人影
もしも、この有り余る力を真実自分のものとして使う事が叶うならば――。
ハンドルを握りしめながら、フロントガラスの向こうの夜闇に同調し、蠢く内なる闇に足を取られ、引きずり込まれないよう、普段は使わないカーステレオでアップテンポの曲をかける。
そして、時折不自然に見えない様に注意深く慎重に鼻に空気を含ませる。
葉月は、半分は人間であるが、吸血鬼としてはかなりの上位にある血族――アルフ族の血をひいている。
アルフ族は、魔狼の血を取り込んだ一族だ。魔獣とはいえ狼は狼。当然嗅覚に優れており、その特性は一族に――ひいては葉月にも継がれていた。
どれ程優れているのか――といえば、おそらく犬程度――といったところだろうか。
少なくとも、咲月に声をかけるより前に、朔海が家の周囲に施していた仕掛けには気付いていた。
家を出てすぐ、彼が――……あの男の側近中の側近だった男が、随分大勢連れて我が家を訪れた事も、朔海が例の仕掛けを使い、彼らをあの場に留めたのであろう事も、風に混じる匂いで察していた。
ここ数日、毎日毎日同族が押し掛けてきてはいた。が、あれほどの人数が一度にやってくるなど……あの時以来だ。
葉月は複雑な心境のまま、前方の赤信号にブレーキを乱暴に押し込む。
キッと、路面に擦れたタイヤが抗議でもするように悲鳴をあげた。
安全運転が常の葉月の、らしくない様子に、咲月は遠慮がちにちらりとこちらを盗み見る。声をかけようか僅かに逡巡し、彼女はそっと視線を道の先へと戻した。
いつになく、ピリピリした空気を感じ取ったのだろう。
周りの空気を読む事にかけて、彼女の上を行く者を葉月は知らなかった。
実際、葉月の心は両端から引っ張られて今にも二つに引き裂かれ、なかからドロリとした闇がこぼれ出てきそうだった。
――咲月の安全を確保するため、彼女を連れだしたのだが。
あの家にたった一人で残してきた朔海の事が心配でならなかった。
1人や2人の刺客ならば、葉月もこうは心配しない。だが、あの人数……。
朔海が――王族の血を引く者が本気を出せば、連中を退けるくらい訳ないはず……なのだが、争いを好まない彼が、全力でその血の力を引き出し闘いに臨んだことなど、未だかつて一度も無いのだ。
彼の実力は未知数――それは周囲の者はもちろん、彼自身すら把握してはいない筈。
それに、たとえ人数が居たとしても、今まで送られてきていた刺客程度の者ばかりならば、葉月もここまで心配する事はなかっただろう。
だが、父親の側近であったあの男は、一族の中ではその長たる紅狼に次ぐ戦闘能力を有している。
また、統率力にも優れた男だ。
そんな男が率いる粒ぞろいの戦闘集団のただ中に、たった1人朔海を残して来てしまった事実が、葉月の心の中の闇を揺さぶる。
だが、自分があの場に残ったとして何が出来るのか。
どんなに強大な力を有していたとしても、真実自分の物として使えないのならば意味が無い。それも、宝の持ち腐れで済まないのだから尚更にタチが悪い。
紅姫と青彦の助力を得てすら、刺客一人倒すのがやっとの自分があの場に残っても、何の役にも立たないのは分かっている。
だからこそ、こうして咲月の護衛をしている……の、だが、理屈として頭では分かっていても、心情というものはそんなもので割り切れる程簡単にはできていないのだ。
「頼みますよ、朔海様――。後生ですから、無事でいてください。あなたが居なければ、彼女は――いえ、私の希望は潰えてしまうのですから……」
朔海の築いた結界によって、風が運んでくる匂いからあの場の状況の把握が叶わなくなった事を知り、含んだ空気を食いしばった歯の隙間から吐き出した空気に乗せて小さく呟く。
商店街は、もうすぐそこだ。
信号が青に変わった。葉月はアクセルを踏み込み、もう一度静かに深々と深呼吸をする。
ハンドルを切り、交差点を左折する。
交差点から少し行ったところにコインパーキングがあるのだが……
「ああ、やはりこの時間は混んでますね……」
パーキングの入り口前には、片側二車線の車道の左一車線をふさぐように車の列ができていた。
その列の先頭と最後尾に一人ずつ制服に身を包んだ警備員が立ち、赤いライトを仕込んだ警棒で頻りにサインを送り合っている。
皆、夕飯の買い出しに忙しい時間だ。長居する客も少ないのだろう、更に奥にある駐車場出口からは次々に車が吐き出されている。
それにつれ、こちらの列も徐々に進みはしているのだが、それでもまだ前には5、6台の車が居る。
「先に行ってもらってもいいのですが……」
葉月が、少々歯切れ悪く言った。
タイミング良く、前の車の助手席から女性がサッと降りた。運転席にいる男性はおそらく夫なのだろう。扉を閉めると、そそくさと交差点の横断歩道を渡り、商店街の中へと消えて行く。
前の車だけではない。二つ後ろの車からは小学生くらいの男の子を連れた女性が車を降りる。すぐ後ろの車は女性が一人で運転して来たようだが、誰かに運転手を任せて来た奥様方は一刻の時間すら惜しいと、運転手一人を残して商店街へと向かう。
商店街の一番手前の食料品スーパーの店先では、タイムセールのベルの音が響き、メガホンを手にした店員が、「タマゴ一パック90円!」としきりに叫んでいる。
すぐ後ろの車の運転席に座った30代くらいの女性は頻りにそれを横目で気にしながら、イライラとハンドルを人差し指で小刻みに叩いていた。
だが、咲月は別にタイムセールを目当てに来た訳ではないのだ。
葉月がついて来てくれた意味くらいは当然分かってる。
……彼が彼女を連れだした、本当の理由まではさすがに気付けはしなかったけれど。
「いえ、醤油を買うだけですから。待ちますよ」
何かあったのだろう事くらいは、葉月の様子から十分察せられた。
「人混み、すごいし。ケータイも無いのにはぐれたら、大変そう……」
店先に群がる黒山の人だかりに目をやりながら、咲月は呟いた。
その、咲月の答えに葉月はホッとした様に答えた。
「……助かります。私がついて来ていながら、あの中をあなた一人で歩かせたりしたら、後で朔海君に怒られてしまいそうですからね」
卵の前の人だかりは奥様方ばかりだが、もう少し奥にはゲームセンターもある。この時間、中高生くらいの不良連中も多くたむろしている事だろう。
何も、守るべきは同族連中からばかりではないのだ。
と――ふと、スーパーの隣のタコ焼き屋台から香るソースと青のりの香ばしい香りに誘われ、葉月はそっと息を吸い込み、そのまま固まった。
すぐそこから漂う食欲をそそる香りに混じって、今一番嗅ぎたくない匂いが葉月の心臓を鷲掴みにしたのだ。
「――っ!」
葉月は、殆ど脊髄反射でアクセルを目いっぱい踏み込み、直後、慌ててハンドルをいっぱいに切った。
車は急発進し、すぐ前の車ギリギリを掠めて車列から飛び出した。
そのまま、制限速度を丸無視したスピードで次々と前方の車をかわす様に追い抜き、商店街を抜け、その先へとひた走る。
突然の暴挙に、慣性の法則で助手席から浮きかけた咲月の体は、シートベルトに留められ、逆に助手席に押しつけられた。
まだ、この街に来て日が浅く、このあたりの地理に疎い咲月には、この道がどこへ続くのか分からない。
もう、らしくないどころか尋常ではない様子の葉月を見れば、更に不安が募る。
何かが起きているのは分かる。
だが、何が起きているのか分からない。
どうすればいいのかも分からない。
張りつめた空気の中で、咲月は思った。
知らない事、分からない事が、こんなにももどかしい事だったなんて……今まで知らなかった。
「――紅姫……」
彼らについて、知らなかった事を教えてくれた人の名を、咲月は呟いた。
「おいでなすったぜ」
と、突然耳元で葉月ではない男性の声がした。
驚いた咲月が見ると、助手席の右肩にいつかの黒猫がちょこんと乗っている。
「……葉月。――覚悟を決めなさい」
次いで、左肩から声がした。――紅姫だ。
突然現れ、人の言葉を喋った彼らに、葉月は心底ギョッとした表情で急ブレーキを踏んだ。
ギャギャギャギャギャッ、と、凄まじいスリップ音が響き、車が派手にドリフトをかました。
周りに車が居れば、大事故になっていたとしてもおかしくなかっただろう。
だが、いつの間にか道の両脇の街並みは途切れ、民家や商店の代わりに木々が生い茂るばかりの真っ暗な道に、他の車の影は無い。
突然向きを変えた車の前で立ち止まったのは――車でも、バイクでも、自転車でもなく……たった一つの、人影だった。