受け止めるべき真実の欠片(1)
「よう、坊ちゃん。調子はどうだい?」
咲月が手洗いへと立った隙に、コタツの上のチェスセットを手早く片付け、コタツを端へと退け、いそいそと彼女の部屋を立ち去ろうと、一杯一杯の頭を抱え、心ここにあらずといった様子のまま扉の取っ手に手を伸ばした朔海は、背後から掛けられた声に思わず飛び上がった。
「わっ、わ、わ、わぁ!!! ……っ、あ、あぁ、びっくりしたなぁ、もう。 ……て、あれ、青彦か? ったく、いきなり背後から声掛けるなよ、驚くじゃないか……。というか、お前、いつから居た?」
ただでさえ乱れがちだった脈拍がさらにリズムとテンポを狂わせ、高鳴る心臓の鼓動を、無意識に胸へと当てた掌に感じながら、朔海は大きく一つため息を吐いて振り返り、尻尾を自慢げにくねらせながら愉快そうな笑みを浮かべた彼を見下ろした。
不機嫌そうにしかめられた朔海の顔を見上げる青彦は、浮かべた笑みを更に深めた。
「おいおい、俺の気配にも気付けなかったって? どんだけ一杯一杯なんだよ?」
「……当たり前だろう」
口をへの字に曲げ、朔海は改めて扉の取っ手に手をかけ、引き戸を開け、廊下へ出た。
天井に一つ、ポツンと小さな電球が灯るだけの薄暗い廊下の向こうから、極力音を立てまいと静かに扉を押し開ける微かな物音が聞こえる。
朔海は慌てて扉を閉め、すぐ隣の扉を開けて部屋の中へと駆け込み、勢いのままベッドへとダイブした。
咲月が隣室の扉を開け、また静かに閉める音を聞きながら、朔海は寝返りを打った。真っ暗な部屋の中で天井を仰いだまま、朔海は手探りでチェストの引き出しを開け、ごそごそと中を探る。
「……待て。お前、まさか……もう渇いているのか? 今朝飲んだばかりだったろう?」
目当ての物を探り当て、掴みだしたそれを見た青彦はそれまで浮かべていた笑みを消し、顔を僅かにしかめた。
「刺客とやり合ったせい……じゃあないよな。さっきは確かに平気な顔してたもんな」
パックの口をくわえ、行儀悪く噛みちぎりながら、朔海は苦笑いを浮かべた。
「まあね、あの程度の肉体労働じゃ、こうはならないさ。けど、ここのところ、過酷な頭脳労働を強いられる場面が多くてね」
寝転がったまま、一口その中身を口に含んで飲み下し、渋い顔をする。
「こんな――」
ポツリと小さく呟いて、再びパックを咥え、力任せにそれを握りつぶした。パックの口からどっと中身の血液が一気に口内へとなだれ込む。口いっぱいに広がる血の味をゴクゴク飲み干し、空になったパックを乱暴に投げ捨てた手で顔を覆う。
「……こんな、おぞましい化け物のくせに」
ギリギリと力いっぱい歯を食いしばり、呻く。
「まさに文字通り……ってね。僕は……とんだ人でなしだったみたいだよ……」
シャラ、と、手首に着けたムーンストーンのブレスレットが重力によって僅かに滑り落ちる音が朔海の鼓膜を震わせた。
葉月が、朔海の心臓を流れる血を得たならば、半吸血鬼である己の血肉を純血の吸血鬼のそれへと昇華する事が出来る。
「……純血、と言ったって、ただそれだけでは特に価値のあるものじゃあない。単に、人の血の混じった半吸血鬼ではないというだけの話だ。」
純粋な日本人であるか、それとも異国人との混血か。話としては、本来それと大差ないはずの事。
「だが、吸血鬼と言う生物の性質上、それが単なる区別以上の違いを生む」
「……ああ。――吸血鬼の魔力は、血に宿る。純血と半吸血鬼に、肉体的な差異は無いに等しい。あったとしても、あくまでそれは個人差の範囲だし、場合によっては半吸血鬼の方が純血より優っている場合すらある。……決定的な違いは、その血に宿る魔力の総量」
「……信じられないかもしれないけれど、ね。彼ら吸血鬼という種族は、元はこちらの世界に生息していた生物の一種だったのよ」
……部屋の明かりを消した暗闇の中、布団にくるまった咲月の耳元で、紅姫が囁いた。
「……え?」
「血を吸う生き物なんて、そう珍しくないでしょう? 蚊なんか、夏になればいくらでも湧いてくる。山に登ればヒルなんていっぱいいるし。……まあ、どれもこれもあまり歓迎される類の生き物ではないけれど」
頭を乗せた枕を両手で抱くようにうつ伏せに寝転がり、まだ闇に慣れ切らない目を、声の聞こえる方へと向ける。
「……ただ、彼らの種族は単なる栄養源として吸血行為をしていた訳じゃない。一般に、彼らの種族の存在が知られていない理由も、その為よ」
「……じゃあ、何のために血を吸っていたの?」
「彼らの種族は、面白い習性を持っていた……。その時代や地域で食物連鎖の頂点に立つ生物の血液から、その遺伝情報を己に取り込み、その姿や能力を自分のものとする事で生存競争に勝ち残ってきた種族だったの」
彼らの種族は昔から、世界中の至る所に存在していた。しかし、彼らはそれぞれまるで違う生き物の姿を模していた。
たとえ当時の彼らが化石になって発見されても、彼らが真似た生物の化石だと思われるだけ。変幻自在の吸血生物であった彼ら。
「十数万年前、ホモサピエンスと呼ばれる、今の人類が全世界に分布するようになった頃から、彼らはヒトの姿で、人間達のすぐ隣で生きていたのよ」
だが、その当時の彼らと、今現在に存在する彼ら一族――朔海達とは決定的に違う事がある。
「彼らは、他生物の血を吸うことで変幻の能力を使った。……けれど、当時の彼らの個体寿命はせいぜい数十年から百年に満たない位……、そう、人間と大差ない程度の寿命しかなかった。……何より、魔力なんて持っていなかった」
「……吸血鬼の持つ魔力。元をただせばそれは、悪魔から借り受けた魔力だ」
数千年の昔。人類が文明を持つようになった頃。――地域により、その定義にかなりの差異はあったものの、いわゆる「神」たる存在と、それに対を為す「悪魔」といった存在への信仰が確かな形を持ち始めた頃。
「僕らの祖先の一人が悪魔と契約を交わした。……実際の契約内容とか、詳しい事は伝わってないけど。結果として、悪魔から譲り受けた魔力を心臓に宿し、血液を通して全身へと回し、それによって驚異的な身体能力と、簡易的な魔術を操る術を持った一族が現れた」
当然、ごく普通の人間とほぼ同等の能力しか持たない同族たちがその彼らに生存競争で勝てるはずもなかった。
……しかし、彼らの驚異的な能力も、元は悪魔の――闇の力である。
「本来、この地上に現実としてあるはずのない種族から受けた力は、確かに圧倒的な力を僕達一族に与えた。……けれど、その代償……とでもいうべきなのか……僕らは太陽の元を堂々と歩けなくなった」
実際、身体中を流れる魔力を含んだ血液は、日光に対し激しい拒絶反応を起こす。
「そして血の持つ性質により、生来の生存本能に基づく競争意識をはるかに逸脱した、好戦的な性質を持つようになった……」
「そのせいで、こっちの世界で生きづらくなった吸血鬼達の大半は、あちらの世界――魔界へと移り住んだ……。朔海様は、その一族の血に連なる一人」
「……好戦的?」
紅姫の口から語られたその言葉を耳にした咲月は怪訝な顔をする。
ほんの数日分しかない彼との記憶をさらってみても、あまりにそぐわない表現である。
「朔海様が、例外なの。それも、極々僅かな例外……」
「争い事が嫌いで、血を得るための狩りすら躊躇する様な腰抜け……。生まれ持った血と、背負った地位だけが立派な“綺羅星”。……なんて、今まで蔑まれてきたけど」
目を閉じ、口元に皮肉な笑みを浮かべる朔海を、青彦は静かな眼差しで見上げる。
「何を犠牲にしても、傍に置きたい……と……、そう思う……。僕は……」