青彦のもくろみ
「……へぇ、覗き……ねぇ……」
葉月らにからかわれてムキになる事はあれど、基本的に温厚な性格で、特に咲月の前で怒ることなどなかった朔海が、噴火寸前のマグマですら瞬間冷凍出来そうな程に冷たい瞳で青彦を半眼で睨みつけた。
「なんだよー、紳士ぶって。坊ちゃんは人間の歳に換算すれば10代男子……一番盛りのついてる時期なんだぜ? 女の風呂と着替えは覗くもの、一つ屋根の下の女の寝部屋には忍んで行くものってな位はがっつこうぜ」
ヒクリ、と、朔海の口の端が引きつった。
「おいまさか、普段の着替えまで覗いていたのか? ……まさか、とは思うが寝ている彼女の部屋に押し入ったなんてことは」
押し殺すような低い声を震わせながら、朔海は問いただした。
「いやぁ、ねぇ……。俺、もうこの数百年ずっと、そっち方面に関しちゃ眼福以上の意味を持たせる事は不可能だからねぇ」
「全く……面目次第もありません、主としてお恥ずかしい限りです。咲月君には本当に申し訳ない事をしまして……どうぞ、後で煮るなり焼くなり好きにしていただいて結構ですから」
ヘラリと笑った青彦の尻で揺れる尾を踏みたくて仕方がないという視線を彼に向けながら、葉月は咲月に頭を下げた。
だが、自分の貧弱な上に傷だらけの身体を見て不快に思うならともかく楽しいと思えるはずもないだろうし、あの時は身体を湯船に沈めていたのだから、そんなにばっちり見られた訳でもないだろう。しかも、直後に手桶をぶつけられて沈んでいたのだし……。
だいたい、いくら元は人間だと言われても、猫の姿しか見たことのない青彦相手では危機感も持ちにくい。
だから、咲月は曖昧な笑みで誤魔化そうとした……のに。
「にしても嬢ちゃん、実は着瘦せするタイプだったんだな。思ったより胸あるんじゃんか。……ちょっともったいないよな、着る服をもちっと選べばこう、もちょっと色気がでる気がするんだけどなぁ」
などと軽い調子で言われ、咲月は口に含んだスパゲッティを危うく吹きそうになり、慌てて口を押さえた――が、すんでで惨事を防ぐことに成功した咲月の向かいで、朔海がゲホゲホと思い切りむせ返っていた。
それを見て、青彦がしてやったりといった様子で笑う。
少し涙目になりながらも、凄まじい殺気の籠った視線で青彦を睨みつけながら、苦しげに咳き込む朔海に、
「お、もしかして想像しちゃった? ふぅん、やっぱり坊ちゃんも一応男だったんだな、安心したよ」
ニヤニヤ笑いながら、更なるからかいの言葉を投げかける――が、咲月にとってはセクハラ発言以外の何物でもない。
フォークに巻き取った次の一口分のスパゲッティの塊がどんどん膨らみ、既に一口では収まりきらない量になりつつある事に気付けないまま、咲月は必死で今の台詞を聞かなかった事にしようと奮闘していた。
なにせ、今晩は襖一枚で仕切られただけの部屋で寝なければならないのだ。
しかも、襖の上は欄間になっている……と、いうことは、遮られるのは視界だけで、それ以外は、僅かな物音さえ遮られる事なくフリーパスでお互いに聞き取れてしまう。
今、下手に意識してしまえばきっと今晩は眠れなくなるだろう。
……何のためにここへ来たのかを考えれば、それは絶対に避けなければならない。
……聞かなかったフリ、という事なら幸いにも慣れている――というか十八番である。
咲月は必死に無心を装い、フォークを口に入れた。
……もとい、入れようとした……が、ゴルフボール大にまで膨らんだスパゲッティの塊は、咲月の口には到底収まりきらなかった。
結果、口に含めたのはフォークの先っちょの方のスパゲッティだけで、その他の大半をボロボロ取り落とすという、見目も行儀も悪い事をする羽目になってしまい、咲月の乙女心はいたく傷ついた。
……ちなみに、料理の味は素晴らしかった。そこらのレストランのものよりずっと美味しい。あさりのダシの旨味と、スパイスやハーブの香りの割合が絶妙で、薄くもしょっぱすぎもしない程良い味。たかがボンゴレ、と侮る事の出来ないレベルの味だ。
料理の腕前に関しては、もはや咲月は白旗を上げて思い切り振りまわしてもまだ足りないレベルだと確信せざるを得ない。
というか、よくテレビに出てくる料理の達人相手でも充分勝負できるのではないかとすら思う。
だが、葉月も朔海も料理に関しては食べ慣れているという顔で、特にこれといった感想などは浮かばないらしい。
(そういえば、料理のできる男の人はポイントが高いって言うなぁ……)
等と、詮のない事をひたすら考え、頭の中から余計なものを追いだす。
スパゲッティだけでなく、サラダもスープもどれも美味しく、皿はあっという間に空になる。
お腹が満ちれば眠くなってくるのは生き物としての性だろう。
僕が片付けるから、と言う朔海の言葉に甘え、自分の食器だけを流しに運んだ咲月は自室に充てられた和室にそそくさと引っ込み、押し入れの襖をあけた。
4組ある布団のうち2組を隣室に運んでから、自分の分の布団を敷き、すぐさま横になった。
「食べてすぐ横になるのは良くないって言うけど……やっぱり気持ちいい」
温泉につかり、ソファで寛ぎ、食事を楽しみ。時計はそろそろ10時を回ろうとしている。ここに着いたのが7時過ぎだったから、もう車を降りて3時間ほど経った計算になる。
充分休み、移動の疲れはだいぶ取れたと思っていたのだが、やはりこうして横になってみると、丸1日を費やした車での移動は思った以上に疲れるものだったらしいと知れる。
襖一枚隔てたダイニングキッチンから、何やら青彦の悲鳴が聞こえてくる気もするが、咲月はあえて聞かなったフリを決め込み、心地の良い布団の感触を存分に楽しみながら部屋の天井を眺めた。
大義名分はともかく、こんな風に旅行に出かけるなんて初めてなのだ。聞こえてくる喧騒も、咲月にとっては心地よいものだった。
……その内容が、自分に対する青彦のセクハラ発言を糾弾するものであるのは少々イタダケナイけれど。
一応、咲月とて年頃の少女だ。……彼の発言に、思う所がないとは言えない。
だがその内容に、悪意……というか、本気で咲月を貶め辱めようという意図がなかった事はよく分かっていた。
全てにおいて淡々としがちな咲月をかき乱し、何かと臆病になりがちな朔海を焚きつけて、ふとするとまったりと落ち着きがちな場の空気を敢えて撹拌している気がする。
『好きだった女が吸血鬼なんかを好きになったって知った時、そいつらの気持ちを思いやる事もせず、ただ自分の正義だけを信じて、葉月を殺そうとしたんだ』
青彦が言っていたセリフ。
『時間はある。考えるべき事はこれからゆっくり悩めばいい』
と、彼はそう言ってくれた。
――あと、1年間。
長い様で、しかしうかうかしていればあっという間に過ぎ去ってしまう短い時間である。
さすがに礼を言う気にはなれないが。しかし、彼のおかげで再認識させられた部分は確かにあった。
彼が、一人の年頃の“男子”である、というある意味当たり前ながら、吸血鬼だの王子だの三百歳だのといった特殊すぎるキーワードの前に霞みがちだった事実。
気だるい眠気にゆるゆるとほどけていく思考の中、それは咲月の心に小石を投げ込み、一際大きな波紋を描いた。