一生ものの恋
「……あ。……しまった……」
冷蔵庫の中を覗き込んだ咲月は小さな呟きをため息と共に洩らし、パタンと静かに扉を閉じた。
ちら、と、居間にかかった壁掛け時計を見上げ、針の位置を確認する。
――午後5時。
一日中を通して滅多に開く事のない閉めっぱなしのカーテン越しでは分かりづらいが、外はほぼ夜の闇に覆われているはずだ。
もう一度、そろそろと冷蔵庫の扉を開け、いつもそれが置いてあるはずの定位置をじいっと見つめる。
――が。
「どうしよう……醤油買ってくるの忘れた……」
やはり、無いものは無い。買い置きもちょうど切らしている。
咲月は、まな板の上の茹でたほうれん草を眺め、もう一度冷蔵庫の中身を確認する。
「ううん、おひたしにするつもりだったんだけど……」
どんなアレンジを加えるにしても、醤油が必要不可欠な料理だ。
「どうしよう、……何か他の料理に……ううん、でも材料が……」
頭の中のレシピを片っ端から当たるも、既に塩茹でにした上、冷水にて冷やし、水切りし、等分に切り分け、後はダシ醤油に浸すだけだったはずのそれを別の料理に変更しようにも、醤油なしで作れそうなレシピが思い当たらない。
しかも。
コンロの上でグツグツ煮える鍋の中の煮物。今はまだ、ニンジンやゴボウを沸騰させた湯でじっくり下茹でしている段階だが。
「あれにも醤油、使うんだよね……」
再び時計に目をやり、咲月はそっと居間の窓にかかったカーテンの端から外をのぞき見る――が、室内の明かりが窓に反射して外の様子はあまり良く見えないが、つまりそれだけ暗くなっているという事だ。
今、自分は命を狙われている。――それも、吸血鬼に。
昼日中ならば、太陽の苦手な吸血鬼を過剰に恐れる必要は無いと、紅姫は言った。
だが、太陽の恩恵が地平線の向こうへと去り、闇が訪れれば、ただの人間の小娘に過ぎない咲月が吸血鬼を相手に抵抗する術は無い。
……一人で外を出歩くことは出来ない。
咲月は視線を天井へと向け、むむむ、と小さく唸る。朔海はきっと、頼めば快くお供を引き受けてくれるだろう。
だが、昨日までに明かされた事実を思えば、今、彼と2人きりになって耐えられるとはあまり思えなかった。
――彼が、吸血鬼だという事実。
これに関しては、正直自分でも思ってもみなかった程、すとんと腑に落ちた。
例え彼が人間でないのだとしても、咲月にとって大した問題ではなかった。……正直、三百歳だとか、王族だとか、気になる節々が無い訳ではないが……だからといって、彼らと送る毎日を手放す事など、咲月には出来なかった。
あの人たちの正体が吸血鬼でも、咲月は気にならなかった。
咲月が日々彼らから受ける恩恵の数々を思えば、いざという時、紅姫の言うところの“非常食”役を買って出ても構わないとさえ思う。
だが――。
……さすがに、いきなり吸血鬼になって吸血鬼の嫁になれ、と言われて、はい、と答える事は出来なかった。
朔海の事は、好きだった。
けれど、ずっと長い間心を閉ざし続けていた咲月には、それがどういう種類の“好き”なのか分からなかった。
普通の、咲月と同世代の子たちがする様な子どもの恋愛だったら、それ位の曖昧な気持ちでも、“取りあえず付き合ってみる”という選択肢もあるだろう。
……しかし、一度吸血鬼になれば二度と人間には戻れないのだと紅姫から聞かされた今、いくら恋愛方面に疎いとしても、この先一生分の未来を賭けた選択の重みくらいは分かる。
……それに値するだけの想いを、今はまだ自覚出来ない。
でも、1年以内にその覚悟が出来なければ、彼は殺されてしまうのだ。
恩人をみすみす見殺しにする罪悪感を思えば、安易にノーと言う事も出来ない。
――と。
天井を見上げたまま固まった咲月の背後で、コツン、と壁を軽くノックする音がした。咲月が、ハッと我に返ると、
「――どうしました?」
薄緑のハイネックセーターに、淡いベージュのズボン姿の葉月が軽く腕を組みつつ、穏やかな笑みを浮かべて小さく首をかしげていた。
「あっ、ちょっと醤油を買い忘れて……」
「……ああ、今日のおかずはほうれん草のおひたしですか。美味しそうです。なるほど、それは醤油が要りますね」
納得した様に頷き、
「私でよければ、ちょっと車を飛ばして買ってきても良いのですが――」
と、言いかけた所で、ドタバタと大慌てで階段を駆け下りてくる足音が廊下に響き、足音の主は葉月の背後で急ブレーキをかけた。
「ダメダメダメ、ダメに決まってるでしょ! 葉月一人で行ったら醤油のつもりでめんつゆとか、ポン酢とかを間違って買ってくるのがオチなんだから!」
駆け込んできた朔海の顔を、咲月は直視できずに視線を葉月に向ける。
「ここは僕がやっておくからさ、葉月と行ってきなよ」
葉月の方ばかりを見ていた咲月は、そう言いながら葉月に意味ありげな目配せをした朔海に気付かなかった。
「では、お言葉に甘えて。……車を出してきますから、上着だけ持って来てください」
葉月は、にこやかな表情を崩すことなくあっさりと玄関へと向かう。
慌ててその後を追おうとした咲月は、つけっ放しのコンロの上の鍋と時計とを見比べて焦る。
「ああ、鍋は僕が見てるから。――行っておいで」
言われて、咲月はつい真正面から朔海の瞳を覗きこんでしまった。
濁りのない、澄んだ濃紺の瞳に灯る光が優しげに揺らめき、咲月の心もそれにシンクロするように揺らぐ。
――惹かれない訳がない。
これまであちこちを転々とし、幾度となく学校を移り、その分、同世代の男の子の知り合いは大勢いるが、彼ほど見目の良い男子など、見た事も無い。
それぞれの学校で一番カッコイイと人気のあった男子達だって、彼と比べたら明らかに見劣りするだろう。
そんなイイ男に優しくされて嬉しくない女子などいる訳がない。
……だから、分からないのだ。この揺らぎが恋なのか、恋じゃないのか。
咲月は、無理やり視線を引きはがし、
「じゃあ、お願いします」
軽く頭を下げて、パタパタとスリッパの音を廊下に響かせながら早足に玄関へと向かう。
バタン、と玄関の閉まる音。
次いで、車のエンジンの音が次第に遠ざかっていく音。
「――全く。本当なら、僕が一緒に行ってあげたかったのに」
一人、家に残った朔海は、コンロの火を止め、大きくため息をついた。