100年ぶりの知らせ
「……そうか、視えちゃったのか」
重苦しいため息をつきながら、一人で寝るには広すぎるキングサイズのベッドに置かれたふかふかの枕に顔を頭ごと埋め、朔海は呟いた。
あれは、常人――特殊な力を持たない唯人――の目には決して映らないモノ……あの世界の理から外れた存在だ。
ある意味、自分や葉月もそれに準じた存在であるが、元々はあちらの世界の生物の一種であった自分達一族は、あちらの世界での擬態に、こちらの世界に存在する他種族に比べて、必要な労力が格段に少なく済む。
葉月の場合は更に特殊な事情で、むしろこちらの世界に居るより馴染んでいる。
――しかし、自分達が彼女とは違う生き物であることは、間違いない……と、思っていたのだが。
「……どの位、こちらと関わりあいのある血なのか……。やっぱり調べた方が……いいんだよな、本当は」
無論、通常の手段で調べるには無理がありすぎる。
いくらあそこが特殊な場所であったとはいえ、その特殊な条件を満たすものであれば誰でも行き来が可能な場所だ。
あの日、あの近辺に居た者の全てを洗い出し当たっていくなど、どう考えても不可能だ。
だが、彼には一つ、それを簡単に知る事のできる手段があった。
が、その手段を使えば、どうしたって自分の正体を彼女に明かす事になる。
「嫌われるのは……やっぱり嫌だよ」
いずれ、また手放さねばならないのだと分かってはいても。
「もうしばらくは……そばに居たいよ」
咲月が、二匹の使い魔猫達の喋る姿を目撃し、すでに自分達の正体に興味を持ち始めている等とは知らない朔海は、ため息を連発しながらあの日を思い返す。
あの時、彼女を葉月に任せたのは、彼女が人間の子供だったからだ。
力なき者にとって生きづらいだけのこの世界に、自分のエゴだけで留めてしまうのが、彼女にとってどれ程不幸な事なのかを身を持って知り尽くしていたからだ。
けれど、彼女が持つ力の如何では、あちらの世界で暮らす事の方が逆に合わない可能性もある。
「もしそうなら、ずっと一緒に居られる?」
紅姫が自分達の事情の全てを、彼女に明かそうとしている事も知らず、朔海は呟いた。
「ねえ、僕はどうするべきなのかな……?」
――と。
ガタン、と寝室の窓ガラスに何か軽いものがぶつかった音がした。朔海が枕から顔をあげ、何かと窓を眺めて――即座に顔色を変え、ベッドから飛び降り、勢いよく窓を開けた。
キキッ、と耳障りな声とパササッと、軽い羽音と共に開けた窓から飛び込んできたのは血色の蝙蝠。窓にかかるカーテンを吊るしたカーテンレールにぶら下がり、咥えた封書を床へ落とす。
ヒラリヒラリと宙を舞うそれを、朔海は嫌そうな表情を浮かべながら掴み、封を乱暴に引きちぎり、中身を改める。
朔海が、封書の中身に目を通し、視線を蝙蝠へと向けた瞬間、血色の生物は同色の霧と化し、周囲に霧散して消える。
「――嫌な手紙だ」
1枚きりの紙切れに、簡潔を通り越してただ殴り書いただけの文章を一瞥しただけで、朔海は紙切れを力任せに握りつぶし、壁へと投げ付けた。
「……百年ぶりの便りが、何だってこんな時に来るんだ」
ズキン、と、忘れていたはずの痛みが胸を焦がす。
今朝早く、葉月の元にも好ましくない知らせが舞い込んだ事すら知らず、朔海は苦しげな表情で呻いた。
「……行きたくない……けど……」
一つ、今まで連発した分を全部足しても足りないほど重いため息をつく。
「仕方ない……か……」
朔海は、サイドテーブルの引き出しを開け、中からペーパーナイフを取り出した。
鞘から抜いて刃を出し、その刃先を袖をまくって露出させた己の腕に当て、躊躇なくその白く綺麗な肌へと食い込ませ、景気良く引き裂いた。
刃が通過した傷口からどっと溢れ出す血。
血に染まったナイフをサイドテーブルに置き、空になった手でだらだら流れる血を掌に掬い取り、ぐっと拳を握りしめた。
目を閉じ、精神を集中させる。再び開いた手の中には、蝙蝠が1匹。
開いた掌から即座に飛び出した蝙蝠は、開け放しの窓から表へと飛んでいく。
そしてもう一度、大きくため息をつき、今しがた蝙蝠が飛んで行ったばかりの窓の枠に片足をかけ、自らもまた、翼を広げて飛び出す。
――王から帰還の命を受けた。咲月を頼む――
蝙蝠に託された伝言を、葉月が受け取ったのはその日の昼過ぎ。“出かけてきます”と書き置きのメモと共に用意されていた食事を、遅い昼食として食べていた時だった。
そして――。
「ふぅん、アレが例のオヒメサマ? 何だ、大した事ないじゃん、あいつ何であんなの構うんだ?」
「まあ、あの“綺羅星”だからねぇ」
「けっ、つまんねぇの。まあ仕方ねぇか、命令だからな。とっとと仕事済まして遊ぼうぜ」
「ああ、久々の人間界だ。思う存分御馳走にありつけるぞ」
小さな児童公園の前の通りを一人歩く少女を、植え木の陰で気配を殺しながら眺める二対の視線が追う。
――王子の頼みと、我の命令と、どちらでも好きな方を選ぶと良い。……白露――
「……選ぶまでもありませんよ」
自分以外、誰も居ない静かすぎる家の中、ぽつりと呟かれた言葉。
――お前の命と娘の命。お前は、どちらを私に差し出す……?――
「当然、どちらもお断りですよ――クソジジィ」
らしからぬ汚い言葉を吐き出しながら、葉月はゆるりと笑った。
――不気味な事この上ない、般若の笑みを。