ポーンと女王(クイーン)
――どうして、こんな事になったんだろう……。
素朴な木材に繊細な細工の施された16個の駒を、向かいに鎮座した朔海の手元と見比べながら、彼の陣地に並べられた駒と対称になるように並べてながら、咲月は考えた。
「あ、ちょっと待った。えっと、言い忘れてた……。日本の将棋と違ってね、駒は対称の配置にはしないんだよ。……って言っても、キングとクイーンの位置だけの話だけど」
先日購入したコタツの上に置かれた白黒市松模様のチェスボードの上に並ぶ、白と黒の32個の駒。
「えっと、じゃあまず基本的なそれぞれの駒の動きから……」
自陣の右端のルークをつまみ、ボードの中央に置く。
「これはルーク。“城”って意味なんだけど……そうだね、動きとしては将棋の飛車と同じでね、縦横にどこまででも進める」
彼の説明に、耳を傾けるフリをしながら、咲月は思い悩む。
――どうして、こんな事になったんだろう……?
適当に崩した足の上では、小さく丸まった白い猫が一匹くつろいでいる。
ふと、視線を落とすと、彼女は小さな牙を見せつけながら大きなあくびをした。こんな姿でも、彼女は元は歴とした人間の少女だったと言うのだ。
……しかも。
「次に、この馬の形の駒がナイト……つまり、騎士だ。これが、ちょっと特殊な動きをするんだけど……」
ルークを引っ込め、次にナイトを中央に引き出し、説明を続けるこの彼は、なんと三百歳の吸血鬼だというのだ。
……衝撃の事実を、出来る事なら一人じっくり噛みしめ、消化・吸収するだけの時間が欲しかった。
「で、これがビショップ――僧侶だ。これは将棋の角と同じで……」
紅姫の話だって、まだ途中なのだ。……まさに、物語の一番良い所で「次巻へ続く」の文字を目にした時の様な気分。
それに。
――……行かないで。……頼むから……逃げていったり……しないで……。
彼がこぼした独白は、未だ生々しく耳に残っている。
何故彼は、あんなにも辛そうだったのだろう?
彼が真実、吸血鬼であるとしたなら……「逃げないで」と言う意味は分かる。
本当に吸血鬼なんてものに遭遇したなら、たいていの人間は恐れおののいて一目散に逃げ出すだろうから。
でも、辛そうに吐き出された「行かないで」の言葉には、ついこの間まで忌避され続けて来た咲月が感じていた拒絶される心の痛みに似た痛みが詰まっていた気がする。
「これがクイーン……女王。このゲームで最強の駒だ」
彼が吸血鬼だとして。――吸血鬼が実際にはどういった生き物なのか、まだ聞いていないけれど。
よくある、ありきたりなファンタジー小説ではほぼ確実に人間を超越した数々の能力を有した生き物、という事になっている。
「そして、これがポーン、兵隊……将棋で言う歩兵だ」
そう、将棋の駒に例えるなら彼はクイーンで、咲月はポーンといったところだろう。
……そんな彼が、どうして咲月に拒絶されることをあんなにも恐れるのだろう?
疑問は、尽きることなく次から次へと湧いて出てくる。
今にも許容量をオーバーしそうな頭の片隅で、必死に駒の説明に耳を傾けつつ、咲月はまだ少し熱を孕む髪を指で梳いた。
するりと指通りの良い髪が、さらりと流れる。
今までの手入れの悪さは隠しようもないが、一週間続けたトリートメントの効果は覿面だ。
咲月は、すぐ目の前にある朔海の綺麗な顔を改めてまじまじと眺めた。
「基本的には前に1マス進めるだけなんだけど……一番最初の定位置から動かす時だけ、2マス進めるんだ……けど……、えっと、どうかした?」
彼女の視線に気付いた朔海はそわそわしながら尋ねた。
――どうして、こんな事になったんだろう……?
そう思っていたのは何も咲月だけではなかった。
「え、いえっ、何でも……」
パッと慌てて視線をそらした咲月に首を傾げつつ、朔海は駒の説明に集中しようと一生懸命だった。
ドクバク暴れる心臓の鼓動。耳に木霊する葉月の言葉。ちょっと手を伸ばせば触れられる場所にいる咲月。ついさっき触れた、彼女の髪の感触。ぐるぐる頭をかきまわす欲情。
――どうして、こんな事になったんだろう……。
髪だけ乾かしたら、すぐ解放するつもりだったのに。
……チェストの引き出しにしまってあったはずのチェスセットが、何故かチェストの上に出しっぱなしになっていて。
それに。
朔海は、咲月の膝の上に居座る紅姫を軽く睨みつける。
一体、どうして紅姫が咲月の傍に居るのだろう?
何か、下手に粗相でもして正体がバレでもしたら笑いごとでは済まないのに。
「………………」
ふと、会話が途切れる。
「……で、あとは……入城って、ちょっと特殊なルールがあって……」
お互いの息使いと時計の秒針の音。それらを除き、殆ど無音の部屋の中、漂う微妙な空気に耐えきれず、朔海は必死に言葉を継いだ。
「……で……、一応これで一通りのルールは説明したと思うんだけど……」
微妙に歯切れの悪い彼のセリフに、咲月の膝の上に居座ったまま、紅姫がため息にも似たあくびを繰り返す。
「まあ、駒の動かし方を覚えただけじゃ、この手のゲームは面白くないから。後は練習次第……ってとこだね」
ちらりと、背後の時計に視線を向ける。
「今晩はもう遅いし……続きは明日にしようか?」
その、朔海の申し出に、咲月はホッとした様に頷いた。
「……はい。すいません、こんな時間まで」
時計の針は、いつの間にか天辺を通り越していた。――もうじき、“草木も眠る”時間だ。
ギクシャクと、ぎこちないお辞儀を繰り返しながらいそいそと部屋を出る。
――正直、挙動不審といっても過言ではなかっただろうが……そんな彼女の挙動を一々気に留める程の余裕は、朔海の方にもありはしなかった。
お互い、自分の事で一杯一杯だった。
……咲月の膝から滑り落ちた紅姫が、スッと閉じたままの部屋のドアをまるで幽霊か何かの様にすり抜けた事も、それを確かに目にしたはずの咲月が驚いていなかった事も、彼女が部屋を出て行くのと入れ替わりに、青彦がするりと部屋へ入って来た事も、朔海はその目で確かに捉えながら、まったく気づいてはいなかった――。