策
長い事、あちらこちらを転々とさせられてきた咲月にとって、長距離の移動など慣れたものだった――はずだった。
しかし、殆どの場合で利用した移動手段は鉄道――それも特急車両ではなく、普通列車である。
当然、移動には半端ではない時間がかかるのだが、列車という乗り物の特性上、車両内の移動は容易に可能で、ある程度空いた列車であれば、立ったり座ったりも自由にできる。
一時間に一本しか電車が無い様なローカル線の田舎駅でさえなければ、時折、休憩を兼ねて途中下車も気軽にできる。
――だから、大いに油断していたのだ。
「……大丈夫?」
朔海が、背中をさすりながら心配そうに言った。
「そろそろお昼だし……、どこかで休憩しようよ。葉月、後ろに積んだ荷物の中に酔い止め薬は入ってないの?」
「ありますよ。ですが、胃の中が空っぽの状態での服用は良くないですからね。今度、良さそうな店を見つけたら、食事にしましょうか」
一人、運転席に座る葉月は、ちらりとルームミラー越しに後部座席の二人を見た後で、少し拓けて来た道の先に目を凝らした。
「うどんとか、軽く食べらるものの方がいいんじゃない?」
「もう少しで中禅寺湖です。このあたりは確か、湯葉が有名なんですよ」
「へぇ、良く知ってるね」
「調べましたから」
葉月は、ダッシュボードに手を伸ばし、中からガイドマップを取り出した。運転中の彼は、前を見たまま左手だけ後ろに回し、それを朔海に手渡した。
本には、幾つもポストイットがつけられ、その一つを開けてみると、マーカーで引かれた線で蛍光ピンクに染まったページが現れた。
見開きページの左に地図、右にはその周辺の観光施設やグルメ情報が載っている。
「あ、このヒメマスってのもおいしそう……って、ああ、旬にはまだちょっと早いんだね。幻の魚とか書いてあるよ、これ。今度、釣りに来るのもいいなぁ」
朔海の言葉につられ、つい彼が開いた本のページに視線を落とした直後、すぐにそれを後悔するように目をそむけた咲月は車の窓に懐く。
「あ……ゴメン」
朔海は言いながら、助手席と運転席との隙間から腕を伸ばし、本を葉月に返す。
「ねぇ、ここ。湯葉の蕎麦が美味しいお店だって。この近くみたいだよ」
朔海から本を受け取りながら、一瞬、地図を見て、ちょうど通り越すところだったガソリンスタンドの看板と、地図に載ったマークの図柄が同じものであるのを確認した葉月は、車のスピードを少し緩め、慎重に流れていく景色を観察する。
「あ、あれじゃない?」
後部座席から身を乗り出していた朔海が、前方を指さして言った。
「朔海君、シートベルトはちゃんとしめてください。最近じゃ、それでの取り締まりもあるんです。間違っても警察の御厄介にはなれないんですから、気をつけて下さいよ?」
苦言を呈しながら、葉月はウィンカーを点滅させ、店の駐車場へ右折しようと軽くブレーキを踏む。対向車線と後続車両を確認し、再びアクセルを踏み込み、開いた駐車スペースに頭から車を入れ、エンジンを切る。
「――大丈夫ですか?」
葉月が後ろを振り返り、咲月の様子を窺う。
「車を降りよう。外の空気を吸えば少しは楽になるだろうし」
気遣ってくれる二人の言葉に、咲月は無言のまま僅かに頷き、取りあえずシートベルトを外す。
その間に先に車を降りた葉月が車のドアを開けてくれる。
急な動きをしないようゆっくり体の向きを変え、地面に足をつけた咲月の前に、手が差し出された。いつの間にか反対側のドアから車を降り、後ろを回りこんで来た朔海の手。
咲月が立ちあがるのに手を貸し、そのまま店へとエスコートしてくれようとしているのだろう。
こういう扱いに未だに慣れられない咲月は、ぎこちない動きで彼の手を取った。
あまり良いとは言えない顔色で、よろよろ立ちあがる咲月の背に手を添え、朔海は後ろ手にドアを閉めた。
「深呼吸、してみようか?」
湖にほど近い山中の空気は涼しく、むかついた気分をきりりと引き締めてくれる。慎重に、空気を肺に入れ、そして吐き出す。
生温かい車中の空気が、新鮮な空気と入れ替わり、重苦しい気分が少し楽になる。
トランクを開け、荷物の中から目当ての物を引っ張り出した葉月は、車のキーについたキーホルダーのスイッチを操作して全てのドアにロックをかけ、
「店に入りましょう。冷たい水を飲めば、少し楽になるでしょうから」
先に立って歩き出した。
「行こう、歩ける?」
朔海の問いに、咲月はもう一度無言で頷き、背に添えられた手に心臓の鼓動を乱しつつ、店へと歩き出した。先を行く葉月は、店の扉を押し開け店員に指を三本立てて見せて人数を伝え、開けた扉を押さえて待っている。
そう広くも無い駐車場は、数歩も歩けば店の戸をくぐる事が出来た。店の扉は二重になっており、葉月が開けて待っていた扉をくぐると風除け室があり、目の前にもう一枚、扉があった。
葉月は、押さえていた扉を朔海に預け、もう一枚の扉を押し開けた。
「いらっしゃいませ。お客様、お煙草はお吸いになられますか?」
「いえ、吸いません」
葉月は店員の問いに答えながら、ザッと店内を見回した。奥の席で、煙草を吸っている年配の男性客らを見つけると、
「できれば、喫煙席から一番離れた席をお願いしたいのですが」
と、店員に告げた。
「連れが、山道で少し車に酔ってしまったようでして。煙草の煙は、ちょっと……」
「かしこまりました。では……こちらのお座敷はいかがです?」
案内された部屋を覗き込んだ朔海は、
「いいんじゃない? 襖を閉めちゃえば静かになるし、窓も開けられるみたいだし」
と、葉月を見る。
「では、只今お茶とおしぼりをお持ちいたします」
「あ、すみません。お冷やを一つ、いただけますか?」
去りかけた店員を呼び止めた葉月が水を要求している間に、朔海は段になった座敷の淵に咲月を座らせ、その足元にしゃがみこんだ。
そのまま、咲月の履いたスニーカーの靴紐に手を伸ばす。さすがに焦って固まる咲月に頓着する事なく手際良く靴を脱がせてしまう。
朔海は、自分も靴を脱いで座敷に上がると、再び咲月に手を貸して立ちあがらせ、座敷の上座に導いた。
座敷は、足元が掘りごたつ式になっており、足を下せるようになっていた。咲月を座らせ、隣に座った朔海は後ろの窓の鍵を開けると半分ほど開け、外気を入れる。
襖を閉めた葉月は、咲月の向かいに座り、卓に置かれたメニューを開いた。
メニューの冊子に挟まれたランチメニューを抜き出して、朔海は咲月の前に置きながら、
「あっ、これ美味しそう。僕、これにする」
そばやうどんといった和風メニューが並ぶ中、湯葉ときのこを使ったクリームパスタを見つけた朔海が載せられた写真を指して言った。
「では、私は湯葉と山菜のお蕎麦にしましょう。咲月君はどうします? 暖かいものよりは、冷たくさっぱり食べられるようなものの方が……」
言いかけた所で襖が開き、
「お待たせいたしました、お茶とおしぼり、お冷やをお持ちしました」
先程の店員が、盆におしぼりと、お茶の入った湯のみと、水の入ったガラスのコップを持って入って来た。
「ご注文はお決まりです?」
それらを卓に並べながら尋ねる店員に、葉月が否と答えると、
「では、お決まりになりましたらまたお声をおかけください」
早々に退出していく。
「あっ、これもおいしそう!」
湯葉を使ったスイーツメニューを眺めていた朔海が目を輝かせた。
「湯葉のムースだって。これなら食べられるんじゃない?」
可愛いガラスの器に入った褐色のムースの上に色とりどりのフルーツが飾られたそれの写真を指さし、朔海が言った。
「あ、僕はこっちのにしようかな、豆乳プリンだってさ。大丈夫、もし多かったら、僕が食べるし」
……それはつまり、咲月の食べかけを彼が食べるということで、そういうのを世間様では確か間接キスとか言うのではなかっただろうか?
咲月は、口に含んだ水を飲み込もうとして失敗し、激しく咳き込んだ。その拍子に、胃からあがってくるものを必死に押し戻そうと苦心しつつ、目にうっすらと涙を溜めた。
「だ、大丈夫?」
背をさすろうと伸ばされた手を手振りで制し、何とか呼吸を整えてから、
「す、すいません。もう、大丈夫です」
小さく呟いてもう一度口に水を含み、今度はちゃんと飲み込んで、
「少し、楽になりました」
ホッと小さく息を吐き、コップを卓に戻した。
「食事、食べられそうですか?」
問いに頷いた咲月に、
「食べ過ぎるのも良くありませんが、空腹過ぎるのも乗り物酔いにはあまり良くないですからね。食べれそうならば、きちんと食事を摂った方が良いでしょう。特に、この遠出の理由を考え合わせれば、尚更ね」
葉月はメニューを開き、
「消化の良い物の方がいいでしょうね。蕎麦というのは意外と消化はあまり良くないので……これなんかどうです? 湯葉の雑炊だそうですよ」
と、小ぶりの土鍋に盛られたそれを指して言った。
「じゃあ、それで……」
全員の注文が決まり、葉月が後ろの襖を開けて店員にオーダーを告げる。
「目的地までは、まだまだ時間がかかるんだよね?」
「まだあと五時間以上はかかるでしょうね。直線距離で行けるような高速道路でもあれば良いのですが、残念ながら国道を乗り継いで回りこんで行かなければならないので……」
注文を終え、襖を閉じた葉月は、おしぼりの袋を破りながら言った。
「この辺も、鬼怒川という温泉処なのですが……。やはり、目的を考えれば関東近辺では草津温泉がベストです」
――あの、私にできる事なら……言って下さい。今が大変な状況なのは分かってますから。少しの無理を通すくらい気にしませんから、言って下さい。
そう言った咲月に、葉月が渋々口にした言葉。
「――血を」
短く途切れてしまった言葉を継ぐように、葉月はもう一度息を吸って、再び口を開いた。
「もう一度だけ、朔海様に飲ませるために咲月君の血が欲しいのです」
告げられた咲月は、小さく首をかしげた。
……血を飲んだせいなのだというあの朔海の妙な色香には困ったけれど、ついさっき彼に血を分けたばかりである今、葉月がそこまで渋る程の理由が咲月には分からなかった。
「私は、先程あなたから400ccの血液を採りました。それだけの量の採血をした場合、減った分の血を回復させるために、本来ならば8週間は間を置かねばならないのです」
だが、敵が親切にそんなに長い間見逃しておいてくれるはずもないだろうことは咲月にも容易に察する事が出来た。
「朔海様の術のお陰で、1週間ほどの安全は確保されたと思われます……が」
「……それでも、雑魚な刺客連中くらいは送られてくるだろうね」
「普通に日常生活を送る事を前提とした数字が2ヶ月なんだと、良いように解釈すれば……あるいは」
葉月は、咲月にまっすぐ視線を合わせて続けた。
「1週間、“入院”という形で全力で“治療”を施せば……、あるいは」
「入院……?」
「ええ、今のあなたは少々血液量が減っているだけで至って健康体です。もちろん本来なら、そんな処置は全く必要ありません。ですが、そこをあえて絶対のサポートの元で血液量を大急ぎで増やすんです。当然、咲月君の身体にとっては良い事ではありません。無理をする分がそのまま身体への負荷になる」
そうして、無理やり増やした分の血液をまた抜こうと言うのだから、彼女への負担は限りなく大きい。
「でも、それで今の状況をどうにかできるんですよね?」
「うん。とってもたくさん魔力を必要とする術だから、まだ一度も使った事がないんだけど。成功すれば、連中は僕の許可なしに魔界とこっちの世界との行き来ができなくなる――少なくとも、向こう半年くらいは」
血さえあれば、彼はそれだけの魔力を得る事が出来る。――次は、半年後。それだけの間があれば、今度は普通に血を分ければいい。それで、期限一杯までの平穏が約束されるというのなら。
迷いも、躊躇いも必要ない。向けられた視線を、真っ直ぐ見返す。
「……いいんですか?」
葉月の問いに、咲月は頷いた。
「では、明日から1週間ほどの予定で温泉旅行に行きましょうか」
そして、彼は優しげな微笑みを浮かべて言ったのだ。