独白
「お風呂あがったの? ……って、あれ? 紅姫?」
そそくさと寝巻きに着替えて廊下に出ると、玄関の開く音がして、間もなく朔海が廊下の角から姿を現した。
……三百歳――。
たった今聞かされたばかりの衝撃の事実がまだ上手く消化できずにいた咲月は、いきなりの遭遇に言葉も無く、ただこくこくと頷くしかない。
だが、咲月の心の内の事情など知る由もない朔海は、彼女の足元の白猫を不思議そうに眺めた後で、水滴の滴る咲月の髪へと視線を移し、
「あー、また……。いい加減な乾かし方をして……」
と、眉をひそめた。
「あっ、えっ、その……」
混乱した頭では、釈明しようにも上手く言葉にならない。
「…………」
一拍、そんな咲月をジッと黙って見ていた朔海だったが……
「え、ちょ、あ、え!?」
少々強引に咲月の手を取り、つかつかと階段を上って二階へ上がる。
「ド、ドライヤー、を……部屋に、忘れて、来た、だけ……なん、です、け、ど~!」
……これではまるで、先週の再現だ。
しかし、今、あのシチュエーションに耐えられるだけの心の余裕は――皆無だ。
咲月は必死に逃れようと叫ぶが――
「……行かないで」
ギュッと、繋がれた手が痛いくらいに握りしめられる。
「……頼むから……逃げていったり……しないで……」
――そして、小さく呟かれた、声にならない言葉。
ぽそりと、声帯をすり抜けた空気が辛うじて口腔内で言葉になり、こぼれ落ちた彼の心の叫び。
いくら静かな家の中とはいえ、普通であれば余程注意して耳を傾けていない限りはまず聞き逃してしまうであろう、小さな叫び。
――だが。
こぼれた言葉はほんの僅かではあるが、確かに空気を震わせた。
……そして。
咲月は、これまで空気を読む術を必死で磨き続けてきただけあって、どんなに些細であっても、その変化には敏感に反応する。
酷く辛そうに呟かれた彼の独白を耳にした瞬間、咲月は無意識のうちにフッと全身の力を抜いていた。
――彼の叫びは……これまでの自分にとってあまりに身近にありすぎたものだったから。
ふと、抵抗を止めた彼女に朔海はホッと心の中だけで安堵のため息をつきながら、背後の彼女を振り返り、ジッと何かを見定めようとする彼女の真剣な眼差しとカチ合い、彼の心臓は一拍、大きくドクンとはねた。
ふわりと漂ってくるカモミールの香りが、鼻をくすぐる。
それは、ショッピングモールへ買い物へ出向いた際の事。何を買うにも、まず値札に目をやり、一番価格の低い商品しか手に取ろうとせず、値段以外の何一つ気にしようともせずに購入しようとする彼女に代わって選んだシャンプーとボディソープの香り。
甘い、リンゴに良く似た香りが、葉月に迫られた決断に揺れ動く心を心地よく均していく。
――彼女の全てを一生かけて背負う……それだけの覚悟を決められるだけの何かが、貴方が今彼女に向ける感情にありますか?
まだ、遠慮がちな態度は抜けきらないが、それでも彼女の朔海に対する態度は好意的なものである――勿論、そういった意味は含まぬ“好意”ではあるが……。
――彼女の傍に居たい……。
今、朔海にあるのはただそれだけの、実に単純明快な願いのみである。
それが、どういう類の想いかなんて……。
「あの、一つお願いがあるんですけど」
互いの目を見つめあったまま固まっていた空気を、そう言って先に破ったのは咲月の方だった。
「……今度、チェスを教えてくれませんか?」
「――え?」
「この間、葉月さんに聞いたんです。よくチェスをやるんだって。でも、私チェスのルールをよく知らなくて……。だから、今度チェスを教えてもらえませんか?」
まるで、決死の覚悟を決めたかのような必死な表情で彼女は言った。
「UNOやトランプは、2人じゃ面白くないから。そう言って、葉月さんが碁盤と将棋盤を出してくれんたんですけど。でも、あなたは、チェスの方が得意だって葉月さんが……」
突飛な発言である事は、彼女自身気づいているのだろう。
普段なかなか感情を表に出さない彼女には珍しく、風呂上がりでほんのり赤かった頬を更に朱に染め、あわあわと必死に言い繕う姿がなんだか可愛くて、朔海も表情を緩め、
「ああ、いいよ。ちょうどしばらくの間居候させてもらう事になった訳だし」
自分の呟きに、彼女が気付いた事に気付かず答えた。
「……でも、その前に髪を乾かすのが先だよ」
言われて、咲月はハッとして一瞬固まった。しまった、墓穴を掘った。
しかし、あの苦しげな訴えを聞いてしまった上、自らの頼みごとを快く引き受けてもらった今、自分の手を包みこむその温もりを振りほどく事は――出来なかった。