初
「――朔海様。その台詞、そっくりそのまま私からあなたへお贈り致しましょう。私にとっての希望はあなたのその心。あなたの心を守るためならば私は労力を惜しんだりは致しません。ですが、それも命があればこそです。あなたの命を守るためならば、私は手段を選びません」
葉月は、てきぱきと採血の支度を進めながらきっぱりと言い切った。
「そして今、それを守るためには咲月君の存在は欠かせません。今や私にとってあなたは朔海様と同等――いや、もしかしたらそれ以上に失くす事の出来ない存在です。あなたの未来の幸福の為の助力を惜しむつもりはありません」
咲月に丸椅子を勧めながら、葉月は彼女に真摯な言葉を向けた。
「先程、出かけた先で襲ってきた連中の素生や目的は、もう紅姫から聞きましたか?」
「あの……、はい。私を、狙って来てるんだって……」
咲月の答えに、紅姫がつけ足す。
「……朔海様がしばらく不在だった間の事情については説明したけれど、葉月、あなたの血にまつわる因縁に関してはまだ、さわりしか説明してないの。……いろいろ複雑だから、そこまで説明しようと思ったらかなり色々掘り下げなきゃいけないし」
カラカラと、葉月が椅子に座った咲月の前にキャスター付きの小さな台を運んできた。卓上には、注射用の腕置きが置かれている。
「先程襲ってきたあれは、……私としては非常に受け入れがたい事実であるにしろ、取りあえずは私の縁者なのです。私は、あなたと朔海様を私の厄介事に巻き込んでしまっているのですよ」
「……それは、僕もだ。その、葉月の一族のゴタゴタと、僕の家の厄介事はつながっているんだからね。僕も、君を僕の事情に巻き込んでる」
「我々があなたをここへ招かなければ、あなたはそれに巻き込まれる事など無かった」
医療用具を収めた収納棚から銀色のトレーに必要な道具を揃え、卓上に置いた葉月は振り返り、朔海と紅姫とを交互に眺めて尋ねた。
「……朔海様が今抱える事情についてはどこまで?」
「朔海様に下された命令についてと、葉月の言う『全てが上手くいく、たった一つの方法』については一通り。……一番最後の肝心な部分の詳しい説明がまだなんだけど」
彼女の答えに、朔海は呻いて身をよじり、仰向けていた身体を診療台にうつ伏せ、申し訳程度に置かれた小さく硬い枕――というよりは頭置き、と言った方が正しいかもしれないそれに額を押しつけ、よじれた傷の痛みに思わず上げそうになった悲鳴を押し殺して再び呻いた。
「つまり、朔海様の結婚話についてと、その“解決策”については聞いているんですね?」
咲月は、無言で頷いた。
「うぅぁぁぁぁぁ…………」
枕に顔をうずめたまま、頭を抱えて朔海はまたしても呻き声をあげた。
「それでも、あなたはここに居たいと思って下さるのでしょう?」
葉月は、そんな朔海の様子に苦笑をしながら優しい笑みを咲月に向けた。
「しかも、傷ついた彼を癒すためとはいえ、吸血鬼である朔海様に血を分けて下さるのだと言う……」
「ははっ、本当に逸材だよな」
青彦が笑った。
「なぁ、嬢ちゃん。俺はな、昔、こいつが吸血鬼だって事実を知った時、こいつを殺そうとしたんだよ」
青彦は、さらっと軽い口調で衝撃の事実を口にした。
「むかぁし、昔の話さ。まだ俺が、ガキにちっと毛が生えた位の頃の……。その頃の俺はな、好きだった女が吸血鬼なんかを好きになったって知った時、そいつらの気持ちを思いやる事もせず、ただ自分の正義だけを信じて、こいつを殺そうとしたんだ」
ちらりと、紅姫に視線をやり、そして葉月を見上げ、青彦は続ける。
「でも……結果的に、俺は好きだった女を死なせちまった。その所為で、俺はこいつに今も永遠の後悔を背負わせてる。だけど……嬢ちゃん、あんたは“逃げない”んだろう?」
青彦は、小さな牙をのぞかせながらニヤリと笑った。
「なら、面倒事は全部俺らに任せて、あんたは胸張って堂々とここに居ればいい。まだ、後1年、時間はある。考えるべき事はこれからゆっくり悩めばいい」
ピクリと、朔海の肩が震えた。葉月は、何とも言えない顔で苦笑してから、
「……では、そろそろ始めましょう。咲月君、腕を――ええと、利き腕は確か右でしたよね?」
と尋ね、咲月の左腕を恭しく手に取り、袖を肘上まで丁寧に捲った。
この数日のケアで、咲月の肌は以前と比べて随分と綺麗になったが、昔の痛々しい傷跡までは消えはしない。
幾つもの傷跡の上をそっと、手首から肘にかけて親指で扱くように簡単なマッサージをする。止血帯を手に取り、ゴム製のチューブを肘上できつく止め、彼女の腕を腕置きに置くと、人差し指で血管を探り、当たりをつけた場所を親指で圧迫しつつ、右手でピンセットを手に取り、つまんだ綿玉に消毒薬を染み込ませる。暖かだった葉月の指が腕から離れ、そこを冷たい消毒の綿でぐりぐり拭われた。
役目を終えた綿玉を屑入れに捨て、葉月は400ccパックから伸びたチューブの先についた注射針を手に取る。
――見るに、これまで目にした事のあるものよりと随分針が太い気がする。だが、葉月はそのまま、特に予告する事も無くササっと針を静脈に差し入れた。
一瞬、冷たいような感覚はあったけれど、痛いという感覚は皆無だった。刺した針を、テープで固定し、止血帯を外す。……と、つつぅーっとチューブを伝って咲月の血液がその先のパックへと流れた。
葉月の一連の処置をジッと興味深げに眺めていた咲月は、その手際の良さに舌を巻いた。
いつだったか、中学で「貧血検査」なる血液検査を受けた事があったが、あの時は注射の下手な医者に当たってしまい、何度も失敗された苦い記憶があったのだが。
葉月は、にっこり笑って言った。
「これでも、私も吸血鬼ですからね。血の扱いに関してはちょっとしたものなんですよ。何より、随分長く生きていますからね。その分、積んだ経験量もそこそこありますから」
言われた咲月の脳裏に、紅姫に聞かされた数字が蘇る。
「……あの、七百歳って、本当なんですか?」
恐る恐る、といった様子で咲月が尋ねた。葉月は、少し考える素振りを見せ、
「そうですね……一番古い記憶が、当時政権を担っていた鎌倉幕府が倒れ、天皇家が南北に分かれて争っていた頃の物なので……まあ、それくらいなのでしょうね」
と、事も無げに言った。
「じゃ、じゃあ……」
そろそろと、朔海の方へ目をやる咲月に、葉月が答える。
「ああ……はい、先日めでたく御年三百になりまして」
「う、うわぁぁぁぁ、言わないで! 真面目に考えると嫌になるんだから!」
朔海は突っ伏したまま頭をかきむしったが、すぐに傷の痛みに呻いて潰れる。
たった今肯定の答えを聞いたばかりなのに、そんな彼の様子からは、やはりそんな感じはしない。けれど、咲月は納得がいったように小さく頷いた。
同年代の男子達には到底真似できそうに無かった細々した彼の自然な気遣いの数々は、それゆえの物だったのだろう。
「じゃあ……王子だって言うのも……」
「……うん、本当だよ。まぁ、“綺羅星”なんて呼ばれて蔑まれてる、名前だけの第一王子だけどね」
「……吸血鬼に限らず、魔界という場所はとにかく力が全てなのです。――朔海様の場合、それなりの力は持っていらっしゃるのですがね。こういうご気性なもので……滅多な事では使いたがらないものだから」
パック一杯に血が溜まったのを確認した葉月は、針を留めていたテープを慎重に剥がし、傷口を脱脂綿で抑えながら針を抜き、綿をテープで圧迫するように留めて止血する。
「力が全ての場所で、自由にできる力を使わない阿呆はフツ―居ないからな。連中は、この坊ちゃんが無能なんだと思い込んでるのさ」
阿呆だと言われた朔海は、葉月に差し出された咲月の血が詰まったパックを悲しげに見つめて言った。
「いや、確かに今の僕は何の力も無いただの無能だ。今日一日で、その事実を嫌という程実感させられたよ」
朔海はそれを、そっと壊れ物か何かの様に慎重に受け取った。
「――僕も、覚悟を決めないと……か……」
ジッと、パックに詰まった血を眺めていた目を静かに閉じる。大きく息を吐き出し、再び目を開けて、朔海は先の二つと同様、パックに口をつけ中身を吸い取った。
保存液の味の混じる、冷たい、誰のものとも知れない、いつもの血とは比べ物にならない程甘い血の味が、舌の上を通り過ぎ、腹の中へと収まっていく。
段違いなのは、味だけではない。直接摂取ではないとはいえ、――無垢な生き血から得られる力はいつものパックから得られるそれとは、まるで別次元のもの。
腹の傷はほんの一瞬の間に綺麗さっぱり消えてなくなり、顔色にも血色が戻る。それとは逆に、瞳の色は緋色から常の濁りのない澄んだ濃紺色へ戻る。
――だが、それ以上に……何だろう、何か惹きつけられるもの……色気……というか魅力というか……よく分からない何かが増した様に、咲月には感じられた。
パックの中身を吸いながら、朔海が診療台の上で身を起こし、台に腰かける。その仕草に、疲労の色は見えない。
やがて、空になったパックを口から離し、朔海は穏やかな微笑みを咲月に向けた。その、向けられた笑みに、咲月の心臓が一つ、いつもと違う拍動を刻む。
「……ごちそうさま、……って言うのは……不謹慎かな?」
先程までのかすれた声から一転、魅惑的な声が、冗談混じりの台詞をなぞった。
「でも、……ありがとう。助かったよ」
……身体の傷は全て跡形も無く消えた……が、ボロボロにされ、葉月が裂いた服までは戻らない。
ほぼ全開に近いシャツの下の彼の半裸の素肌を直視できずに、咲月は目を泳がせた。
その隣で、葉月がわざとらしい盛大なため息を吐き出した。
「朔海君、とにかくまずは部屋へ行って着替えて来てください。それから、現状について改めて話し合いをしましょう」
葉月は、自分の白衣を脱いで朔海に放る。
「……キッチンがあの様子じゃ、今日の夕飯は何か出前でも頼むしかなさそうですしね。咲月君、こんな時間に失礼とは思いますが、あなたの部屋とコタツ、お借りしてもよろしいですか?」