闇夜の襲撃
この家へとやって来て、3度目の夜がやって来た。
今夜も診療所を開けるため仕事場へと続く扉の向こうへと消えたこの家の主、葉月だったが、随分と賑やかだった昨晩の事が嘘のように静かだった。
昨夜は度々診療所の玄関先へと入れ替わり立ち替わり車がやって来たのだが、今日は車どころか玄関先に近づく者すら誰一人いない。
窓にかかるカーテンを僅かにめくり、こっそり外を覗き見ながら、咲月はため息をつき、机の上に並べられた色とりどりの冊子へと視線を落とす。
1つは、バイト情報誌。1つは、お稽古やスクールの案内雑誌。さらにこの近隣の高校や専門学校の進学案内の冊子の束。もう1つ、自動車学校の案内もあった。
それらは全て、昼間、悶々としながらも当初の予定通り散策に出かけて見つけた近所の商店街で本屋へ寄って手に入れてきたものだ。
……近所、とはいえそこは田舎だ。片道だけで軽く2、30分は歩いた。一昨日行ったスーパーは確実に車なしでは遠すぎる。バイトをするにも、何をするにも、まずは足が必要だった。
だが、その度に葉月を付き合わせるには気が引ける。四輪車は18にならねば免許が取れないが、二輪車なら……、と思い貰って来たのだが……。
「ええ? 免許取るのにこんなにお金がかかるものなの!?」
料金表を見て仰天する。
更にスクールの案内、学校の案内……と順繰りに眺めてため息をつく。
「どれもこれも、なんでこんなにお金がかかるの?」
この世の中、後ろ盾を持たない人間にはとことん辛辣にできている事を、これまでの経験で嫌というほど己が身で学習させられてきた咲月は、ここで改めてそれを痛感する。
バイト情報誌をめくってみても、
「これは高校生不可、これも……、これもダメ」
……高校生、ではないけれど。
「やっぱりこの場合、18歳未満ってくくりになるんだろうなぁ」
渋い顔をしながら冊子を机の脇に積み上げ、咲月は布団の上にごろりと寝転がった。
――その頃、外では。
「ああ、やっと日が沈んだか……。他の連中と違って耐性があるとはいえ……、やっぱキツイな、向こうに慣れてた身体には」
星の輝く夜空を見上げながらぼやいたのは、どう見ても日本人とは思えない外見の男。
「全くだ。ちっとナメてかかりすぎた……。まさか日向に出た途端に眩暈がするなんてな。いくら相手が非力な人間の女子供とはいえ、こっちがふらついてりゃ話にならん。」
それに答えたもう一人の男も、やはり日本人ではないだろう。
「だが、忌々しい太陽は地平線の向こうに消えた。今、俺達の本領を発揮するのに邪魔なものは何もない」
見た目だけはいかにも貴公子然とした金髪碧眼の男が、微かに笑みを浮かべて言う。――黒い、笑みを。
「ターゲットは?」
初めの男に比べるといささか地味な、茶髪の男が、髪と同じ茶色の瞳を隣の男に向けて尋ねる。
「ほれ、あれだろ? 二階の、あの明かりのついてる部屋」
「――あの男は?」
「一階だろ」
「よし、俺が奴を足止めする。その間に娘を殺れ」
男たちは互いに頷きあい、隠れていた電柱の陰から素早く飛び出し、目の前の建物へと疾走し――
「おいおい、さっそくか?」
と、足元から唐突に聞こえた声にギクリと足を止めた。
「本当、いつになく迅速な対応ね。どうやら王家でも何か動きがあったみたいだから……、余程欲しくて堪らないらしいわね」
慌てて視線を落とせば、闇からすぅっと静かに姿を現したのは、白と黒の猫が2匹。
「今日は随分客入りが悪いと思ってたが、この調子じゃ――」
「ええ、こいつらにのされたんでしょうね」
「……こんな小物の雑魚にか? ったく、奴らなまり過ぎじゃないか?」
前と後ろ、男二人を挟むように立ち、二匹は会話を交わしながらジリジリと包囲を狭めていく。
突然掛けられた声に驚いた男たちだったが、その声の主がちっぽけな猫だったと知り、彼らは嘲笑の笑みを浮かべた。
「何だぁ、てめえら魔獣か? ……たかが獣の分際で、俺達一族に適うとでも思ってんのか?」
「――あんまり、自分の力を過信しすぎない方がいいぜ?」
黒猫――青彦の金の瞳が、その言葉と共に一瞬で、まるでサファイアの様なブルーに染まる。その、美しい瞳の光に思わず目を奪われたほんの僅かの間に、目の前から黒猫の姿が掻き消えた。
「!?」
反射的に後ろを振り返る――と、瞳をルビーの赤に染めた白猫――紅姫が小声で何やら呟いている。
と、首輪に下げた飾りが不意に青白い燐光を帯びた。
鈴か何かだと思っていたそれは、よくよく見ると何やらやたらと細かく文字や模様が刻まれている。
「うわ?」
臨戦態勢を整え、身構えた男たちの足元に、突如虚空が開けた。
男たちは、まるで落とし穴にでも落ちたように真っ逆さまに虚空へと堕ちていく。
紅姫は、何の迷いもためらいも無く、彼らの後を追って自らが開いたそれへと飛び込んでいく。
その後を追うように、青彦も続いて飛び込んだ次の瞬間には虚空の穴は消滅し、何事も無かったかのように以前と変わらぬ風景が残るのみ。
それまで耳を済ませ外の様子を窺っていた葉月は、外の喧騒が収まったのを知り、ホッと息をついた――直後、胸を撫で下ろした手で、掻きむしるように服の胸部を弄り、床に膝をついて苦しげにうめいた。
這いずるように、診療所に置かれた薬などを保管するための冷蔵庫を開け、輸血用の血液パックを1つ掴みだし、チューブを差し込むはずの部分をハサミで切り、口に咥えて中身を吸い出し、飲み込む。
脂汗をびっしりかいた顔を、白衣で乱暴に拭う彼の瞳は――煌々(こうこう)と、手にしたパックの中身のそれよりなお赤い、鮮血の赤い光を放っていた。
「――ここは!?」
虚空の穴へと堕ち、どことも知れない場所へと放り出された2人の男は、手ひどくぶつけた腰や鼻頭をそれぞれさすりながら、辺りを見回す。
まず彼らの目に飛び込んできたのは――
「……沼……、湖?」
薄く霧がかり、視界が悪い中、目の前に広がるのは透明度の高い綺麗なな水を湛えた湖。
「そんなのはどっちでもいいだろ」
その湖へと落ちてくる滝の水音にかき消されないよう、声を張り上げる。
「とにかく、ここはどこだ? 人間界? 魔界? ――天界、ってこたぁないだろうけど……」
「この、霧っぽい感じは次元の狭間みたいだが……」
「ああ、何か違うよな」
立ち上がり、尚も辺りを見回すが――。
「……どうする?」
「ここでじっとしててもしょうがねえだろ、辺りを探ってみよう」
頷き、歩き出そうと足を踏み出した時。背後が不意に陰った。
不意に、僅かに陰った――その異変を認識する一秒にも満たないタイムラグ。脳がそれを理解する間に、僅かな陰りは見る見る間に小山一つ分ほどの影となり、彼らの足元を闇に染めた。
膨らむ影より更に凄まじいスピードで膨らむ、膨大な魔力の気配。
男たちの脳みそが、背後を確認するべく次の行動を命じ、2人揃って首を後ろへと捻る――が。
その命令を、肉体が実行に移すより早く――男達の視界が、闇に、染まった。
「終わったぜ、葉月」
「――っ、はっ、」
じっと殺していた息を吐き出し、葉月は疲労しきった身体を弛緩させた。
まるで土砂降りの中に居たように全身びっしょり汗まみれの身体を、葉月は拭こうともせず、だらしなく床へ転がった。
「久々ながら……やはり、堪えますね……」
「葉月、……これでもまだ、続ける?」
彼の周囲に散らばった、いくつもの空のパックを一つ一つ拾い、ゴミ箱へと運びながら、紅姫は言った。
「ええ、……しばらく、パックの発注を増やさねばなりませんね」
彼の答えに、不満げに尻尾をくゆらす紅姫を見て、葉月が苦笑を洩らした。
「苦労を、かけます」




