ただ、そこに居るだけで……
「――――――え……?」
咲月の申し出を聞いて、目を見張りながら息を呑んだ朔海が、飲み込んでいた吐息と共に吐き出したのは、小さな呟きだった。
大きく見開かれたその瞳の緋色に鮮烈な赤色が輝く。渇いた喉が、無意識のうちにゴクリと鳴った。
青彦が、猫の口で器用に口笛を吹いた。
「おい、葉月。こりゃ願ってもねぇ申し出だよな?」
彼女の言葉に、難しい顔で俯き何やら考え込んでいた葉月は、数を増した眉間のしわを指でほぐしながら、薄茶色の瞳をこちらへ向けた。
「……ごめんなさい。“あなたの血を非常食にしようとか、そんな理由で引き取った訳じゃないから安心しろ”なんて言った舌の根も乾かないうちに、こんな事態になっちゃって」
しゅんと項垂れて言う紅姫に、咲月は慌てて首を左右に振った。
その様子を、身体を横たえたまま顔だけこちらへ向けて眺めていた朔海の瞳に、恐怖の色が揺らいだ。
「……もしかして……僕たちの正体……」
かすれた声で小さく呟かれた朔海の恐怖を、葉月は小さなため息と共に頷き、
「はい。……紅姫が、先だって一通りの説明を彼女にしていたそうです」
と、肯定した。
ぴくり、と、傍目にも分かる程、その言葉を聞いた朔海の身体が強張った。その表情は、まぎれもない恐怖に染まり、呼吸が、浅く早くなる。
「ま、待って……。お願いだから……」
まだ、思うように動かす事の出来ない身体で、無理やり起き上がろうと全身を震わせながら朔海は懇願の瞳を咲月に向けた。
人にあらざる緋色の瞳に宿る、あまりに良く見知った感情。その視線を真っ直ぐ受け止め、咲月は言った。
「――逃げません」
握りしめた右手を胸に当てて。
「……私は、ここに居たいんです。だから、逃げたりなんかしません」
咲月は、言った。
「あの、勝手に色々聞いてしまってごめんなさい……。まだ、あの事についての覚悟もできてないけど……。でも……お願いです、私をここに置いてください」
――その、彼女の必死の言葉の矢は、すとん、と綺麗に朔海の心の真ん中を射抜き、朔海は息を呑み、声を詰まらせた。
「……紅姫。吸血鬼に血を吸われるという事がどういう事なのか――彼女に、きちんと説明しましたか?」
ずっと考え込んでいた葉月が、静かに問いかけた。紅姫は、静かに首を左右に振る。
「ごめんなさい、まだよ。一つずつ、ゆっくり順番に説明していけばいいと思っていたから。まだ、一通りの簡単な……基本的な事しか説明していないの」
紅姫は、咲月を見上げて続けた。
「血を吸われただけで吸血鬼になったりはしない……。前に、そう説明したけれど……」
「確かに、それは間違いではありませんが……正確ではありませんね。圧倒的に説明が足りていない」
葉月は、メガネを押し上げながら、彼女の言葉を継いだ。
「吸血鬼の身体に流れる血はこちら側の生物には毒になります。そして、血そのもの程ではないにしろ、吸血鬼の体液もまた……こちら側の生物にとっては毒となり得るのです。……直接、肌に牙を穿てばどうしても、唾液が入る事になる。……致死量を超える程の吸血行為を働けば、それだけの量の毒が回り……その結果として、中途半端な吸血鬼が出来上がるのです。……心も感情も理性も失ったヴァンパイアとして蘇った、正真正銘の化け物が」
葉月の説明を耳にしながら、朔海は固く目をつぶる。
「もちろん、致死量を超えさえしなければそんな事にはなりません。……ですが、その毒とは、吸血鬼にとっては魔力そのもの。それを利用して、吸血した相手を操る、といった芸当も不可能ではないのです。――ですから、血に飢えている今の朔海君に咲月君の血を吸わせる訳にはいきません」
と、葉月は断言した。
「……しかし、今の状況のまま朔海君を放置する訳にもいきません。提供して戴けるのでしたら、是非とも欲しい」
葉月は、決断を下した。
「――採血の準備をしましょう」
要は、直接に吸血しなければ良いのだ。
「いいですね?」
葉月は問うた。咲月は葉月の目を見、そして頷いた。しかし、朔海は赤いままの瞳で葉月を見上げ、
「……でも……」
と、渋った。
「こんなの、少し休めば治るんだ。それを……、そんな……。僕はそんなことの為に君の傍に居たかった訳じゃないのに……!」
「朔海様。確かに貴方の持つ回復力を以ってすればこの程度の負傷、血など吸わずとも治癒は可能でしょう。……ですが、現状況でそれだけの余裕があるとは到底思えません」
今回は、追い返すことに成功した。だが。
「あの男の事です。この程度であきらめるとは思えません。すぐにもまた新手を送り込んで来るに違いありません。それまでには回復しておいていただかないと困りますから」
葉月の指摘に、朔海は反論できずに手で顔を覆う。
「……ごめん」
そして、ぽつりと零した。
「謝らないでください。今の私にできる事は、これしかないから……」
「!、 そんなことはない!」
寂しそうに俯いた咲月に、朔海は強く否定の言葉を吐き出した。
「……君は、ただそこに居てくれるだけで僕にこの世界を生きていくための大事なものをくれるんだ。僕は、君を守りたかったのに……」
一筋、彼の横顔に水滴が流れた。