葉月と猫たちのカンケイ。
ちゃぷん、と、一人で入るには贅沢過ぎる位広々とした湯船に首元まで身体を沈める。
開けた窓から入る冷風が、ポカポカと暖かな身体と対称的に頭をシャッキリ冷やしてくれ、長風呂をしてものぼせたりする心配はあまりなさそうだ。
紅姫は、といえば、風呂場に備え付けてあった、銭湯や温泉施設でよく見かける木製の手桶に汲んだ湯の中で寛いでいる。
姿こそ猫だが、中身は元は人間――。毛づくろいの為に身体を舐め回すような事はせず、湯に浸した手拭いを猫足で器用に操り、石鹸を擦りつけて泡立てたそれで、全身を拭う。
「ふふ、私もこんな贅沢は久しぶり。男ばかりで居るとこういうささやかな女の楽しみとはどうしても疎遠になりがちになっちゃって。葉月の事は大好きだけど……、これに関してを言えば……やっぱりちょっといただけないのよね……。ホント、貴女には感謝しなくちゃ」
泡で包まれた身体を手桶の湯で流し、渇いた手拭いで顔を拭く。
新しい湯に換えた手桶の湯船につかり、
「んー、気持ちいい……」
思わずといった風に呟き、紅色の瞳を細める。そんな彼女の呟きに、咲月は心からの同意を込めて頷いた。
「ずっと座りっぱなしで疲れたでしょう? お風呂からあがったらマッサージしてあげるわね」
湯船の縁に頭を預け、広い湯船の中で浮力に身体を任せて手足を伸ばし、存分に寛ぐ咲月に紅姫が言う。
「葉月にはだいぶ劣るけど。……さすがにまだ、それはちょっとアレでしょう?」
咲月の身体に残る、多くの傷。同性で、今は猫の姿をしている紅姫ならともかく、当初の様子からすればだいぶ打ち解けて来ているとはいえ、つい先日知り合ったばかりの異性にそれを晒す心情くらいは充分察せられる。
――服の上からするにしても、彼女の場合異性に限らず人に触れられることに慣れていない分、それなりの覚悟を要するに違いない。
……休養の為のマッサージなのに、それでは意味がない。
「……すみません」
「いいのいいの。それと、私に敬語はいらないわよ。言ったでしょう? 私、元は農民の娘……大した学も無い田舎の一般庶民だったんだもの。正直、敬語とか苦手なの」
「え……、と。じゃあ、紅姫……。さっき車の中には居なかったよね? あの、青彦さんの言ってた事とかは……その……」
紅姫の要望に応え、言葉づかいを改め問いを投げかけた咲月だったが、先程の彼らの様子から、つい語尾を濁し目を泳がせた。
「そうね……、言い方に大いに問題がありすぎだけど……、ある意味あれは本当よ。私たち2人は葉月の傍を離れることは出来ないから」
紅姫は、苦笑を浮かべながら答えた。
「前に、使い魔について説明したでしょう? でも、私たち2人はその中でも特殊な存在だって言ったわね。……記憶や自我がある分、かつての“双葉”としての意識を強く持っているけれど……本当の今の私は……葉月の一部であり、葉月の中にある竜の化身と言うべき存在なの」
ジッと、その綺麗な赤い宝石みたいな瞳を咲月に向け、
「ほら、私の瞳……赤いでしょう? 青彦の青い瞳も……普通ないわよね、こんな色」
紅姫は、猫足で自分の瞳を指して言う。
「葉月と、朔海様の一族の持つ“龍王の血”……その龍の瞳の色は……赤」
そして、もう一つ。
「葉月の持つ、もう一つの血に宿る竜の瞳の色が……」
青彦が持つそれと同じ――サファイアブルーの瞳。
「普通、吸血鬼が使い魔を得るときには当然、血を使うわけ。ただの使いっ走りの人形なら、ちょっと血を採ってそれに念を込めるだけでそれは叶うし、他の生き物を従属させようと思ったなら、相手に自分の血を飲ませればいい。……彼らにとって、血は魔力そのものだから」
血を吸う際に入る唾液程度の魔力では、せいぜい簡単な記憶操作程度の事しか叶わないが。
「けれど私は、人間としての最期を迎えた時、彼に頼んだの……」
悪魔の力を取り込み、吸血鬼となった彼らの種族は血を吸った相手の力を得ることができる。
――が、ただの人間の血を吸ったところで、彼らにとってはただの食事以上の意味はない。……ない、はずだった。
「あの時は……私も彼も傷を負っていて……。私のは、致命傷で。自分でももう助からないって分かっていたから。だから、せめて……彼の傷を癒したくて……せめて自分の一部だけでも、彼と共にありたくて……。だから、頼んだの。――私の血を吸って、って」
それを彼に伝えた時、彼は猛烈に怒った。
例え既に助からないと分かっている身体だとしても……最愛の恋人の命にこの自らの牙で決定的な止めを刺せと……それは、そういうことだったからだ。
でも、彼は最後にはその我儘を黙って聞き入れてくれた。身体中全ての――本当に、最後の一滴まで残さず全部の血を吸い尽くして――
「私の血の全ては彼の一部として今も彼と共にある……」
吸血鬼が、本来、血と共に得ていたのは相手の遺伝情報だ。
――しかし魔物の類に遺伝情報があるはずもない。だから、悪魔から借り受けた能力で血と共にその魂を得る。……それは人間相手でも然り。
「そう、その昔葉月って名前だった俺の魂も、今や葉月の血肉の一部でね。……本当なら、こんな風に表に出て来る事なんか出来ないはずだったんだ。アイツが、龍王の血の継承者でなかったなら……な」
突然、窓の外から声がして。
次の瞬間、咲月の視界の横を、今の今まで紅姫が湯船代わりに使用していたはずの手桶が物凄い勢いで飛んで行った。
「ぎゃっ」
という悲鳴とパコーンという小気味の良い音がほぼ同時に咲月の耳に届いた。
狭い湯船の縁をものすごいスピードで駆け抜けた紅姫は、ずぶ濡れのままの身体中の毛を逆立てて、「シャーッ」と威嚇する。
「……ごめんなさい、この不届き者は私が責任持って始末をつけるから。先にあがって休んでいてくれる?」
そう言ってこちらを振り向いた彼女の顔は――猫の顔のはずなのに……何故だろう、先程垣間見た葉月の笑みといやに似通っていて。
――咲月は無言のまま頷き、そそくさとその場を後にせざるを得なかった。