温もり
小さいながらもピカピカに磨きあげられた洗面台。
この湿度の高い部屋にありながら曇り一つない鏡。
そう広くない脱衣所に押し込まれた洗濯機と揃いの乾燥機も、型こそ古いが、元はかなり良い物のようだ。
……そんなつもりはないのに。つい、視線が下へと落ちる。
首元を温める白いマフラーの結び目へ手をかけ、それを解きながら、鏡の中の自分の姿にチラリと視線を向け――ため息を漏らす。
朔海に借りたコートを脱ぎ、洗濯機の脇に置かれた棚に山積みにされたクリーニング店の色とりどりの針金ハンガーを一本抜きとり、丁寧に肩を合わせて掛け、マフラーを巻き付けるように引っかける。
――が、砂だらけの制服は、ブレザーもスカートもブラウスもなく適当に脱ぎ棄て脱衣籠へ雑に放り込んだ。
……無意識のうちに鏡へと向かう視線。それでも。なるべく鏡が視界に入らない様に、そそくさと風呂場のガラス戸を押し開ける。
途端、むあっと湯気が脱衣所へとなだれ込み、生ぬるい空気が咲月を包み込んだ。
水蒸気を多分に含んだ空気に混じる、濃厚なバラの香りが彼女の鼻をくすぐる。
……入浴剤でも入れているのだろうか? と、バスタブを覆うフタをパタパタ丸めて脇へ押しやり、中を覗いた咲月は思わず家主の趣味に疑いを抱いた。
――長身の彼が余裕で足を延ばせる、広めのバスタブにたっぷり張られたお湯に浮かんでいるのは――赤やピンク、淡い黄色、白――色とりどりの薔薇の花――それも、造花などではない。上品な香りを放つそれは、正真正銘の薔薇の花びら。
呆気にとられる彼女の脳裏に浮かんだのは、この湯船に身を沈める家主の姿。
「――……、っ、…………」
思わず吹き出しそうになるが、彼のあの容姿を思えば……画的には何ら問題はない――どころか、むしろ絵姿を描かせてくれと言い出す画家すら出てきそうな勢いで似合っている気がする。
無論、彼の友人だという朔海もしかり、だ。
「むしろ、似合わないのは私の方……、か」
大量の湯気が充満した風呂場で、それでも曇ることなくピカピカに磨かれた大きな鏡に映る自分の姿に、咲月はポツリと呟いた。
滅多なことでは感情を映さない彼女の瞳が戸惑いに揺れる。
厳重に閉じ込めたはずの感情が、僅かな隙間から泡の様に浮かんでくる。
咲月は、水面へと浮上しようとする感情を打ち消そうと、蛇口をひねり、熱い位の湯を洗面器に溜め、それを豪快に頭からかぶった。
顔にかかった水滴を片手で払い、チラリと脇の壁を見やる。
洗い場の壁面に取り付けられた収納棚に一まとめに置かれたシャンプー類は――当然ながら全て男性用であった。
一瞬、、自分で持ち込んだ石鹸とそれらとを見比べ、彼女は迷うような表情を浮かべたが、数泊考え込んだ後、洗面器に満たした湯に石鹸を潜らせた。
湯で濡らした石鹸を、掌の上ですり合わせ泡立てる。程なくミルクの香りのする泡が両の手を包み、彼女はそれを頭へ運び、指を髪に絡ませ泡を髪全体に馴染ませていく。
うなじがギリギリ隠れるくらいの短い髪は、二、三回梳いただけで泡が髪全体に行き渡る。ついでとばかりに同じ石鹸の泡で顔を洗う。
――本来、ボディ用の石鹸である。再び頭から湯を被り泡を洗い流しても、髪はゴワゴワだし、肌もすべらかとは言い難い仕上がりである。
しかし、咲月はそれにはまるで構う様子も見せず、持ち込んだ手ぬぐいに石鹸を擦りつけて泡立て、ヒリつく痛みに顔をしかめながら、傷だらけ、痣だらけの痛々しい痩せた身体を白い泡で覆い隠していく。
――こんな風に、過去も覆い隠し、洗い流してしまえたらいいのに。
曇ることのない鏡が映し出す真実を、あの優しい人達は何処まで知っているのだろう。
もしも何も知らないでいるのなら。……知られたくは……なかった。身体に残るいくつもの傷跡も、その訳も。これまで自分の歩んできた道のりも。
とぷん、と赤や黄やピンクや白が文字通り花を添える湯船に身を沈める。
「今度は、どれ位ここにいられるのかな……」
と、いつもならあり得ない思いが閉じ込めきれずに口をついて出た。呟いた言葉に、咲月は自分で驚きを覚えた。
つい今朝がた、義父の従兄の家からあの鞄一つで放り出されてきたばかりだというのに。
……いつも新しい家で思うのは、いつここから出ていけるのかと、そんなことばかりだったのに――。
あれからほんの数時間のうちのいったいいつの間にこんな事を思える程の心境の変化があったのか。
――その、心当たりに気付きたくなくて。咲月は考えを振り切るように慌てて湯船を出る。
身体を洗うのに使って濡れた手拭いを適当に絞ったそれで、ぞんざいに身体を拭い、そそくさと着替えを済ませて、咲月は自室へ向かった。
風呂へ入る前に、一通りの間取りは説明されていた。教えられたとおりに玄関を入ってすぐの階段を上がり、二階の廊下をまっすぐ行った突き当たりの部屋の扉を開ける。
日はとっくの昔に沈み、外は夜闇の支配の中、散らばる星々と月とが淡い光を地上へと投げかける。
暗闇の中にも、うすぼんやり明るい南側の部屋。
ほのかに香るお日様と真新しい畳の青々とした香りと、ぼんやり残った暖かみ。
扉の脇の壁を手さぐりで部屋の明かりのスイッチを入れれば、日中ならば日当たりは抜群に良さそうな八畳間の和室に、ぽつんとボロボロの鞄が一つ置かれていて。
後ろ手に、木製の引き戸を閉め、畳に腰を降ろす。家具のないがらんとした部屋で、咲月は鞄のファスナーを開けた。
カバンの中に入っているのは。着替えが三組、歯ブラシと歯磨き粉、コップ、箸とアナログ式目覚まし時計が一つ。それと、無造作に突っ込まれた中学の卒業証書。
それが、彼女の荷物の全てだった。
咲月は、荷物の中からコップと箸とを手に取り、立ち上がる。部屋の明かりを消し、一階の台所へと足を向ける。
――と。
「ねえ葉月、僕は卵を『出して』って頼んだんだよ?」
朔海と葉月が押し問答する声が二階まで響いてきていた。
「な、ん、で、僕や彼女の分の卵まで皿に盛られているのさ? しかも割られて!」
カウンターキッチンから身を乗り出し、朔海は憤りながらテーブルに並べられた皿を指差す。見れば皿には無残に崩れて流れたオレンジがかった黄身が、散らばる殻の欠片の下に浮かんでいる。
「ま、混ぜて溶いてしまえば分かりませんよ、きっと……」
テーブル脇でにこにこと、悪びれる様子も無く菜箸で皿の中身をかき回す葉月。
「ああっ、何てコトするんだっ! ……そんなことしたらっ、ああほらっ!! 崩れた黄身は誤魔化せても、卵に混じった殻の欠片がもっと小さく割れて散らばって……除けるに除けられなくなるだろー!!!」
見ていられない、とばかりに朔海はキッチンからテーブルへつかつかと移動し、
「良いじゃないですか、カルシウムが効率よく摂取できて……」
などと事もなげに言う葉月に、
「冗談じゃないよ! 噛むたびにジャリジャリおかしな歯ごたえのあるすき焼きなんて! 折角の肉の味が台無しになるじゃないか!」
と怒鳴り付ける。
……本人達にしてみれば真剣なのだろうが、傍から見ればまるでコントだ。
言い分は圧倒的に朔海の方が正論なのだが、それを飄々(ひょうひょう)とかわす葉月の涼しげな顔と、頬を赤らめ憤る朔海の顔とを見比べてみると、どうも朔海が葉月の掌の上で弄ばれているように見える。
「……」
下手に口を挟む事もできず、キッチンの入り口で思わず立ちすくんでいた咲月だったが、彼らのやり取りを眺めるうち、自然と口元が緩んでくる。
「それ、責任持って全部片付けろよ、葉月」
「えぇー」
「……気持ち悪い反応するなよ! カワイイ振りしたって見た目がおっさんじゃキモいだけだってのに……。なぁ、今日は何かテンション変じゃないか、葉月?」
紺の長袖Tシャツと、ジーンズのズボンの上から白いフリフリレースのエプロンを着けた朔海が言う。
……本来なら、突っ込むべきところなのだろう。だが、そのあまりの似合い様には何も言えなくなってしまう。
それに比べて、小豆色をした冴えない学校指定ジャージを身に着けた咲月は、何となく声をかけづらくて、その場に突っ立ったまま彼らの言い合いを眺めていた。
「もうそこはいいから、ガス台用のガスボンベを出して来てよ」
ぷりぷりしながら、朔海が葉月から器と箸とを奪い取った。
からかうような、葉月の表情。
「……っ、ぷっ、」
思わず吹き出した咲月に気付いた朔海は、
「あっ、咲月さん!」
濃い山吹色をした卵に混じった大小様々な褐色の欠片を小器用に箸で掬い取りながら、開けっ放しの扉の敷居の外に立つ彼女を振り返り、笑顔を向けた。
――朔海の視線が自分から外れた途端、葉月は孫を見守る祖父の様な眼差しで彼の背を見つめ、軽くため息をつきながら苦笑いを浮かべた。
「……あー、もしかして今の見てた?」
「……あ、えーと……、あの……」
お互い、微妙に視線を泳がせ、
「……あの、何か手伝いましょうか?」
おずおずと咲月が申し出た。
「んー、じゃあ卵を割って貰ってもいい? ……葉月が割った分はホラ、この通り使い物にならないから」
苦笑を浮かべる朔海の前で、咲月は頷き、テーブルの上の卵のパックに手を伸ばす。
一つ、手に取り、皿の縁に軽くぶつけてヒビを入れ、風呂上りで温もり少し赤みを帯びた指をヒビから挿し入れる。そのまま真中から左右に引っ張り、中からこぼれ落ちるドロッとした白身とぷっくりした黄身を深めの器で受け止める。
「ほら見ろ、葉月。卵を割るってのは、こういうのを言うんだよ」
一つ、二つと割られ、きれいに並ぶ黄色の目玉を指差し朔海が言う。
「……材料の準備はもうできてる。後は鍋を火にかけるだけだ。さあ、葉月はガス台とガスボンベを早く持ってきて。――それと、咲月さん、ちょっと来てくれる?」
朔海は咲月の手を取り、台所の外へと彼女を連れ出した。
――太く、短い指。霜焼けやあかぎれ、ささくれだらけでボロボロの手を、躊躇いなく包み込む、白くて綺麗な手。細く長い指が暖かく、指の間に絡み合う。
朔海は彼女の手を握ったまま、彼女がついさっき通って来た廊下を突き進み階段を上り、咲月の部屋の一つ手前の扉を開けると、中へと導き入れた。
訳も分からぬまま、咲月は辺りを見回した。
――六畳程の洋室にシングルベッドが一台、我が物顔で陣取り、余ったスペースに押し込まれる様にタンスが大小一台ずつと、チェストが一台が置かれ、東側の壁に、申し訳程度と言うべき小さな窓が一つ。
と、突然に視界が遮られ、目の前が白く染まった。
何事かと驚く咲月の頭上に柔らかなタオルが降って来た。
それを――その状況を、理解するかしないかのうちに、十本の指ががっしりと彼女の頭をタオル越しに鷲掴んだ。
あの、華奢な指とは思えない力強さでガシガシと彼女の髪を滴る水気をタオルに吸わせていく。
「ダメじゃないか、こんないい加減な乾かし方のままフラフラしちゃあ……」
ガシガシ力任せに手を動かす彼の様子は、一見乱暴に見える程。
しかし、指先の動きは丁寧で、痛みを感じるようなことは全くなかった――どころか、ツボを心得てでもいるのか、結構気持ち良い。
「部屋の中は暖房利いてるけど、そんなんじゃ風邪引くよ?」
あらかた水気を吸ったタオルをどけ、
「ほら、ここ座って」
ベッドを指差す。腰の高さほどのチェストの上に置かれた籠の中から、くしとドライヤーを手にして、
「ああー……、折角元は綺麗な髪なのに……。いったい何を使って洗ったの?」
咲月の肩を押し、彼女を半ば強制的にベッドに腰かけさせる。朔海はその前に立ち、ドライヤーのスイッチを入れた。
熱い風が、短い黒髪をなびかせる。風に揺らめく髪にくしを入れ、傷んだ髪の一本一本を繊細な手つきで梳き梳かしていく。
優しく頭皮に触れる風に、咲月は身体を強張らせ下を向いた。――その表情は真っ赤に染まり、目は過度な潤みを帯びていた。
「はい、できた」
ドライヤー三分、アフターケアに五分。丁寧に梳られた髪は、ちっともサラサラ感の無かったついさっきに比べ、髪質こそ変わらないが、それでも随分指通りが良くなっている。
「さっ、じゃあ夕飯にしよう。さすがにもうカセットコンロの準備も整った頃だろうし」
ポン、と肩を軽く叩き、朔海は固まる咲月の手を取る。
「今日は君の歓迎会だ。遠慮せずにガッツリ食べろよ」