血と、魔力と、色香と。
――咲月は、目の前にでんと居座るお重を凝視したまま、固まっていた。
落ちつかない。
視線が、泳ぐ。
上品な光沢のある黒塗りのお重の蓋に書かれた「うなぎや志麻」なる金文字。その横にはお椀が一つ。
咲月のすぐ目の前にあるお重とは別に、卓にはもう二膳、お重が並んでいる。
左に葉月、右に朔海。
葉月の膳、朔海の膳、自分の膳、そこから視線を上げて時計を確認し――現在午後8時37分23秒――ちらりと葉月の横顔を視界に収め、再び葉月の膳へと視線を落とし、朔海の膳を見、自分の膳を見、また時計を確認――現在午後8時37分31秒――葉月の膳へと視線を落とす間に彼の姿が視界に入る。
いつものゆったりとした食卓机と比べ、だいぶ距離が近い。
――別に狭い訳ではないはずのだが……
出前と言われて、ピザしか思いつかなかった咲月は、つい、気分的に必要もない正座をしてしまう。
鼻をくすぐる食欲をそそる香ばしい香りに、腹の虫がうっかりポカをやらかさぬよう監督することに努めて心を落ち着かせようとする。
ゴポゴポ、と、朔海の座る横に置かれたポットから蒸気が勢いよく排出される。
朔海は、卓に置かれた急須に、湧いたばかりの熱湯を注ぎ、盆に乗った三つの湯のみに順繰りに茶を注ぎ入れながら、彷徨う咲月の瞳がことごとく自分を素通りしていく理由が分からず、トポトポと茶を注ぐ音に哀愁が揺らぐ。
「冷めないうちに、いただきましょうか」
葉月は、心の中だけで呆れた様なため息をつきつつ、割り箸をパキンと二つに割る。
毎度お決まりながら、綺麗に二つに割れず、箸の絵の片方が斜めに太く、もう片方は細くなる。
……が、いつもの事だ。葉月は気にせず、お重の蓋を開け、早速うなぎに箸を入れる。
「葉月、お茶」
朔海が差し出した湯のみを受け取り、葉月は湯気の立つお茶を一口すすり、小さく息を吐き出した。
「えっと、……君のも」
どうしても、その視線を上げる事が出来ない。
言われて差し出された湯のみを務めて凝視しながら、咲月はおずおずとそれを受け取り、卓に置いた。
ふと、小さな音が耳をつき、ちらりとそちらに視線を送る。
朔海の、箸を持つ右手の手首に着けられた、ムーンストーンのブレスレットが目に留まる。
――そういえば、さっき、治療中にも彼の手首にそれはあった。
服も身体もあれだけボロボロだったにもかかわらず、ブレスレットには小さな傷一つさえない。
パキン、と、こちらは器用に割り箸を綺麗に二つに割り、慣れた手つきで箸を操り食事を始める。
着替えて部屋へとやって来た朔海をうっかり直視してしまった時、何故だか異様に心拍数が跳ね上がった。見た感じ、特に何かが変わった感じはしないのに。
本当に何気ない仕草の一つ一つがどうしても気になって仕方がないのだ。
「朔海様、念の為お尋ねしますが、お身体の方の調子はいかがです?」
「ん? ――ああ、問題無いよ。……と、いうか……もう、いつ以来だろう? ここまで絶好調なのは」
咲月はジッと、朔海の手元を視線で追う。
王子……だからなのだろうか。マナーやら作法やらに詳しくない咲月の目から見ても、彼の仕草はどれも綺麗だ。
「咲月君はどうです? 一応、健康上問題の無い程度とはいえ、一度に結構な量を採りましたから……。変に疲れたり、眩暈がしたりはしていませんか?」
咲月は首を左右に振りながら、急いで口の中身を飲みこんだ。
「……特には。たぶん、大丈夫だと思います」
「そうですか。でも、今晩は出来るだけこまめに水分補給をしてくださいね。何かあったら、いつでも私に一声掛けて下さい」
葉月は、医者の顔で言う。
「はい、ありがとうございます」
そんな彼を見上げ、咲月は軽く頭を下げた。
「……それは、私達が言うべき台詞ですよ」
苦笑を浮かべた葉月に、
「それと、“ごめんなさい”も付けとくべきじゃないか?」
それまで畳の上でゴロゴロと寝そべってくつろいでいた青彦が口を出す。
「これまで秘密にしてきた事をさ、謝っとくべきだろ?」
「……そうだね」
朔海は、未だにこちらを見ようとしない咲月に寂しげな笑みを向け、そして目を伏せた。
「僕が、君を巻き込んだ。……僕は君に幸せに暮らして欲しかったんだ。まさか、百年近くまるで動きの無かった事態がこうも急展開するとは思ってもみなかったから、吸血鬼なんて面倒事は全部忘れたまま……」
湯のみを持ち上げ、ちらりと中身に視線を送る。
「でも僕は、こうして君を巻き込んだ。君の血を飲み、そして……君に、とても酷な選択を押しつけようとしているんだ」
朔海は、それに口をつけることなく静かに湯のみを置いた。
「ねえ、……僕が怖い?」
恐る恐る尋ねた彼に盛大なため息で答えたのは、問われた咲月ではなく、葉月と青彦と紅姫だった。
「……朔海様」
ため息をつきつつ眉間にしわを寄せる葉月の横から青彦が
「うわぁ、全然分かってないよ、この坊ちゃん……」
呆れて呟いた。
「普段はコレが可愛いんだけど……。これからを思うとちょっと不安になるわね……」
さらに紅姫にまでダメだしされた朔海は、困った顔で首をかしげた。
「え、え……?」
「あのさ、ダダ漏れなんだよ、さっきから」
青彦は、あえて主語を抜かして言った。
「飲んだだろ、さっき。……だから、そのせいなんだよ」
が、朔海はその青彦の言葉を聞いてもまだよく分かっていない顔をする。
「吸血鬼は、血を得るために狩りをする生物ですから。獲物を惹きつけるための疑似餌としての『魅力』というのが――ある程度の個人差はあれど――標準装備されているんですが。それに、持ち合わせた『魔力』が加味されると、異性を惑わせる『色香』になるんです。……もちろん、あなたはご存じのはずですよね、朔海様?」
こめかみに手を当て、頭痛を堪えるように首を振り、深いため息と共に葉月が尋ねる。
その葉月の言葉を聞いた咲月が、ようやく顔を朔海に向けた。視界に彼の顔が写り込んだ瞬間、一際心臓が派手に鼓動を乱し、咲月は無意識に呼吸を止める。
「――え、……でも……僕は“綺羅星”なのに……?」
咲月の反応の理由を聞いて少しホッとしながらも、朔海は戸惑いをそのまま口にした。
「なぁ、葉月。俺、例の件での一番の厄介事が俺達の正体なんだと思ってたんだけどさ」
「ええ、私たちの思い違いだったみたいね」
「まさか、青彦の懸念がここまで現実味を帯びてくるとは……思いませんでしたね」
「坊ちゃん、さっき嬢ちゃんの血を飲んだだろ? その分、あんたの魔力が普段のそれとは比べ物にならない程、破格に増大してるんだよ」
「……その所為で、あなたの色香が増しているんです」
「それこそ、この娘にとっては凶器に等しいくらいにね」
朔海は、それでもまだ微妙な表情を浮かべていたが、やけに赤い咲月の表情に目を留め、目を閉じた。意識を己の血流に集中させ、体内を廻る魔力を操り、抑える。
咲月の高鳴る心臓が、波が引いて行くように静まって行く。止めていた息を一気に吐き出し、疲れ切った咲月は箸を置いて卓に額をつけた。
「嬢ちゃん、大丈夫か?」
「だ、だいぶ楽になりました」
青彦の言葉に顔を上げた咲月は、明らかに疲れた顔で微笑んだ。
改めて朔海を見上げ、あの奇妙な鼓動の高鳴りが湧き起こらない事にホッとしながら、
「……その、……すいません」
謝罪の言葉を口にしながら軽く頭を下げ、視界にブレスレットを捉えた瞬間、先程のものとは比べ物にならない程度の微かな波紋が心の中にじんわりと浸透していくのを自覚した咲月は、朔海の綺麗な瞳を見つめた。
「嬢ちゃんが謝る事じゃないって。ありゃ普通の人間が抗える類のものじゃないからな」
「ある程度耐性があって、しかも葉月が目の前にいた私ですら、グラついた位だったんだもの。何の免疫も無いあなたが正気で居られたのって、結構すごい事なのよ?」
「うーん、身体の調子がすごく良いのは確かなんだけど。……そんなに?」
困ったように頭をかいた朔海は、
「自分じゃ良く分からないんだけど。本当にそうなら……」
と、小さく呟き、
「葉月、今ならあの術も使えるかな?」
葉月に問いかけた。
「……今日、押しかけて来た連中だけどさ、情けないけど追い返すだけが精一杯で。それでも、しばらく魔界から出られないように術の刻印を刻んでやったから、あの連中は当分こっちには来られない。でも……」
「あの男の掌中に握られた手駒はまだ多い。全ての駒を潰しきるより、私達の方が先に参ってしまうであろうことは火を見るより明らかでしょう」
「連中全部と戦うには全然足りないけど」
朔海は、自分の掌に視線を落とす。
「でも、連中がこっちへ来るのを一時的に封じるだけなら……」
「――不可能ではないでしょう。ですが、現状ではお勧めできません。あまりにも、消耗が激しすぎる。確かに今、貴方の魔力は増していますが、あくまでそれはあの大怪我を回復させた“余力”です。術で消耗した分を即時回復させられる手段が無い状態でそれをしようというなら、私は全力で貴方をお止め致しますよ」
葉月はきっぱり言い切った後、
「……ですが」
と、ちらりと咲月を見やってから再び口を開いた。
「間をおいて、もう一度咲月君の協力が得られるなら、それが一番有効な策でしょう」
一口、茶を啜り、
「できれば、2ヶ月は欲しいところですが……」
ひどく渋い顔をする。
「咲月君の負担を考えれば、2ヶ月後が妥当なのですが……」
葉月が言い渋る理由など、この場の誰もが良く分かっていた。
咲月は、もう一度朔海の手首に目をやり、
「あの、私にできる事なら……言って下さい」
葉月に言葉の続きを促した。
「今が大変な状況なのは分かってますから。少しの無理を通すくらい気にしませんから、言って下さい」