全てを受け止める覚悟
咲月は、その瞳と見つめあったまま、思考を停止させた。
つぶらな金の瞳の奥の、キリリと縦に引き締まった瞳孔が、ジッとこちらを見上げてくる。
――今のは、空耳だろうか?
……あの凄まじい悲鳴も尋常ではなかったが、猫が喋っただなんて、異常以外の何物でもないだろうが……しかし、この猫が喋るのを聞いたのは2度目である。
この間は、夜、寝る前だった事もあって、寝ぼけたのだろうという言い訳もできた。
……咲月は、試しに自分の頬を思い切りつねってみた。
「いっ、痛っ」
……どうやら、夢ではないらしい。
先日の朔海の様子を考えてみても、彼は明らかに何かを隠そうとしていた。
「……それは、私が聞いてしまっても良い事なの?」
あの晩から、ずっと気になって気になって仕方のなかった事だ。しかし、その好奇心に負けてこの居心地の良い居場所を失いたくはなかったから。
「葉月には、止められてるわ」
「……なら、私は聞かな――」
「けれど、私自身は貴方に全てを話すべきだと思ってる」
自分の欲求を制御する術にかけては、長年磨きをかけてきたのだからお手の物である。
しかし咲月が、彼女の答えを聞いて、頭を左右に振りながらそう言いかけるのを、彼女が遮った。
「葉月と、王子の――朔海様のお命に、危機が迫っている。……現状を打破するためには、どうしても貴方の力が、必要不可欠なのよ」
「…………え? ……命の……危機?」
平穏に、ほのぼのした団欒をついさっきまで楽しんでいたはずのところに突然出てきた不穏な言葉に、咲月は一瞬ポカンと呆けた表情を見せたが――
「あっ、そうだっ、さっきの悲鳴!」
「……心配要りません。すでに青彦が出ていますから、じきに終わるでしょう」
慌てて部屋を飛び出そうとする咲月を、紅姫は再度留めて言った。
「終わる……? 何が……?」
「――気になりますか?」
そして、再びの問いを投げかけた。
「人語を喋る猫を前にすれば、たいていの人間は、自分の知的好奇心を満たそうと目の色を変えるか、異常な恐怖心を煽られるか、現実逃避をして完全に無視する。でも、貴方は違うのね」
「……一応これでも十分驚いてるつもりなんだけどな」
「それは、当然でしょう。でも、貴方は本来異常といってもいいこの状況で、大して取り乱しもせず現状を受け入れている。私が貴方に望んだ以上の資質をそなえているわ」
確かに、たまに本屋で立ち読みしたファンタジー系の漫画や小説では、こういった場面に出くわした主人公の9割方はまず現実逃避に走るのが通例だった気がする。少なくとも、いきなりこんな風に普通に会話を交わすなんて展開には覚えがない。
まあ、それはそうだろう。ああいう類の主人公は大体が、普通の家に生まれて、普通に育った、普通の少年少女であり、こういった事象に出くわす直前までは、普通に幸せな生活を営んでいる場合がほとんどだ。
一般常識内の日々が当たり前だった人間が、いきなり一般常識外の事象に出くわせば、それはパニックになるのが当然というものだろうから。
そして、それを読むであろう読者の大半は、やはり主人公同様、普通の家に生まれて、普通に育った、普通の少年少女だ。主なターゲットである彼らが主人公に感情移入するには、やはり近しい感性を持ったキャラクターが望ましいのに決まっている。
世間様の冷たい風に揉まれ、翻弄され続けたお陰で、何もかもどうでもいいと思ってしまえる程、ある種の達観に至るような、極々少数派であろう自分のような主人公が、特にリアクションも無く淡々と流されていく物語など、つまらないに決まっているのだから。
――でも。
「そりゃ、気になるよ。逃げたくなったり、退治したりしたくなるようなあの人たちの正体って何なんだろうって。でも、知らなくて良い事も世の中には確かにあるの。……余計な事を聞いちゃったばかりに、この居場所を失うのは嫌。それに何より、……私なんかに、優しくしてくれるあの人たちを裏切るような事、したくないから……」
――だけど。
「ねえ、さっき、命の危機がどうのって言ったよね? 最近あの人が来ないのって、そのせい――?」
――だとしたら。
咲月の問いに、紅姫は無言で頷いた。
「――……っ」
「葉月が貴方に何も話さないのは、自分の事情に貴方を巻き込みたくないと思っているから。朔海様も……そう思っているから、何も言わない。確かに、全ての事情を知れば、貴方はもうこちらの世界との縁を切る事は出来ないでしょう。けれど、皆が皆、そうやって足踏みを続けるだけでは何も変わらない……。だから、私は私の責任で貴方に事情を話すの」
言葉を失った咲月に、
「保障するわ。貴方は、私が勝手に喋った事を耳に入れてしまっただけ。その事実に関する責任は全て私が負う。この件で、貴方が心配している様な事には私がさせない」
紅姫はきっぱりと言い切った。
「全てを受け止める覚悟――。私が貴方に求めるのはそれだけよ」
――そう、この居心地の良い場所を失いたくないのだ。……あの二人がいるからこそのこの場所を。
「私、何の取り柄も大した特技も無いんだけど……、そんな私でも、役に立てる?」
「もちろんよ。だって、優柔不断で甲斐性なしのヘタレた殿方の尻引っぱたいて目を醒ましてやるのは、いつの時代でも女性の仕事と決まっているんだから」
自信たっぷりに、紅姫は笑って言った。
その言葉で、咲月の腹は決まった。
「――お願い、全部話して。あの人たちは一体何者なの? 今、何が起きてるの?」
「百聞は一見に如かず。……こちらへどうぞ」
紅姫は先に立って歩き出した。
「え、そっちは――」
入ってはいけない、と言われた診療所へ続く扉。
「大丈夫よ、入って」
その前で立ち止まり、紅姫は咲月を見上げて促した。
猫の身では、この扉は開けられないだろう。咲月はドアノブに手をかけた。一瞬、躊躇いながらもそろそろと扉を押し開く。
開けた扉の向こうは――薄暗かった。葉月が居るはずなのに、明かりが点いていないのだ。それでも、僅かに明るいのは、部屋の壁に幾つか取り付けてある扉の一つが僅かに開いていて、そこからオレンジがかった光が漏れているからだ。
紅姫は、その扉の向こうへと咲月を促す。
入るのを禁じられた場所で、見てはいけない物を見ようとしている緊張感で、心臓の鼓動が徐々に速まっていくのが分かる。
開かれた扉には薬品室と書かれたプレートが貼られていた。その扉の影に隠れながらそっと中を覗く。
この部屋でも、電灯のスイッチは切られたままだった。見ると、僅かに漏れていた光は、開けっぱなしの冷蔵庫の庫内灯のものだった。
そんな中、暗さに慣れない咲月の目にまず飛び込んできたもの。それは――
「……血液パック?」
テレビの医療ドラマ等で見かける、輸血用のパックの様だ。――実際にお世話になった事も無く、まだ16歳未満のため献血の経験も無いから、直接本物を見た事はないが……おそらくそうだろう。
ここは病院で、しかも外科医院なのだ。血液パックの1つや2つや3つあってもおかしくはない。……むしろ無い方が問題だろう。
……だが。
「何、この数……」
2ドア式で、上が冷凍庫、下が冷蔵庫という、中サイズの冷蔵庫。開いているのは下の冷蔵庫の部分の扉だ。デザインこそ無骨だが、家電量販店で普通に見かける家庭用冷蔵庫の中にパンパンに詰め込まれた、パックの山、山、山、山――。4段に仕切られた全ての段が血液パックで埋め尽くされている。
大した設備も無く、大きな手術も行わない個人医院――それも、夜間診療しか行わないこの病院で、こんなに大量の血液を消費するとは到底思えない。仮にストック用なのだとしても……やはり多すぎる。
ふと見ると、4段目の山が一部崩れている。少し慣れてきた目に、崩れて落ちたパックが床に散らばっているのが見えてくる。
更によくよく目を凝らしてみると、床中にそれが散らばっているその中に、黒い影が見えた。
「――葉月さん!?」
蹲る黒い影の正体に気付いた咲月は、慌てて扉の陰から飛び出し、彼に駆け寄った。
「葉月さん、どうしたんですか? 大丈夫ですか?」
慌てて身体を揺する咲月に、
「大丈夫、体力と気力を使い果たしたせいで、ちょっと気を失ってるだけだから。それより、悪いんだけどそこのスイッチを入れてもらえるかしら」
部屋の内側にある電灯のスイッチを前足で指して言った。
暗さに辟易していた咲月は、言われるままにスイッチを入れ――開けた視界に息をのんだ。
床に散らばるパックは皆封が切られており、中身が綺麗さっぱり無くなっているのだ。
「……………………………………………………………………………………………………………え?」
そして、蹲る葉月の口元についているのは――
「…………血?」
そう、まるで、サスペンスドラマで首を絞められたか毒でも飲まされて殺された人物の死体役でも演っているかの様に血で汚れた口元。
そして、だらりと床に投げ出された彼の右手に握られているのは、封の開いた血液パック――。
――中身は……半分無くなっている。
日本人にしては白くてきれいな肌だと思っていた。
広さの割に、窓の少ない家。
昼間でもカーテンを閉ざしたままの薄暗い室内。
夜間診療専門の医者。
大量の血液パック。
口元の血。
恐る恐る近寄り、血に汚れた口元を凝視するが、特に切れたりしている様子もない。
吐血した――という訳でも……なさそうである。
……と、すると。……これは。
「葉月は人間じゃないの。……彼は――」