開く、トビラ。
――と。中から柑橘系のさわやかな香りが嗅覚をくすぐった。
「伊予柑が安いけど、どうする?」
赤いネットに包まれた果物を手に取りながら、朔海が振り返った。咲月の後から店内へ入った葉月は、
「そうですねぇ……」
と、少し考え、
「咲月くん、柑橘類は好き?」
前を行く咲月を呼び止め、尋ねた。
奥様方で賑わう店内で、チラチラとこちらを窺うような視線を幾つも感じながら咲月は、
「……嫌い……、じゃ、ない……です……」
ポツリと呟くように言った。
「よし、んじゃ一応買って行こうか。」
初めて答えを口にした咲月の反応に、葉月はニコニコしながら朔海の押すカートのカゴへ伊予柑を入れた。
「次は……ネギか?」
カラカラと車を押しながら、朔海が売り場を見回す。――が、彼の目には野菜しか映っていないらしい。
「咲月くん、すき焼きは水菜派ですか、それとも春菊派?」
尋ねる葉月の目にも――やはり、咲月と朔海以外、映ってはいない様子だ。
周囲に溢れる、浮足立った雰囲気。
……まあ、無理もない。これだけ目立つ容姿の二人が連れ立って歩いているのだ。
――細身の長身に、黒のビジネスコートを着こなす葉月の髪はハニーブラウン。華奢なフレームの眼鏡の奥で、人の良い暖かな雰囲気を醸し出す、薄茶色の瞳。
……一方の朔海も、背丈こそ葉月にまだ頭一つ半程及ばないものの、その濃紺の瞳と艶のある漆黒の髪色に良く映える白いジャケットを、紺のアンダーシャツの上から羽織り、下に穿いた黒のスラックスが、その長い脚をより強調している。
そして、何よりも特徴的なのがその白い肌。
葉月も朔海も、男だというのに、周りに数いる女性達の誰よりも白く艶やかな肌をしているのだ。
そんな日本人離れした美形の後ろにくっついて歩く、大きすぎる男物の紺のダッフルコートに身を包んだ咲月に、容赦ない嫉妬の視線が突き刺さる。
「あの……、すき焼きって、普通何を入れるものなんですか?」
気まずげに瞳を泳がせる咲月から、逆に問い返された葉月は目を丸くする。
「……あれ、咲月さんて、もしかして関西の人? そういえば、確か関西では砂糖醤油で肉を焼くんだよね?」
一方の朔海は思案するように言った。
「ええっ、何ですかそれ? すき焼きは、割り下でお肉とお野菜とお豆腐と……その他色々な具材をグツグツ煮込んで卵に絡めて食べるモノでしょう!?」
ショックを受けた様な葉月に、
「料理ってのは、全国一様に同じ仕様とは限らないんだよ。ほら、うどんだって地域によって麺やつゆが違うだろう?」
「……朔海君、詳しいですね?」
「……、まぁ、ね。……じゃあ、料理の味付けとかも関西風の味付けにしたほうが良かったりするのかな?」
と、視線を咲月へと向けながら、朔海は問いかけた。
「あ……、の、確かに私、関西に居たこともあったけど……、土地の味付けに馴染むほど長いこと居たわけじゃないから……っ」
そんな二人の会話に、咲月は慌てて割って入った。
「それに……、どっちにせよ私は食べたことないんで……だから、……あの、」
――が、言葉が続かない。消え入るような声で呟いた彼女の申告に、
「え、すき焼き初めて? ……そうか、じゃあ水菜でいこうよ。春菊もいいんだけどね、クセがあるから好き嫌いが結構分かれるし」
朔海はそう言って、積まれた水菜をいくつか手に取り見比べると、一番良さそうなものをカゴへと放り込んだ。
「……その癖のある味が、大人の味わいなんですがねぇ」
「葉月、自分の言った言葉には責任持ってよね。今日の鍋奉行は咲月さんなんでしょう? で、肉はどうするのさ。野菜ももちろん大事だけどさ、どんなにいい野菜を揃えたって肉が硬くちゃ、すき焼きとしちゃサイテーの部類になっちゃうじゃん」
苦笑しながら呟いた葉月の言葉を完全無視して、百グラム当たり千円の和牛のパックを手に取る朔海に、葉月は苦笑を柔らかな微笑みへと変え、
「……朔海君がお肉代を持って下さるなら、お好きなお肉をどうぞお好きなだけお買い求めくださいね?」
その表情とは裏腹にまるで斬るような声音で釘を刺した。
「葉月! ……僕がこっちのお金、そんなに持ってないの分かってて! ……後払いじゃダメ?」
「――ダメです」
和気あいあいと、くだらない言い争いを繰り広げる二人の後ろで、咲月はふと朔海の言葉に、
「……?」
と、首を傾げたが――
「咲月くんはお肉どの位食べます?」
――と、葉月に声をかけられて、
「っ! あ……あのっ、そんなにいっぱい要りませんっ……!!」
見れば彼が五つも六つもパックを抱え込んでいて。ギョッとした咲月は慌てて叫んだ。ふと頭に引っかかった疑問はその拍子に頭の隅へと追いやられてしまう。
「遠慮しなくていいんだよ?」
「……朔海君。お金を払うのは私なんですよ? 忘れないで下さいね?」
「でも、実際に作るのは僕じゃないか」
呆れたように言う葉月にそう切り返した朔海は、ササっと咲月のすぐ隣へ立って口元へ手を当てコソッと耳打ちした。
「あの人ね、料理の腕はサッパリだから」
「朔海君、聞こえてますよ?」
「でも事実だろ? 僕は親切のつもりで言ったんだけどね。だって……真実を知らないまま葉月の料理を口にしちゃったら――」
ぶるるっ、と大げさに震える仕草をしてみせながら朔海は、
「あ、でも大丈夫だよ。ちょくちょく遊びに行っちゃ葉月の家でご飯作ってるの僕だからさ。」
自信満々の微笑みを咲月に向けた。
「……」
どう返したものかと戸惑う咲月の後ろで、失礼な、とぷんすか拗ねる葉月。
「……ま、大方の材料は揃ったけど……ついでに飲み物とかも買って行ったほうがいいんじゃない? 今朝見ただけじゃお茶しか入ってなかっただろ、冷蔵庫の中。」
朔海も葉月も、周囲の主婦らに混じりながらも容姿以外の違和感がない程慣れた様子でガラガラとカートを押しながら、店内を巡り歩く。
「……結構な量になりましたね。朔海君、荷物持ち頼みますよ?」
「分かってるよ。んじゃレジ行く?」
「そうですね……ああ、そうだ咲月くん」
カートを押す朔海の後ろを歩いていた葉月がコートのポケットの中をゴソゴソと探りながら言った。
「ああ、あった。咲月くん、悪いのですが先に車へ戻ってトランクの鍵を開けておいてくれませんか?」
財布と一緒にとり出した車のキーを咲月に渡す。
「あ……、はい」
渡されたキーを、少しホッとしながら咲月は受け取った。レジ周辺は店内の何処よりも混雑していた。彼女に刺さる視線は刻一刻と確実に数を増してきている。
「じゃあ、よろしくお願いしますね」
ぺこりと軽く頭を下げてから、早足にその場を離れ、店舗の外へと急ぐ咲月。
「――やっぱり細いよなぁ……」
立ち去る彼女のその後ろ姿を見送りながら、朔海がポツリと呟いた。
「そうですね……随分と肩身の狭い思いをしていたようですから……」
車に乗せた彼女の鞄の様子を頭に思い浮かべながら、葉月は言った。
「白露、ありがとうな。僕の我儘を聞いてくれて……」
とびきり情けない表情をする朔海。
「こらっ、朔海君! こちらの世界でその名を呼ぶのは止めて下さいといつも言っているでしょう? ……彼女の事は、私にも責任がありますからね。できる限りの事はさせていただきますよ、王子」
「……ああ。……感謝する」
お返しとばかりにわざと口にした禁句にも反応を見せない彼に苦笑しながら、葉月は彼の頭をポンと軽く叩いた。
――そうして待つこと、数分。会計を済ませ、店を出てきた二人を窓越しに振り返り、咲月は思った。車までそう遠くないとはいえ――カートに入れて持ってくればいいのに……。
飲料や調味料といった重たい水モノも結構な量を買い込んだのだから、荷物はかなりの重量があるはずなのだが、彼等は大量の買い物袋で両手をふさがれながらも、それを涼しい顔で持ち歩いているのだ。さらに朔海は、車のトランクを開けるため、僅かな間ながら両手いっぱいに下げていた袋を左手一本で持ち上げるという離れ業まで披露した。
「ああ、良かった。暖房かけておいてくれたんですね」
運転席に乗り込みながら、葉月は咲月に微笑む。助手席に座る咲月は顔をほんのりと赤らめ、マフラーに顔を埋めた。
「……近頃はだいぶ日が伸びてきたと思ったけど、まだ日の入りは早いね。もう月が明るくなり始めてる」
朔海は、後部座席へと潜り込みながら、空を見上げて言った。
「ふむ。今宵の月もまた一段と美しいですね――」
「――咲月くんには敵いませんが……とか続けない方がいいと思うよ、葉月」
車窓を流れて行く街の景色の中、追いかけてくる月を横目に眺め、キザなセリフを吐こうとした葉月の言葉を途中で遮り、
「あのね、咲月さん。……この人ね、もういい年なのにこういうキザでサムいセリフを平気で連発するんだよ。料理をはじめ家事はまるでダメだし、朝も弱いし、言葉遣いにも突っ込みドコロ満載の男なんだけどね――」
バックミラーに映り込む咲月の瞳を見て微笑んだ。
「――すごく、いいヤツだから」
「……朔海君、そう言う貴方も十分キザだと思いますよ?」
口元を微妙に引きつらせながら、
「ねえ?」
咲月に同意を求めつつ葉月がやり返し、話を振られた彼女は視線を自分の首に巻かれたマフラーへと落とした。
「朔海君の場合、天然だから無自覚なんですよねぇ……」
市道から一本入った私道の丁字路を左に折れてすぐの突き当たりで車を止め、葉月はエンジンを切る。
窓から外を窺うと、もう一本先の道の向こうはどうやら住宅街のようで、大小様々な二階建て住宅がいくつも立ち並んでいる。
――が、その建物は、そんな街並みとは趣を異にしていた。都心ならば一軒家が三軒は並んでいそうな広さの敷地に建てられた、二階建ての建物。表の玄関には大きく金色の文字で『双葉外科』と書かれており、そのすぐ左隣に少し小さめに、『夜間診療専門』と白い文字で書かれていた。
「……お医者さん……、なんですか?」
「ええ、まあ……。あんまり儲かってはいないんですけどね……」
道が袋小路になっているのをいいことに、車を道に停めたまま、荷物を全て朔海に押し付けて、アプローチの石畳を踏みしめ建物の裏手にある自宅側の玄関へと咲月を導いた。
「荷物は後で部屋へ運んでおきますから。……夕食の支度が整うまでシャワーでも浴びてきます?」
脱いだ靴を揃え、コートについた砂埃を払いながら、
「ちょっと駅まで出かけて、帰りにスーパーへ寄っただけでこれですからねぇ……」
玄関先にできた砂だまりを見て、彼は苦笑いをし、
「着替えてさっぱりしてから食事にしましょう。ああ、大丈夫。食事の準備は全部彼がやってくれますから」
パンパンに膨れて今にも破れそうな袋を両手にいくつも抱えて現れた朔海に、葉月は満面の笑みを向けた。
「んー? 何の話?」
突然話を振られた彼は、問うような視線を葉月へ向ける。
「私は、咲月くんを部屋に案内して、湯殿の使い方を説明して来ますから。――朔海君、後よろしくお願いしますよ?」
「え? あ、ああ……?」
まだ話の内容をよく呑み込めていない朔海が、曖昧な返事をする。
「え……でも……」
「今日は、強行軍だったんでしょう? ……自覚は無くても、体は疲れているはずです。きちんと休養を取らないと、身体に良くないですよ?」
ためらう様子を見せた咲月に、葉月は柔らかな口調で静かに諭す。
「そうそう、それにこの寒い中ずっとあんな恰好で外を歩いてたんでしょう? ちゃんと芯から体を温めないと、風邪ひくよ?」
葉月の言葉に、朔海も同意するように頷き言った。
「――だけど葉月? あんたは用事が済んだら当然、手伝ってくれるんだよね? 料理に関しちゃ勿論僕がやるけどさ、ガス台出したり皿並べたり位はできるだろう?」
「私もシャワーを浴びて、サッパリしてから食事にしたいのですがねぇ……」
「埃が気になるなら、着替えてくればいいじゃないか。ちょっと駅まで行っただけだろう? 身体を冷やしたんじゃないなら、それで充分だろう?」
朔海にジロリと睨まれ、がっくりと肩を落として溜息をつく素振りをしながら、
「――朔海君も、キッチンに立つ前に着替えた方がよさそうですね」
朔海の足元にうっすら積った砂粒を見て葉月が言う。
「朔海君。着替えはいつもの所に置いてありますから」
玄関先に並んだいくつもの袋のうち、一番軽そうな袋を右手に一つ、左手に一つ選んで手に取り、
「さあ、行きましょう――咲月くん」
複雑な表情で俯く咲月に声をかける。
「……」
戸惑う瞳で葉月を見上げ――後ろで微笑んでいる朔海に視線を移し――咲月はマフラーに顔を埋めて小さくうなずいた。