魔女の店(1)
カラン、と、今開けた扉の戸板の向こう側でドアベルの楽しげな音がそう広くもない店内に響いた。
「いらっしゃいませ」
ベルの音と重なるように声がする。高らかに響くベルの音とは対照的に、少し低めの落ち着いた声。
「……おや、珍しいお客様だね」
ガタンと音を立てて扉を閉めると、もう一度カランとドアベルが鳴った。
「……前に来てからまだ半月も経ってないと思うんだけど」
「いつも、2日と間を開けずに来てたんだ。それが週が2廻りして3週目に入るまで音沙汰無しだったんだから。どっか他所へ浮気しに行ったんじゃないかと疑りたくなるのも無理は無かろう?」
艶やかな長い黒髪に、真っ黒な瞳。黒っぽい赤色の口紅。首に巻かれたチョーカーから黒いシックなデザインのワンピースに、黒い革靴。
年季の入ったカウンターに肘を置いて頬杖をつきながら、クスリと笑う。その肘のすぐ脇で、彼女に同調するようにクケケケ、と喉を鳴らして笑ったのは実に鮮やかな黄緑色をした手のひらサイズのアマガエル。
「ハーブは気難しい。よそ見なんかしてたら、あっという間にへそを曲げられるぞ」
言いながら、ジーっと心の中まで見透かすような瞳でこちらを見上げてくる。
「行かないよ、他所の店なんか。ここらで一番腕が良いのは分かってるんだ。全く、人が悪いのも相変わらずだけどね。……全部知っているくせに“浮気”だなんて人聞きの悪いの事を」
カウンターテーブルの上に置かれた、綺麗に磨かれた水晶玉に渋い視線を向けながら、朔海は口の端を引きつらせた。
「ホント、たった2週間とちょっと見なかった間に随分と良い表情するようになったじゃないか」
カウンターの背後の壁いっぱいに設置された棚に所狭しと並ぶ大量のビンの中からいくつか選んでカウンターの上に並べながら、彼女は楽しそうな目をこちらに向け、悪戯っぽくクスリと魅惑的な笑みを浮かべる。
「……そうさね、お求めはお嬢ちゃん用のヤツだろう? ふむ。それならこれか。肝の臭みをとるならセージかキャラウェイ当たりが妥当だね。貝や海藻に使うならフェンネルか……サフラン。滋養強壮にガーリックも要るかい?」
言いながら、ビンの蓋を開け、中の乾燥させた葉や、スパイスを小さな小瓶に取り分けていく。
「ハーブティーにするなら……ローズマリー、レモングラス、ペパーミント、セージ、ネトル、ローズヒップかね」
大瓶から移した葉を、慎重に秤にかけながら合わせていく。
「……入浴剤、は……止めた方が良いね。下手に混ぜると折角の温泉効果が逆に毒になる可能性がある。ポプリはどうだい?」
「そうだね、できればあんまり大げさじゃないのがいいんだけど」
「ちょうど、可愛い布地が手に入ったんだよ」
カウンター下の収納棚の扉を開け、端切れを何枚か取り出し、朔海の前に並べて見せた。
「どうするね? 首から下げれるように紐を通す? それともチャームにする?」
「じゃあ、このベージュのチェック柄のにこっちの金の鎖で首飾りにしよう」
目の前に並べられた生地の1枚を指差した彼の右手首に目を留め、
「……それ」
彼女らしくない、茫然とした様子で呟いた魔女に朔海は怪訝な目を向けた。
「彼女に貰ったんだよ。何だ、見てたんじゃないのか?」
「……見てたよ、水晶玉越しにはね」
緊張に張りつめた声で言いながら、それまでのからかいの色を消し去ったいたく真剣な目で朔海を見上げた。
「あんた、あのお嬢ちゃんの血を、直接ではないにしろ……飲んだんだろう? ――どうだった」
たった今、水晶玉で覗き見をしていた事を自ら認めたのだ。彼女がその味やら効能やら、冷やかしを含めた世間話を求めている訳ではない事くらいはすぐ分かった。
「彼女は……種族としては、人間だ。それは間違いない」
血を吸った相手の遺伝子や魂を移し取る能力を持つ吸血鬼。――つまり、血を吸えば相手の種族や能力を容易に知り得ることができるのだが。
「でも……彼女の持つ能力までは……」
遺伝子を得るだけであれば、ほんの僅かな血があれば充分事足りる。――だが。
「とりあえず、僕の知るどの血とも違うってことしか分からないよ」
人を襲い、血を奪う事を忌避し、誰のものとも知れないパック入りの血液を飲むようになってもう随分経つ。
あの便利な物が開発されるまでは、朔海も必要に応じ仕方なしに狩りをしていた時期もあったが……
「純粋な人間で、特殊な力を持っているなんてのはかなり珍しいからね。……吸血鬼にとっちゃ滅多に口にできない珍味ってやつさ。当然、僕なんか相伴に預かれる訳も無いし、預かろうとも思わなかったんだけど」
まだ、舌に残る甘い魅惑的な血の味に酔いそうになりながら、朔海はため息をついた。
「青彦や紅姫が視えたんだ。間違いなく、何かの力はあるはずだと思うんだけど」
難しい顔をしながら朔海の手首の腕輪を眺めていた彼女は、おもむろに、引き出しから裁縫用具を取り出すと、針刺しから縫い針を一本抜きとり、プツリと左の人差し指を突き刺した。
穿たれた小さな傷口からプクッと赤い小さな玉が浮かぶ。
それを朔海の前に差し出し、
「ちょっと舐めてみて」
戸惑う朔海に詰め寄るようにして指をつき出した。
吸血鬼である朔海の嗅覚を、甘美な香りが刺激する。たった今、咲月の血の味を回想してしまったばかりの所にそんなものを鼻先に突きつけられれば、意思とは関係なく本能的にその手首を捕まえて口元に運ぼうと手が動く。
「――……っ!」
その指を口に含む寸前で、牙で唇を噛みしめながら息を止める。
2歩、3歩と後ずさり、そっと小さく息を吐き出し、慎重に空気を肺へ送り込み、沸いた衝動を鎮める。
だが、僅かに赤みを帯びた瞳は彼女の指を滴る赤い滴に据えられたままだ。
「……何か、心当たりが?」