タブーの中身
「――見られた?」
最後の患者の処置を終え、表にかかった“診療中”の札を“休診”と書かれた側へと裏返しながら、彼は足元でしおしお項垂れる生き物達を見下ろした。
一瞬、現実逃避をするように腕時計に視線をやる。時刻は、午前5時。明け方と早朝との狭間の時刻。ほんの数日前にはまだまだ星の輝く闇夜だった空も、今はまだ地平線の向こうにある光の源から溢れる僅かな明るさに星たちは早くも埋もれかけていた。
「ま……、まあ……確かに見られはしたけどよ、でもすぐ気付いてトンズラこいたし……、大丈夫……だろ?」
ふにふにしたピンクの可愛い肉球のついた前足でまあまあと彼のご機嫌を落ち着かせようと、葉月の足をぽんぽん叩く黒猫の隣で、白猫はそれをたしなめる様に長い尻尾でピシャリと黒猫の尻を叩いた。
葉月は、疲れた溜息を一つ吐き出しながら、頭痛を堪えるように額へ手を当てた。
「別に、君達の姿を見られたって困ることはありませんよ。……どう見てもただの猫ですからね。」
ジロリ、と二匹を睨みながら彼は言う。
「ですが、そのただの猫が人語を喋ったとあれば話は別ですよ」
「そりゃあな、普通の猫じゃねえし」
「何せ、何百年も前からお前に仕える使い魔であり、お前の命の恩人様――っ、ふぎゃっ!!」
黒猫は得意げに尻尾を振ったが――その尻尾を、不気味な笑顔を貼り付けた葉月に思い切り踏みつけられ、悲鳴を上げた。
「……そうですね、形はどうあれ一応人間相応の脳みそが詰まってるはずなんですがねぇ……、何で、どうしてわざわざ彼女の部屋の前なんですか」
葉月は、黒猫の首根っこを掴み上げ、自分の顔の高さまで少々乱暴に持ち上げる。
「そりゃぁ、あの娘に興味があったからだろ」
足元で、白猫がきまり悪そうに視線をそっぽへ向けた。
「……やっぱり彼女には何も話さないの?」
ぽつり、と白猫が呟く。
「一つ屋根の下で同居しているのよ? ……いつまでも隠して誤魔化してはいられないわ。例えどんなに気をつけていたって、必ず綻びは生まれる。なら、不本意な形で知られてしまう前に、きちんと説明するべきだと思うのだけど?」
静かに立ち上がり、くるりと身体の向きを変え葉月に背を向けて静かに歩きだしながら、彼女は言った。
「……さっき、あちらからの使者がお見えになったわよ。書状だけおいてすぐお帰りになったけれど」
瞬時に、鋭い視線を葉月は彼女に向けた。
「――何……?」
「……まあ、気づかなくて当然さ。あの大騒ぎの最中に蝙蝠一匹の羽音を聞きわけるなんざ、いくらあんたらでも余程気をつけてなきゃ無理だろ――っ、て、おい!」
緊張を露わにする葉月をフォローしようとする黒猫を投げ捨てるように放り出すと、彼は診療室の奥に設けられた事務室の扉を乱暴に押し開ける。
ごく狭い部屋に事務机を押し込めただけの部屋の中、デスクの上に散乱した大量の書類をかき分け、その中から一通の封書を手に取った。
その封蝋に施された刻印を目にした瞬間――彼の周囲の空気が一瞬にして凍りついた。
「――っ、分かってはいましたが……とことん鬼ですね……」
「……まあ、実際“鬼”の一種みたいなもんだからな。冗談でなく。――で、どうすんだ?」
結構乱暴に放り出された割に大してダメージを受けた風でも無く飄々と彼の後をついてきた黒猫が、いつの間にか口にくわえていたモノを彼の方へと放りながら尋ねる。
「……考えが、……無いわけではないのです」
疲れたようにズルズルと、キャスターのついた椅子に腰かけながら、放られたそれに手を伸ばして彼は答えた。
「けれど――」
それを口にくわえて、一度言葉を切る。それを――その中身の液体を、ゆっくり嚥下しながら――葉月は目を閉じた。
「私には分からないのですよ……正直、どうするのが正しいのか……」
「まあ、一般論を言うなら当人同士の気持ちの問題だろ?」
重苦しいため息をつく彼に、黒猫は軽い口調で返す。
「ですが、私達はその“一般”のくくりには当てはまりません」
「……だが、あの娘だって“一般”人じゃあありえないだろう。“そもそも”の事情の事はもちろんだが、俺たちの姿が視えたって事はそういう事だ」
黒猫が、ふと壁に掛けられた額縁を見上げた。飾られているのは、何の変哲もないただの風景画だ。
……有名な画家の作品でもない、そこらの百貨店で数千円程度で売られていた安物の絵が、殺風景な部屋の中に申し訳程度に飾られているのだが、明かりもつけない部屋の中で今は隣の診療室から漏れる光を絵を保護するシートが反射して、半ば鏡の様に部屋の様相を映し出していた――が、その鏡像の中、黒猫の姿だけが無い。
「確かに、彼女はいわゆる一般人の中ではどちらかといえば少数派に属しているかもしれませんが……、その程度でしたら、わざわざ我々の世界に関わらずとも、普通に幸せになれるはずです。まあ、ちょっと不幸な偶然で先日までかなり苦労をされたようではありましたが、きちんと一人立ちできる力を得られさえすれば何も問題はないでしょう」
ちらりと黒猫の視線を追い、その事実を目にしつつも彼は表情一つ変えることなく、手にしていた空のパックを机の脇に置かれた小さなプラスチック製の屑籠へ放り投げた。
投げ捨てられたパックは、屑籠の淵に当たってバコッと音を立て、その衝撃に屑籠が僅かに傾いた。
屑籠にヒットしたパックはしかし、勢い余って思った方へは返らず、屑籠の外にペシャッと落ちる。
コントロールを誤り渋い顔をする葉月に黒猫は、ため息をつきつつも鋭い視線を彼に向け、
「……だが、それまでに一体どれだけの時間を要する?」
簡潔な問いを投げかけた。
「今、彼女は何歳だ? 14……15? そんなもんだったよな。で、今この国の法律で成人は確か20歳だったはずだ。とすると5、6年ってとこか。まあ、あんたたち一族からすりゃ百年なんざあっという間、10年の年月は瞬き位の感覚なんだろうけどな。だが、それはあくまで時の流れをただ傍観しているだけだった場合の話だ。あんた達の普段の時間感覚がどうあれ、1時間は60分、1日は24時間で、1年は365日なんだって事実は、俺達にしろ、あんた達にしろ、彼女を含め人間達にしろ、その他どんな存在に対しても、変わることはない。そうだろう?」
「…………」
その問いに、葉月は押し黙る。
「そうだ、お前が一番良く知ってるはずだよな? ――白露」
黒猫は、あえてその名を口にしながら、更に言葉を重ねる。
「これまでここが平穏だったのは、あちらさんが無関心を貫いていたからだ。……一部、例外も居たとはいえ、な。だが、連中がその気になったのなら――」
「……ええ、騒がしくなりますね。今までの比ではなく」
皮肉を含んだ苦笑を浮かべた葉月がため息とともにそう呟いた。
「そんな中で、守り通せるのか? 何も知らせないまま、何もかも隠したままで」
「守り通して見せますよ、何としてでも。彼女が私達の手を必要としなくなる、その時まで」
「それで、坊ちゃんは納得してるのか?」
「嫌でも納得していただきます。――下手に情を移してしまわない内にね」
「……要らぬ傷をこさえる前に……ってか? 知ってるか、そういうのを過保護って言うんだぞ?」
嫌味を口にする黒猫に、葉月は涼しい顔をして言い返す。
「何とでもお言いなさい。……あの人は、もう十分過ぎるほど傷を負ってこられた。これ以上、余計な重荷を負わせたくはないのですよ」
そして、この話はもう終わりだと言わんばかりに立ち上がり、部屋から出て行こうとする。
「あんな……、あの時の様な思いをするのは私だけで十分です」
そう呟いて部屋を出ていく主の後ろ姿を見送りながら、黒猫は彼と入れ違いに部屋へ入ってきた白猫を見下ろした。白猫はデスクへ飛び乗り、黒猫の隣で腰を下ろす。
「相変わらず、頑なよね」
「……まあ、半分は俺達のせいでもあるけどな」
「ねぇ、この知らせ、やっぱり向こうにも行ってると思う?」
ピンポーン、と、見計らったかのようなタイミングで自宅側のチャイムが鳴らされた。
「いや、まだだろう」
黒猫は机を飛び降り、屑籠のそばに転がされたままのパックを屑籠へ捨てながら答える。
「あの坊ちゃんの性格を考えればな……。今、あえて知らせるのは得策じゃないだろう?」
慌てたように階段を駆け降りる足音に、ピクリと耳を動かし、白猫は呟いた。
「……これから忙しくなるわね」
「……ああ」
開けっ放しの扉の方へと歩きだしながら、黒猫が静かに同意の返事を返す。
「事態がどう転ぶにしろ、……あんな思いを味わうのは俺達だけで十分だって事だけは、俺も同意見だ。俺達の時みたいな事態にだけはさせねぇ。」
静かに、だが力強く彼は言い残し、部屋を後にした。
部屋に残された白猫は、
「それは、もちろん――。でも、その為にはこのままで良いはずないわ……」
誰に言うでもなくそう呟いた。
「だって、私がそう思うんだもの。きっと彼女だってそう思うはずよ。ねぇ、白露……」