ああもちろん、僕自身の努力が必要だなんて事は百も承知だし、当然頑張るつもりじゃいるけどさ。だけど、困ったときの神頼み位はあってもいいじゃないか?」
必死の形相で言い募ると、キッと榊の木の枝を睨みつけ、
「……結んでくる」
と言い置き、ダッと木の元へ駆けていく。
「……えっと……その、……が神頼みって、アリなんですか?」
他人が多くいる場で、大っぴらに吸血鬼、などとはさすがに言えずに言葉を濁しながらも、咲月は尋ねた。
「んー、まぁ、ここは日本だからなぁ。一応、無くはないんだよ」
足元で、青彦が答えてくれる。
「この国じゃ昔から、妖怪変化の類を神様として祀ってる場合も少なくないからな。よっぽど潔癖な神様を祀ってる社でなきゃ、大概は問題ないんだよ。……まぁ、純粋な人間様に比べりゃ、加護してもらえる確率は落ちるかもしれんがね」
この白根神社が祀るのは、日本武尊。古事記や日本書紀などに登場する――妖怪変化どころか、大変由緒正しい「神様」である。
「でも、まぁ、そこはあの坊ちゃんだから。他の同族連中にゃ無理でも、あの坊ちゃんだからこそなしえる事もある」
青彦は、ニヒルな笑みを口元に浮かべ、朔海の背を眺めて言う。
「くじの卦はともかく、書かれてた事は結構的確だっただろ? とりあえず、真面目なアドバイスがもらえる位には気に入られたって事なんだろうさ」
一生懸命、大真面目に木の枝に籤を結び付ける朔海の顔に浮かぶのは真剣な表情。神様にも好かれる吸血鬼。――彼だからこそ、という青彦の評価に咲月も頷いた。
と。葉月が手招きしているのが見え、咲月は彼の方へ駆け寄った。
「……最近のお守りって、随分色々あるんですねぇ。ほら、これなんか随分可愛い。よければ、お一つどうです?」
可愛い和柄の布地で作られた小さな守り袋に小さな鈴が付いていたり、干支の動物や、天然石がついていたり。ペンダントやキーホルダー、ストラップになっている物もある。
「あー、と。ちょっと待った」
戻って来た朔海が、ひょいっと会話に割って入った。
「昨日渡すつもりでいたのに、色々あってついうっかり忘れてたんだけどさ」
ごそごそと、パーカーのポケットを探り、取りだしたの小さな包み。
「開けてみて」
促されるまま、包みを開ける。中から出て来たのは――
「ポプリ、ですか。ファティマ―ですね?」
「うん。……ああ、ファティマ―って、僕たちが贔屓にしてる魔女でね」
疑問符の浮いた咲月の視線に、朔海が答える。
「ああ、魔女って言っても悪魔と契約してるようないかがわしいのじゃなくて、古来から継がれてきた由緒正しい魔女の一族の、ね。天然石とか香草とか香辛料とか、そういうのを扱う店をやっててさ、一度ここのを買ったら、よそではもう買えないってくらい、ホントに質が違うんだ」
「私も、かねてからお世話になってましてね。……正直、ハーブやらスパイスやらに用があった事はないのですが。占星術なども修めている方で、色々相談にのっていただいたりしているのですよ」
「そうそう、水晶玉であちこち覗き見してたりね。……ここ最近の事情、全部お見通しだったよ、ホント文字通りってやつでさ」
参ったよ、と朔海は頭を掻きながら苦笑する。
昨夜の夕食も、今朝の朝食――鮭の醤油漬けを焼いたのと焼き海苔と温泉卵にワカメのみそ汁という純和風の献立――も実に美味しかった。
朔海の料理の腕ももちろんだが。使っていた素材が良い物だったという事なのだろう。
鮭を漬けた醤油に混ぜ込まれたガーリックの香りが食欲を誘い……。
咲月は平気な顔でそれを食べ進める彼ら二人の様子から、吸血鬼の弱点の一つがにんにくである、というのが全くのガセネタであったらしい事実を察した訳なのだが。
そういえば……、流れる水も……水道水をごくごく普通に使って料理をしていたし、釣りが好きでよく川などで釣りをするとも言っていた。と、言う事は、これも弱点などではないのだろう。
咲月は、空を見上げる。
今日の天気は……かなり雲が多いが、ぎりぎり晴れだと言えるだろう。そろそろ朝というよりは昼に近い時間帯になりつつある今、太陽も空の一番高い所へ近づきつつある。
彼ら自身から、実際に弱点であると教えられた唯一のもの。
そして、咲月はもう一度視線を鳥居へ向ける。
日ノ本と呼ばれるこの国で、一番偉いとされる神は、伊勢に祀られた天照大神――太陽の女神である。 彼女が隠れれば太陽が隠れ、この世は常闇となる――天の岩戸の物語は、日本神話の中でもよく知られた話だ。
「そういえば、そろそろお昼時ですよね。今日は初日ですし、この辺で引き上げましょうか。明日は、白根火山の湯釜まで足を伸ばそうかと思っているので」
葉月の言葉に朔海が観光ガイドの冊子をパラパラめくり、
「ああ、これ? ――白根山頂にある世界有数の強酸性火口湖。直径約300m、水深30m。エメラルドグリーンの湖水をたたえ、底から湧き出す硫黄泉のため冬期でも凍結しない。湖面が覗ける釜のふちの展望台へは、遊歩道が整備されている。高山なので気温、強風対策として夏場でも羽織れるものを持っていったほうがよい――」
そこに書かれた文章を読み上げた。
「山の上まではロープウェイで行けるらしいので。頂上の乗り場から湯釜まで歩けば良い運動になりますからね」