今、必要なもの
パタン、と。
丁寧にドアが閉められ、カシャンとドアロックのかかる音が四方から聞こえた。
葉月が、一歩、前方の影の方へと足を踏み出した――
……と、そこまでは咲月の目と耳で認識できた。の、だが。
一歩踏み出した右足から重心を移し、左足で次の一歩を踏み出し地面を蹴った――その、次の瞬間にはその場から彼の姿が消えた。
「!?」
え、……と驚いた――と、まともに認識するよりも早く、困惑に泳がせた咲月の目に映り込んだのは、車のライトがギリギリ届く程の場所……つまりは前方の敵影のすぐ目の前に現れた葉月と、その肩に乗った青彦の姿。
あ、……と慌ててそちらに焦点を合わせながら。ほんの一瞬……たった一度瞬きをし――その直前、彼は敵影の胸倉を掴み、次の一歩を踏み出すため右足をたわめたていた――目蓋を再び開けた次の瞬間には敵影ごと彼の姿は闇に融けて消えていた。
彼らに僅かに遅れ、地面を駆けていた紅姫はその後を追うように、車のライトも、街灯の明かりも届かない闇へ躊躇い無く突き進んでいく。
彼らの種族が持つ、超人的な身体能力については紅姫から聞いていた……し、読んだ事のある小説でも、その殆どがそういう事になっていた。
だが、「百聞は一見に如かず」という使い古された言葉の意味を、これ程真に迫って実感したのはこれが初めてだった。
突如、バキバキバキッと凄まじい音がした。
反射的に身体がびくっと跳ねる。慌てて音のした方を見ると、うっそうと茂って闇をより濃くしている道脇の木々の数本がやけにゆっくり傾いでいくのが見えた――直後、ドサッと重たい音と共に車が揺れた。
「――っ、」
思わず、息をのんだ咲月の耳に獣の悲鳴が聞こえた。
ぎゃいん、と聞こえたそれは犬のそれに似ていたように思われたが、獣の唸り声や吠え声は聞こえても、闇を透かしてその姿を目に移すことは、人の身である咲月には不可能な事であった。
本当に、何一つ分からない。
どんな戦いが繰り広げられているのかも。どちらが優勢なのかも。葉月や青彦、紅姫達が無事なのかどうかも。
断続的に聞こえる獣の声に、焦燥だけが募っていく。
だが、何も分からない以上、咲月には何もできない。
――いや、もし仮に今分からない事が分かるようになったとしても……今の自分でこんな状況の中、何ができるだろう?
こうして、車の中で一人、シートベルトを握りしめたまま、ただ祈るように彼らの帰りを待つ事以外に――何が?
――悔しい。
咲月の心の中で膨らむ強い感情。
何もできない、何も分からない自分がもどかしい。それが、どうしようもなく悔しい。
それは、とっくの昔に捨て去ったはずだった感情。
あの優しかった義父母らを失った後、一番初めに引き取られた男の元で着せられたつんつるてんの服で学校へ通わねばならなかったあの頃。
当然、そんな子どもが居れば、それは同級生たちにとって、いじめの絶好のターゲットだ。
日々からかわれては悔しい思いをした。
次に引き取られた家に居た意地悪な義姉に、大事にしていた思い出の品を壊された時。
どんなに殴られても泣かなかったのに、思わず涙がこぼれるほど悔しかった。
その次に引き取られた家では、完全無視を決め込まれ、うっかり視界に入ってしまうと、いつも決まって汚いものでも見るような目で睨まれた。
毎日台所で1人、人目を盗んで食べ物を漁る惨めな自分が悔しかった。
けれど、どんなに悔しい思いを抱いても、何の力も無い自分にその状況を打破する術はなく、結局心にもやもやした澱が残るばかりで、ただ辛さが増すばかりだった。
――だから、悔しいという感情を、自尊心と共に捨て去った筈だったのに。
それが、今、こうして心に蘇った理由。
ここ最近、捨てたり封じたりしていたはずのものを随分取り戻せたのだけれど。
今、この感情が蘇った理由。
かつて、これを捨てた理由は、その状況を打破する術が無かったからだ。
けれど、今は違う。
今、何の力も無く、ただ何も分からず、何もできずにいる自分が居る。でも、この状況を打破する方法なら、すでに示されている。
そう、方法がある。
悔しい、と、そう思う状況を自分の力で脱却し、打破する事を可能にする方法が。
描かれた設計図を基にそれを形作るのに、今、必要なものは。