緋
さわさわと、風が木の葉を揺らす音に混じって聞こえたその音に、朔海はうっすらと目蓋を持ち上げ、濃紺の瞳をそちらへゆるゆると向けた。
周囲にあるのは、暗闇。
月明かり、星明かり、通りの街灯や近隣住宅から漏れる町の明かりが、無残な姿を晒すボロボロのカーテンの向こうで揺れている――が、分厚い遮光用のカーテン越しではあまり意味は無い。
室内を満たすのは、暗闇だ。完全な真っ暗闇ではないが、普通の人間であれば周囲の様子をまともに視認する事もままならないだろう。
だが、彼の目にはその全てが、鮮明に映し出されていた。
投げ出された己の身体を横たえる床に散らばる割れたガラスの破片に転々と飛び散る血痕。床板や周囲の壁に幾つも、深々と刻まれた傷。ぶちまけられた鍋の中身。蹴り飛ばされて原形をとどめないほど凹んだ鍋。傾いた収納棚を貫く、食卓机の足。
しかし、目に収めたかった場所は視界の外――
朔海はゆっくり頭を持ち上げ、死角だったその場所を見ようと思ったが、思うように身体が言う事を聞かない。
そのうちに、車のエンジン音は見る見る間に接近し、そして止まった。
バタ、バタンと忙しげに扉の開閉音が響き、ガチャガチャと玄関の方からもどかしくドアノブを捻る音、脱いだそれを揃える暇すら惜しいと靴を脱ぎ散らかしたまま、スリッパも履かず靴下のままドタドタとあまり上品とは言えない足音を気にもせず高らかに響いたそれは、今まさに朔海が見ようとしていたダイニングキッチンの入り口手前で止まった。
入口の壁にあるはずの電灯のスイッチを、手さぐりに探し、もどかしそうにパチパチと入/切を繰り返すが、明かりが灯る事は無い。
3秒で、彼女はそれを諦めた。そして、闇を透かすように目を眇める。ほんの、1秒も躊躇う事もせず、部屋へと足を踏み入れようとした。
吸血鬼である朔海には鮮明な闇の視界だが、闇に包まれた空間の中、彼女の目にまともに映るのは唯一の光源である窓にかかるカーテンの残骸の影位のものだろう。
――来るな、と。喉元まで出かかった声は、渇いた喉にヒリつき、小さな呻きだけが漏れた。
「ダメ、待って!」
と、その直後に彼女の背後から掛けられた制止の声が無かったら、間に合わなかっただろう。
彼女を追うようについて来ていた紅姫の声だ。
そして、その声に重なり、息を呑んだ気配が伝わる。――おそらく、葉月のものだろう。彼の目にもまた、鮮明に部屋の様子が映っているはずだったから。
「嬢ちゃん、悪いが廊下の電気をつけてくれないか?」
紅姫の制止に、一先ず部屋への突入を中断した咲月だったが、今にもまた部屋へ駆け込みたそうに逸る彼女に、青彦が促した。
「すみません、ついでに診療所の方の明かりも、つけて来て頂けませんか?」
小さく息を吐き出し、葉月が言った。
その、彼の険しい表情に、今度は咲月が息を呑む。言葉を紡ぎだせなくなった咲月は頷き、急いで今来た廊下を駆け戻る。
葉月は、スリッパの底でガラス片を踏み拉きながら朔海の元へ歩み寄り、跪く。
「……っ」
声にならない朔海の抗議を無視して、彼の身体を横抱きに抱き上げ、足早に診療所の扉をくぐる。
青彦の案内と指示で、診療所の明かりを一通り灯し終えた咲月は、診療台に横たえられた朔海の様子に声にならない悲鳴を挙げた。
明らかに顔色が優れずぐったりした朔海。さっき、出かける前に会った時に着ていた物と同じ物だとは到底思えない程に乱れた着衣。シャツもGパンもあちこち破けてボロボロなうえ、あちこち血で染まり、殆ど無くなった右そでから伸びた白く華奢な腕の、肘の先は真っ赤に晴れている。
だが、咲月に悲鳴を挙げさせた原因はそれではない。
乱れ、肌蹴たシャツの下、やはり白くきめ細やかな肌に覆われた腹から泉のように湧く、真っ赤な鮮血。左の脇腹からじくじくと溢れるそれは、見る見る間に診療台に血だまりを作り、更に床へと滴り落ちて行く。
その出血量は、医療知識のない素人の目から見ても、普通の人間ならばとっくに生死の境を彷徨い、そろそろあちらへの川に片足を浸していてもおかしくないだろう量だ。
だが、朔海は薄目を開け、こちらに瞳を向けた。
その、瞳の色に咲月は再び息を呑む。濁りのない澄んだ濃紺色だったはずの彼の瞳の色が、煌々と輝く緋色に変わっていた。
朔海は、ようやく求めていた姿を目にして、表情を緩め、薄く微笑んだ。
「おい、葉月まずいぞ。ヤツら、薬品室の冷蔵庫をめちゃめちゃにして行きやがった!」
険しい表情のまま、ボロボロの着衣を裂き、腫れた腕を氷で冷やしつつ添え木をあてて包帯を巻き、腹の傷を大きなガーゼで覆い、細かな傷をピンセットでつまんだ消毒液を染み込ませた綿玉で拭い、黙々と手当を続けていた葉月が、手にしていたピンセットを放り出し、適当に羽織った白衣を翻し、慌てて薬品室に駆け込んだ。
「――っ、あっ、」
つられるように咲月が覗きこむと、そこにはまるでトラックで轢き潰したかのようにひしゃげて潰れた、家庭用の2ドア式の無骨な冷蔵庫があった。……確か、この間見たときには、大量の血液パックが詰め込まれていたはず。
そして、床と言わず、壁と言わず……バケツ一杯の中身をぶちまけたかのように、赤黒い液体が滴っていた。
「な……っ」
濃密に漂う、鉄錆の様な血臭。嗅ぎ慣れない臭いに戸惑う咲月の前で、葉月は変形してひしゃげた扉を、力ずくでこじ開けた。
すると、ぱらぱらと、中身のはじけ飛んだ空っぽのパックが数個、転がり落ちた。
潰れた庫内に腕を突っ込み、中身をかき出し、床に這いつくばるようにして、落ちたパックの中から無事な物を探す、葉月。青彦と紅姫も加わる。
「あった、これは無事みたいだ」
前足で、パックを一つ山の中からはじき出す。
「もう一つ、これも大丈夫みたい」
紅姫が、山の奥から一つ咥える。
「……無事なのは、どうやらその二つだけのようですね」
眉間に深いしわを寄せ、苦々しげな声で葉月が呟く。
「間に合うか……」
無事だったパックを猫達から受け取り、葉月は立ち上がった。
「――朔海君」
彼の名を呼びながら、彼が横たわる診療台へ早足に戻り、それをまず一つ差し出した。
閉じていた目をゆっくり開け、差し出された物を見た朔海は慌てたように咲月をちらりと見た。
先程から、咲月が青彦や紅姫と普通に言葉を交わしている事に、彼はまだ気づいていなかったらしい。
「彼女の事なら、大丈夫なようですよ」
ずっと険しい表情を続けていた葉月が、少し表情を和らげて言った。
「――飲んでください」
赤黒い液体の詰まったパックに注がれる、苦しげに揺らぐ朔海の瞳の緋色が、より一層赤みを増した。
朔海は、一瞬躊躇う様子を見せたが、理性より渇きに対する本能が勝った。殆ど奪い取るように葉月の手からパックを受け取り、チューブの差し込み口を咬み千切り喰い付いた。
ごくごくと、喉を鳴らして飲み込む。
ごくごく、ごくごく。息継ぐ間もなく。あっという間に中身の赤は彼の口の中へと吸い込まれ、見る見る間にパックは空になる。
「――っ、はっ」
一パック、一気に飲み干してようやく息を継いだ彼の様子に、咲月はまた目を見張った。
真っ赤にになっていたたはずの腕の腫れが、すぅーっと引いていく。身体中の細かな傷が、みるみる消えてなくなる。
朔海は、肘をつき、上半身を起こそうとして、顔をしかめた。
腕の腫れや、細かな傷は消えたが、腹の傷からは尚、血が止まる事なく溢れていた。顔色も、優れないままだ。
「やはり、一つでは足りませんか……」
葉月は、二つ目のパックを差し出した。朔海は、今度は少し落ち着いた様子でそれを受け取り、パックに口をつけた。一つ目と同様、一息に飲み干す。
すっかり空になったパックを受け取った葉月は、腹部の血をそっと拭った。つい、今の今までこんこんと溢れていた血が、僅かににじむ程度にまで回復していた。
けれど、彼の顔色は未だ優れないまま。瞳も未だ緋色のままだ。
「…………………………………………」
折角、少し和らいでいた葉月の眉間に、再びしわが寄った。
その訳は、吸血鬼が吸血によって得る圧倒的な回復力を目の当たりにした咲月にも十分察する事が出来た。
「――あの……」
咲月はおずおずと葉月に声をかけた。
「……その……、血が……要るんですよね?」
両手で、自分の両肘を抱えながら、必死な表情で声を絞りだす。
「あの、……私の血、を……」
いざという時の“非常食”役位なら――。
そう思った時には、まさかこうも早くにその機会が巡ってこようとは思ってもみなかったのだけれど。
今、出来る事があるのだ。
まだ、好きの気持ちの種類は分からないけれど、間違いなく“大切な人”である朔海が、目の前で傷つき弱っている。
それを、ただ眺めているだけしかできない辛さはもう、今日は十分過ぎるほど味わった。
――だから。
「私の血を、吸ってください」