(完結中編)パーラーOyake ●●海のメニュー●●
──とうとう、その日が来てしまったのである。
「嘘だ……俺は認めないぞ!」
茫然と立ち尽くす青年の俯いた顔を、黄金の滝のような髪が覆い隠していた。震える手がかき上げた髪の間から、はっとするような青い瞳が覗く。その瞳が、涙に潤んでいる。
「俺は認めない……っ!」
ぷすんぷすん。簡素なプレハブ小屋の隅に据えられた古びたクーラーが、申し訳なさそうな音を出していた。
「このクーラー、あと一年は持つと思ってたのに……!」
ぶるぶると震える拳を、青年は力一杯テーブルに叩き付けた。
ここはパーラーOyake。とある土地のとある場所、とある大きめの離島に佇む小さなパーラーである。
「買い替えとか無理だし! 俺、金ないし!」
無人の店内で金髪碧眼の若き店主・アカハチは悪態をつく。そして一人髪の毛をかきむしり、店の奥にすえた引き出しから通帳を引っ張り出し、覗き……「……あ~……、マジ無理だわ」とため息をついた。そのまま店の出口に向かうと、パタン、とドアを後ろ手に閉める。
それが、ある夏の一日のことだったのである。
「ええ? それで店も開けないで出てきちゃったの⁉」
甘い香りが満ちる店内に、瑞々しい声が弾けた。可愛らしいクロスを敷いた丸テーブルに肘をつくアカハチを、向かいに座った美しい青年が覗き込んでいる。
「だってよおマツー……俺、この夏、色んなことあったからさ……なんか心が折れたわけよ……」
もう……、と美青年──アカハチの幼馴染で親友のマツー──はため息をついた。
「だからって、僕の店でお菓子食べてても何にも解決しないじゃないか。ああほら、口についてる」
アカハチの唇の端についたカスタードクリームを白い指で拭ってやると、マツーはもう一つため息をつく。
「だってよお……。おまえはいいよな、なーたFOODSは大繁盛だし」
なーたFOODSはマツーが経営する菓子工房である。最近はイートインスペースも始めたこの店は、ガイドブックに載ったこともあってかなりの大繁盛なのだった。極上の菓子の味もさることながら、店主・マツーの美貌の評判も長い行列に拍車を掛けていた。今も、店内にひしめく客たちが普段はなかなか表に出てこない店主に熱っぽい視線を送っている。
「らしくないよ、アカハチ。僕、お前のためなら何でもするよ。だからこれからどうするか二人で考えよう」
アカハチの青い目を覗き込みながらクリームのついた指を口に含んだマツーの姿に、周りのテーブルから黄色い声が上がった。
「え? なんで周り盛り上がってんの?」
「……さあ? なんだろ?」
きょとんとした二人は気を取り直して話を続ける。
「ちゃんと業者に電話した?」
「したけど、だめだった。この猛暑で、人が全然足りてないんだと」
「そっか……」
マツーは俯いて、自らの白い割烹着を長いこと見つめていた。やがて手を伸ばすと、アカハチの食べかけのクリームパフを一口齧る。
「マツー? どうしたんだよ? どっか悪いのか?」
「ん……アカハチ、携帯出して」
「え?」
「いいから。携帯貸してよ」
怪訝な顔で、アカハチはごそごそとハーフパンツのポケットを探る。差し出されたスマートフォンをじっと見つめていたマツーはやがて意を決したように画面をタップした。
アカハチが身を乗り出して覗き込んだ画面は──電話帳。
「おい、誰に電話すんだよ」
答えないマツーの思いつめたような顔に、アカハチの胸が重苦しくなる。マツーのしなやかな指が画面をスクロールして行く。
「け」行。「そ」行。「な」行……。
「おい! まさかおまえ!」
「アカハチ! おまえ、あの人のこと、なんて登録してるんだよ!」
「んなの『とぅゆみゃ』に決まってるだろ! つうか、やめろ無理すんな!」
スマートフォンをひったくろうとしたアカハチから逃れるように、マツーは椅子を蹴って立ち上がった。
「止めないでくれ、これは僕自身の問題だ! 僕だっていつまでも逃げ続けるわけには行かない……から……っ!」
「マツー!」
マツーの顔が真っ青になっている。うっすらと開かれた唇から洩れる息がひどく浅くなっていた。
「だから、無理すんなって……。また過呼吸になっちまうぞ」
親友の震える肩を抱いて座らせてやったアカハチに、また周りから黄色い声が上がった。そんな雑音などお構いなしにアカハチは続ける。
「大丈夫だって。店は涼しくなるまで閉めるから。それまでは俺、なんか別のバイトするから……ほら、フルーツピッキングとか、グラスボートの受付とか……」
ふるふる、とマツーは首を振った。
「今までありとあらゆる仕事が続かなかったお前のキャリアを、こんなことで分断させたくない……っ!」
ぐっと言葉を飲み込んだアカハチに、マツーは青い顔で笑いかけた。
「それに、僕ももう大人だもの。大丈夫だよ。僕を信じて」
その清らかな微笑みに、アカハチは頷くしかなかった。
ぴこ、ぴこ、と蒼白の顔のマツーが画面をタップする。やがて、マツーは震える手でスマートフォンを耳に当てた。
「あの……もしもし」
アカハチは息を詰めて見守るしかない。
「あ……なんだ川満さんですか。この間は素敵なお中元ありがとうございました、姉も弟もすごく喜んで……ええ、はい」
──あのオッサン、未だに電話の取り方わかんねえのか、とアカハチは心の中で悪態をつく。──しかも秘書を使って物でマツーを懐柔する気だな、と思わず眉間に皺が寄る。
「あ、いいですいいです、あの、げんがさんに伝えてくれれば……。あ、いいですってば」
耳をそばだてるアカハチに、不快な状況が聞こえてくる。
「……げんがさん、お久しぶりです」
アカハチの眉間の皺が深くなる。
「……はい、元気です。……いえ、別に……」
声を潜めたままのマツーは立ち上がると、厨房に消えた。立ち上がって追いかけようとしたアカハチは拳を握りしめ、踏みとどまる。
マツーの電話の相手──げんがさん──はマツーの昔の上司、仲宗根豊見親である。複雑な家庭環境で育ったマツーにとっては、上司であるだけでなく、親類関係にもあるらしいこの男を、アカハチは心底嫌っていた。
仲宗根豊見親はかつてマツーを痛めつけた張本人である。新卒で豊見親の会社に就職したマツーが受けたというハラスメント……それがどんなものであったのかをアカハチは知らない。ただ、そのことに触れられそうになるとマツーの瞳を満たす闇……それを見るだけで親友の傷の深さを知るには充分だった。
それでもアカハチはマツーを追いかけなかった。親友が自分を信じてくれと言う。それを信じなかったら、今までの友情が全て偽りになってしまう。それが分かっているからこそ、アカハチは小さな丸テーブルにどっかりと腰かけ、目を瞑って待った。ひどく長く感じられる時間を、貧乏ゆすりをしながら待った。
やがて……厨房の奥から青い顔をしたマツーが帰って来た。
「おい! 大丈夫か……⁉」
美しい青年は無理に笑顔を作り、頷く。
「ばっちりだよ」
おろおろと肩を抱いて座らせるアカハチに、マツーは微笑みかける。
「話、付けておいたから」
「話? ああ、あのオッサンの土木会社がクーラーを直してくれんのか?」
きょとん、としたマツーは首を振る。
「違うよう。ほら、前にリゾートホテルが撤退したビーチがあっただろ?」
──ああ、そんなのもあったな、とアカハチは思い出す。何年か前に本島のリゾート開発業者が海沿いに建てた豪華なホテル──業者が撤退してからホテルは取り壊され、きれいに整備されたビーチだけがうち捨てられていた場所──。
「ああ。あのビーチ、たどり着くまでには私有地を通らなきゃいけないからな。結局ほったらかしにされてた所だろ? それが俺達に何の関係があるんだよ?」
マツーは得意げに笑った。
「あの場所はね、本島の泰久Resortsとミャークの中導Constructionの共同出資で作ったんだ。あそこでの営業、中導Constructionが話付けてくれるって」
「……え? 話が見えねえぞ?」
うふふ、とマツーは笑った。
「建物は全面的に建ててもらう約束したから。場所代も無しにしてくれるって」
「おい、だから何なんだよ?」
マツーの顔に向日葵のような笑顔が弾けた。
「海の家だよ! パーラーがだめなら、他の場所で営業すればいいものね!」
「はあ⁉」
唖然とするアカハチなどお構いなしにマツーはニコニコと笑い、両手をぱん、と合わせた。
「僕、楽しみだなあ! 遊びにいくから! アカハチ、海の家頑張ってね!」
うわあ、楽しみだなあ、僕ビーチボール持っていこう……鼻歌を歌いながら小躍りするマツーを前に、アカハチはぽかんと佇むしかなかった。
こうして、パーラーOyakeの店主・アカハチはクーラーを直す資金稼ぎのために、期間限定の海の家の経営に乗り出すことになったのである。
「訳わかんねえ……あのオッサンの本業なんだから、クーラー修理の人員派遣してくれた方が助かるっつうの……」ブツブツ言いながらも、アカハチもこういうのが嫌いではない。涼しい図書館でノートを広げた金髪碧眼の青年は海の家のためのメニュー考案に余念がなかった。
「海の家かあ……なんかこう、ありきたりのメニューじゃないのがいいよな。軽食的なのじゃなくて、なんかこう、特別感がある……」
ぶつぶつ、と呟きながら鉛筆を動かすアカハチの思考を遮るものがいた。
「そのとおり。我が社の面子にも関わりますからね、集客力のあるシャレオツなメニューを頼みますよ」
吃驚して目を上げた先では、黒ぶち眼鏡をかけ、南国風の模様がプリントされたシャツを着たいかにもビジネスマン然とした美男が見下しているのだった。
「……あんた、誰?」
男はぱり、と音がしそうな四十五度のお辞儀をしてから一息に発した。
「いつも電話で失礼しております、お目にかかるのは初めてですね。私、中導Construction 総務・人事部 社長室付第一秘書 川満=大殿と申します。以後お見知りおきを」
「……ああ。いつもオッサンの代わりに電話に出てくる部下のヒトか」
憮然と呟くアカハチに、ビジネスマン……川満大殿はぱきぱきとした口調で言う。
「豊見親様はお忙しくていらっしゃいますからね。今回は豊見親様の腹心の部下である私があなたを監督します。どうです? きちんとプランはできたんですか?」
高飛車な言い口に内心ムッとしながらも、アカハチはぴしゃ、とノートを閉じる。
「はいはい、出来てますよ。まあ、あんたたちみたいなコウキな方のオクチに合うかは分かりませんけど!」
精一杯の嫌味に動じることも無く、川満大殿は眼鏡の縁に触れる。
「お口に合わねば困りますね。何といっても、今回はあのホテルの跡地をどうするか、泰久Resorts側が視察にいらっしゃいますから……」
それはあんたたちの都合だろ、と返すアカハチに川満は首を振る。
「分かってませんね。あのホテルは中導Constructionの主導で建てたんですよ。時流に乗り切れず廃業の憂き目に合いましたが……。
今度の視察で泰久Resorts側があの場所に見切りを付ければ、グループ企業内での中導Constructionの地位は今度こそ失墜する。そうなれば、サキシマの開発は本島側の思うがままです。豊見親様が必死に食い止めているサキシマの過剰開発の堰が切れかねない」
ぐっと言葉を飲み込んだアカハチに川満の冷静な声が続いた。
「あなたはオッサン呼ばわりしますけどね、あれで豊見親様も色々考えながら物事を進めているんですよ。まあ、確かに何考えてるのか良く分かりませんし、変な所鈍感だし、時々切れるし、浮気はするし、ロクでもないですけどね、それでも私のかけがえのない大切な上司ですから」
「……すげえツンデレ」
率直なアカハチの感想に、幾分顔を赤らめた川満はコホン、と咳ばらいをした。
「……そっ……、それに、これはあなたにもメリットがある話なんですからねっ」
首を傾げたアカハチの耳に、川満はこそ、と口を寄せた。
「……今回は、視察に泰久Resortsの社長令嬢、百十踏揚様がいらっしゃいます」
弾かれたように視線を返すアカハチに、川満はもう一つ囁く。
「さらに、お友達の志慶真 乙樽様と吉屋 チルー様もいらっしゃいます」
「……マジか」
「そして、舞台はビーチ、です」
百十踏揚、志慶真乙樽、吉屋チルーはリウクー三大美女に数えられている(なお、これにサンアイ・イソバもしくはクニチャサを加えて四天王とする説もある)。
そして、舞台はビーチ……。
「つまりそれは、アレだ」
「そうです」
「……水着回か」
「……そういうことです」
顔を見合わせた二人の男は、ふにゃ、と笑う。
「よっしゃあ、頑張ろうぜ海の家!」
「ええ、がんばりましょうねえ!」
館内では静かにしてください──、図書館職員の注意の声も無視して、二人は天高く拳を振り上げた。
とんてん。かんかん。
とある場所のとあるビーチサイドでは、中導Constructionの全面出資で海の家の建設が急ピッチで進められていた。建物はあらかた出来上がり、あとは内装を整えるだけである。
「うわあ……海の家って言っても、随分本格的なんだね」
菓子工房の定休日を利用して様子を見に来たマツーが感嘆の声を上げる。長い睫毛の瞳が目を見張るのは、自然のままの木を使って作られた広々としたウッドデッキと、併設の風通しの良い木の建物。建物の半分には屋根が無く、替わりに藍色の布が青い空のように天を覆っている。
とてとて、と建物の中に上がりこんだマツーは歓声を上げた。青い布を通して差し込む光に照らし出されるのは、内部の真っ白な壁。そこには、精緻な筆で魚や海亀や海月……ありとあらゆる海の生き物が幻想的に描かれている。
「すごい……! 海の中にいるみたい!」
マツーの傍らで腕を組むアカハチも、この見事さを認めないわけには行かない。
「すげえ金かかってるよな、ヤイマの木材とミャークの藍染上布のコラボ。しかもあの絵師の人までスカウトして来たんだから」
アカハチが顎をしゃくった先では、線の細い美男子が一心不乱に壁に絵を描いている。身に付けた真っ白いスモッグを絵具だらけにしながらも、その筆は止まることを知らない。今壁に描いているのは大きな口を開けた鮫であろうか。
「自了さん」
絵を描き続ける男の横にそっと近づくと、アカハチは男を覗き込む。
「そろそろ、飯にしませんか」
絵に没頭していた男は、はじめてアカハチの存在に気が付いたように目を上げた。そのまま、こくん、と頷く。
「はじめまして、えっと、自了さん?」
小首を傾げて挨拶をするマツーに絵描き・自了はさわやかな笑顔を返す。頬に絵の具が飛び散ってはいるが、甘い顔立ちの青年である。
「こいつはマツーです。えっと、どうやるんだっけ……」
たどたどしく指文字を作ってみせたアカハチに、自了はにっこりと笑ってOKマークを作ってみせた。
「自了さんは耳が不自由だけど、おかげで俺もちょっとだけ手話覚えたぜ。自了さんは本島では有名なすげえ絵師なんだ」
え、とマツーは息を飲む。
「自了さん……ってあの自了さん⁉ ちょっと待ってよアカハチ、それ本島レベルとかじゃないから! 世界的に有名な人だから!」
「え、そーなの?」
「そんな人に期間限定の海の家の壁絵とか描かせちゃっていいの⁉」
ええ……俺知らねえ……と頬を掻くアカハチと、親友を小突くマツーの様子に自了がニコニコと微笑む。
と……。木の床を踏みしめてぱきっ、とした足音が近づいて来た。
「はいはいはい、ほのぼのしてないでランチタイム! 休憩は一時間! 私はお腹空いてますよ早くしてください!」
三人をぱっきりした視線で射抜くのは川満である。
「ああ、たいむまねーじめんとの人はめんどくせぇなあ」
だまらっしゃい、とぴしゃりと返した川満は手を叩く。
「お友達に試食してもらうんでしょ! さあ、さっさと客観的なフィードバックをもらって、メニューの精度を上げるんですよ!」
へいへい、と返事を返すアカハチはエプロンを付け、手ぬぐいで髪を覆う。向かったキッチンもコンパクトながらもなかなか立派である。
「今用意すっから、デッキで待っててくれよな」
はーい、と良い返事を返すと、三人はデッキに出されたソファーにめいめいに腰かけた。
「わあ……すごい。このソファーカバーもミャーク上布?」
青い布地を撫でたマツーに、ふふふ、と川満が得意げに笑う。
「なかなかお目が高い。この企画はただの海の家ではありませんからね」
きょとん、と首を傾げたマツーと自了に、川満はゆっくりはっきり言葉を継ぐ。
「この海の家の第一の目的は、サキシマの地元の人材がビジネスを回す力量があると示すことです。泰久Resorts側は本島からだけでなく、ヤマトや外国からも人員を送りこもうとしていますからね。効率の重視も結構ですが……」
言葉を切った川満は手を塔のように組み合わせた。
「豊見親様はそれではサキシマが痩せてゆくばかりだとお考えです。サキシマの人間が自ら考え、自らビジネスを進めて行かなくては、真の意味でのサキシマの発展は無い……。だからこそ、彼のような若造にまで大きな裁量権を与えて投資してるんですよ」
川満が視線を向けた先では、アカハチが真剣な顔で料理を盛りつけている。
「まあ、最初はある程度下駄を履かせてやらなくては話になりませんからね。彼はラッキーでしたよ。豊見親様はあれでなかなかアカハチ君を買っているんです」
むずかしいや……。と団扇で扇ぎだしたマツーに川満は苦笑する。
「その団扇はクバ製ですよ」
へえ、と団扇を見つめるマツーに川満は言葉を継ぐ。
「テーブルのコースターと、そこの花生け籠は編んだ月桃の葉で作ってあります。焚いているアロマは月桃とシークヮーサーのブレンドですよ」
自了が鼻をひくひくさせる。
「リウクーといえばまだまだハイビスカスと紅型ですからね。この海の家を通して、新たなビジネスにつながる商材を紹介して行くこと……それも豊見親様の目的の一つなのですよ」
へえ、げんがさんってあれできちんとビジネスマンなんだねえ、とマツーが目を丸くする。
「おいおい、何難しい話してんだ? さあ、できたぜパーラーOyake 海のメニュー!」
わあ、と歓声が上がった。
イヌマキ材のナチュラルなテーブルに並べられた皿を覗き込んだ三人の目がきらきらと輝く。
「おいしそう!」
得意げにアカハチは胸を張る。
「まずはこいつだ。パーラーOyake特製タコライス!」
白い皿には、ふんわりと盛られたご飯の上に鮮やかな色とりどりの野菜。その上には炒めたひき肉がたっぷりとかかっている。
「ひき肉の上の温泉卵を崩しながら食ってくれよな」
スプーンを口に運んだマツーが感動の声を上げる。
「わあっ、とろとろの卵がまわりのチーズのトッピングに絡んでおいしい……!」
川満も目を輝かせる。
「それにこのひき肉……! なんだろう、この味、この風味……?」
にや、とアカハチは笑う。
「おっとなかなかやるね、かわみっつぁん。そいつはこの島名物のぴぱーちだぜ。普通のタコライスシーズニングにはないホットでさわやかな風味だろ?」
うんうん、と目を輝かせた自了も頷く。
「チーズは島の牧場から分けてもらったんだ。新鮮だから特有のチーズ臭さがなくて美味いだろ?」
頷きながらスプーンを口に運ぶ三人はあまりのおいしさに無言である。
「野菜にもこだわってるんだ。タコライスと言えばトマトだけど、あえてミニトマトを使ってる。日焼けにもいいっていうし、この島のミニトマトは飛び切り味が濃くて美味いからな。角切りのアボガドともすげえ合うだろ?」
これは? と自了がご飯を指差す。
「お、気づいてくれて嬉しいね。ご飯はもちろんハテルマ産もちきびとイゼナのお米のブレンドだぜ。タコライスって調理方法自体はシンプルだけど、素材の味を生かすにはぴったりだろ?」
得意満面のアカハチは立ち上がると、厨房から新たなメニューを運んでくる。
「次はこれ」
えええ、とマツーが声を上げた。
「ちょっと待ってよアカハチ、これ豚汁じゃない!」
む、としたアカハチは言い返す。
「またお前のオシャレ至上主義が出たな。まあいいから食ってみろよ」
半信半疑のマツーはお椀を取り上げる。すすす、と上品に啜ったマツーの黒目勝ちの目が大きく見開かれた。
「……おいしい!」
だろ? とアカハチは得意そうに笑う。
「味噌はヤマトの知り合いから送ってもらったんだ。本当は何かおしゃれなスープにしようかとも思ったんだけどさ。海から上がると結構体が冷えてるからな。こういうあったかいのもいいだろ?」
うんうん、とマツーは頷く。
「お味噌は発酵食品で体にいいしね。それに、ふわふわのゆし豆腐と味の染みた根菜がとってもやさしい……!」
「豚肉のビタミンBは夏バテにもいいしな。意外と夏向きだと思うぜ」
笑い合う二人に川満の物言いが入る。
「ですが、そのメニュー名は頂けませんね。もう少しおしゃれにならないんですか?」
「んだよ、ここにもオシャレ至上主義の人かよ~」
ぶうぶうと文句を言うアカハチに、自了はさらさらと何かを紙に描いて渡した。
「……“ソイビーンペーストスープ ウィズ ポークアンドベジタブル”……」
アカハチの唇の動きを読んで確かめた自了はこくん、と頷く。
「“ソイビーンペーストスープ ウィズ ポークアンドベジタブル”……」
愕然と紙を読み上げるアカハチを尻目に、マツーは勝手に厨房に向かう。
「もちろんデザートもあるんでしょ? 名パティシエの僕を唸らせるおいしいスイーツはなにかしら」
ごそごそと冷蔵庫をあさるマツーの歓声が聞こえてくる。
「わあ! シャーベットだ!」
気を取り直したアカハチはシャーベットを盆に載せてテーブルに運ぶ。
「何の変哲もない黄色いシャーベットに見えますけど……?」
首を傾げる川満にアカハチは不敵な笑みを返す。
「まあ食ってみ?」
めいめいに匙を口に運んだ三人の目が丸くなる。
「甘くてさわやか……!」
川満が思わず片頬を押さえる。
「こいつは自信作だぜ。実はこのシャーベット、砂糖は一切使ってないんだ。甘味は完熟パイナップルの本来の味だけ。隠し味はマイヤーレモンの果汁とちょっぴりの泡盛」
「うそ! パインだけでこんなに甘くならないよう!」
自らのパティシエのプライドを賭けて、マツーがむきになる。その様子にアカハチが勝ち誇ったかのように笑う。
「俺の人脈を甘く見てもらっちゃ困るな。そのパインはミャークの能知伝盛ファームで品種改良された新品種だ。糖度が半端ないぜ」
ずるい、今度僕にも紹介してよ! とマツーがアカハチに喰ってかかる。どうしよっかな~、恵照兄は人の好き嫌いが激しいからな~、と勿体をつけるアカハチの襟元をマツーが締め上げる。
傍らで粛々とタコライスと豚汁とシャーベットを平らげた川満は、上品に口元を拭いながら言った。
「なるほど、メニュー数を絞った分、どれも丁寧に作ってありますね。もちろん、あと少しバリエーションは必要ですが……。これならまあ、及第点ですかね」
素直じゃねえなあ、とアカハチは口を尖らせる。
「んで? 泰久Resortsと中導Constructionがプレオープンの視察に来るんだろ? 俺は何すりゃいいんだ?」
その質問に、川満がビジネスマンの顔に戻る。
「基本的には普通に料理して、普通に給仕してくれればいいんです。要は、この海の家がきちんとビジネスのテーブルに乗れているかを見せたいので。ただ……」
黒縁眼鏡の奥の瞳がきらり、と光った。
「とにかく粗相の無いように」
真剣な川満の瞳に思わずアカハチは怯む。
「泰久Resortsの社長・尚泰久様は一見人畜無害ないいおじさんですが……なかなかどうして、動乱のリゾート戦国時代を強かに生き抜いて来た辣腕ビジネスマンです。豊見親様のためにも、絶対に気を抜かないよう……」
いいですね、と念を押した川満の瞳は、さっきまで目をきらきらさせてシャーベットを食べていた男のものではなかった。ビジネスマン……その得体の知れない生き物の熾烈な炎に、アカハチは戦慄するしかなかった。
──翌日。
離島の素朴なビーチにおよそ不釣り合いな高級な車が二台、乗りつけた。一台の長い車から降り立ったのは、さわやかな麻のスーツにパナマ帽をかぶった男。初老……と言ってもいいのだろうが、そのまっすぐな姿勢と、立っているだけでもにじみ出る高貴な雰囲気が周りを圧倒している。
もう一台から降りたのは、見慣れた仲宗根豊見親。……いや。その姿はいつもの品はいいが気取らない格好ではない。細身の紺色のズボンに合わせたマオカラーのシャツが鍛えた体に絶妙に沿っていて、何ともいえない色気を発散している。そして純白のシャツの布地には、無数の糸が織上げた唐草模様のラインが鮮やかに踊っていた。
「お久しぶりですな、仲宗根殿」
「ええ、本当に。尚泰久殿」
握手を交わす二人の男の間には、その笑顔とは裏腹に遠目からでも分かる引き攣れた緊張感が漂っている。
そして初老の男・尚泰久の車から続いて降りたのは……「おとうさま、おかおがこわいですよ」
──これを待ってた! とアカハチはガッツポーズを取る。尚泰久の後ろに天女のように降臨したのは、かの有名なリウクー三大美女の一人、百十踏揚である。
「まあ。なちゅらるなすてきなびーちですこと」
白い砂浜を見渡した踏揚は父・尚泰久の前に回ると柔らかく微笑んだ。
「むずかしいおはなしはおとうさまにおまかせしますね。おともだちをまたせたくありませんから。わたくしはおよいでまいります」
乙樽さん、チルーさん、と呼ぶ声に、車の中からさらに二人の美女が降り立つ。長い髪を夜会巻きにした大人っぽい美女と、零れそうな大きな瞳の幼顔の美女。二人も踏揚に勝るとも劣らない、趣の違った美人である。
「さあ賢雄もいきますよ。にもつはもってくださるかしら?」
あ、とアカハチは声を上げる。踏揚が振り返った先に立っているのは、いつかの台風の日にアカハチのパーラーを訪れた客・越来 賢雄であった。今日は豊見親の傍らに影のように立つ川満と同じに、ぱりっとしたシャツとシンプルなズボンを着けている。
「あいつ、あの会社の社員だったのか……」
三人の美女が海の家の更衣室に笑いながら駆けて行く。指をくわえて見送るアカハチを、傍らのマツーが小突いた。
「なにぼさっとしてるのさ! 給仕するんでしょ!」
「へいへい……」
アカハチは苦虫を噛み潰したような顔で、海の家に向かって歩く仲宗根豊見親と尚泰久を眺めながら肩を落とした。
「仕事だと、結局水着美女なんか眺める暇ねえんだよな……」
だがしかし。暇はできたのである。
海の家のテーブルで向かい合った仲宗根豊見親と尚泰久……。調理はアカハチ、ウェイターはマツー。本島とミャークのビジネスマンが当たり障りのない世間話から、真剣なビジネスの話に移ろうとしていたその時……料理のトレイを持ったままのマツーが何もないところでころん、と転んだ。
「あのドジ……!」
舌打ちをしたアカハチの視線の先で、仲宗根豊見親と尚泰久の顔面にソイビーンペーストスープ ウィズ ポークアンドベジタブルがぶちまけられていた。
海の家の中は大騒ぎである。結局、テキパキと手当てと掃除と着替えを手配してくれた川満のおかげで場は収まったのだが「給仕は私がやりますから!」と鬼の形相で断言した川満にアカハチとマツーはつまみだされたのである。
「あんなに怒んなくてもいいよなあ!」
「やっぱり、びじねすまんは心に余裕がないんだよ……」
顔を見合わせて文句を言い合うアカハチとマツーは、どちらからともなく波打ち際に目をやった。
「でもまあ、ラッキーだったかもな」
「なんで?」
小首を傾げるマツーにアカハチは笑いかける。そのままズボンの後ろポケットに指を引っ掛けると、波打ち際まで歩いてゆく。
「地元だと意外とゆっくり海なんか見ないもんな。お前と海を見るなんて、子供の頃以来じゃねえ?」
マツーも笑いながら波打ち際にしゃがむ。
「そういえばそうだね。思い出すね、ハテルマの海」
「あー、なんだかんだ言ってなっつかしいなあ。俺、もう何年も帰ってねえや」
僕もだ、と返したマツーはいたずらっぽい笑みを浮かべた。そのまま両手で波をすくうと、アカハチにぱしゃん、とかける。
「うわ、お前なにすんだよ!」
うふふ、と笑うマツーにアカハチも水をすくって投げる。そのままきゃいきゃい、と子供のように戯れ始めた二人に、やわらかい笑い声が降って来た。
「あらあら、男子同志のお戯れは罪がなくていいこと……」
「ほんとうですこと、チルーさん」
聞いたことのある声にアカハチははっ、と我にかえった。
「この声はっ……踏揚さん‼」
喜色満面でアカハチは振り返る。さっき海の向こうに目をやった時には、波間に三人の美女の頭が覗いていた。その美女が今ここにいるということは──海から上がったばかりの水も滴る水着美女が見られる! ──そんなアカハチの無邪気な下心は見事に裏切られた。
「さあ、乙樽さんもしゃわーをあびてきがえましょうね。うぇっとすーつはべんりですけれど、やっぱりしめつけかんがありますものね……」
愕然と立ちすくむアカハチの前には、漆黒のウェットスーツに全身を包み、すっぽりとフードを被った百十踏揚が立っているのであった。傍らの美女二人……乙樽とチルーもやはり、漆黒のウェットスーツ姿。見える肌色はせいぜい顔面だけである。
「……どうせっ……水着回なんてあるはずないと思ってたっ……!」
砂浜の上にくずおれるアカハチなどお構いなしに、三人の美女は華やいだ声を交わす。
「どうしたの乙樽、さっきから落ち着かないのね?」
大人っぽい美女、チルーに話しかけられた小柄な乙樽はどこか舌足らずな声で返す。
「あの……今日は攀安知さまも来ているらしいんです……」
チルーが眉を顰める。
「あら、男? いやねえ、男なんてみんなクズよ。それより私があなたのために歌を詠んであげるわ、乙樽……」
海用グローブをつけたままのチルーの手が乙樽の手に絡む。
「あ、あの、そういうわけじゃないんです……。ああ、私の愚かでかなしい攀安知さま……。あの方はどこにいらっしゃるのかしら……」
視線を彷徨わせる乙樽の傍らでは、踏揚が柔らかく砂浜の向こうに手を振っている。
「賢雄。あなたもしゃわーをあびてきがえましょう。にっこうよくもほどほどにしないとしみになりますよ……」
そしてその視線を追った先では……ふわふわして可愛らしいワンピース水着を着た賢雄が恥じらいながら手を振り返しているのだった。
「だから、俺の求めてた水着回はどこに行ったんだよ……っ!」
海の家に戻ると、さっきまでの引き攣った雰囲気はどこへやら、仲宗根豊見親と尚泰久はすっかりくつろいでビールを飲んでいた。
二人がよりかかったミャーク上布張りのソファの横では、自了がさらさらと色鉛筆をスケッチブックの上に走らせている。
「おお、これが私の肖像か! いや、自了くんは本物の神絵師だ尊い!」
上機嫌の尚泰久が覗き込むのは……スケッチブックの上に姿を現した……なんというか、昔風の耽美な絵柄の睫毛の長い美中年のイラスト。
呆気にとられるアカハチを振り返った仲宗根豊見親はほんのり赤い頬をして、親指を立てて見せた。どうやら、ビジネスの話はうまく行ったらしい。
「いや、仲宗根殿、こんな素敵な海辺の一日が味わえるとは思わなかったよ! 離島はいいね、素朴な楽しみの中に輝きが溢れている!」
そのままウェーイ、と豊見親と乾杯をした尚泰久は上機嫌でテーブルの向かいの川満にもビールを勧める。
さあ、呑もうじゃないか、本島とサキシマの更なる友好を深めようじゃないか──何度もウェーイ、と上がる乾杯の声を背に、スケッチブックを置いた自了が立ち上がる。肩をすくめたアカハチも後に続いた。二人はぶらぶらと砂浜を行く。
「まあ、お偉方の話は良く分かんないけど、うまく行ったんなら良かったよ。自了さんも、“あ り が と な”」
たどたどしい手話で礼を言うアカハチに、自了は微笑んで“どういたしまして”と返す。そのまま砂の上に落ちていた長い木切れを拾うと、白砂の上に何か描き始めた。
「はじける波にさらわれて……か。砂に描く芸術ってやつだなあ……」
心地よい疲れを感じたアカハチは海の向こうに目をやった。早くも夕刻の光が海原に降り始めている。ちら、と海の家を振り返れば、三人の美女たちにマツーが給仕をしているところだった。出すのはマツーが給仕に慣れているシャーベットだから、今度は大丈夫だろう。
「まあ水着美女は見そびれたけど、いっか」
頬を撫ぜる海風にアカハチが目を細めたその瞬間──むにゅ、と何かがアカハチの背中に当たった。
まさか……と後ろを見下したアカハチの目に飛び込んできたのは……アカハチの大きな背中に隠れ、ひょこと顔だけ出して笑う若い娘の頭。ぷりぷりとした若い体を覆うのは真紅のビキニの布地だけ。
「これが正しい水着回……っ!」
感動のあまり拳を握りしめたアカハチのことなどお構いなしに、娘はアカハチの影から飛び出すと、ツインテールの長い髪をなびかせながら白い砂浜を駆け去って行く。
「ははははは、遅いぞモトブぅ~、我を捕まえてみよ~!」
無邪気な笑いをはじけさせ、波打ち際で手を振る娘の視線の先には……白い砂煙をもうもうと舞い上げながら全力で走ってくる男。手には真っ赤な布地を握りしめている。
「お待ちくださいッ‼ ああ、裸足で砂浜を歩かないでください、割れたビール瓶とかでおみ足が切れるッ……‼」
スタ、と白い地面を蹴った男は弧を描いて跳躍し、真紅のビキニの娘の足元につんのめるように着地した。
「ははははははモトブぅ~、お前のジャンプはすごいなあ‼」
「アンさま‼」
男は手に持っていた布地を広げると、娘の足先から腰へずぼ、と引き上げた。
「わっ、なんだこのデカパンは‼ 我はこんなものはいやだ! 今日は男装しなくても良いとモトブが言ったではないか!」
腕の中で身をよじる娘のズボンの腰ひもを必死で結びながら、男は叫び返す。
「このテーハラ、そんな下着みたいな女の服を着ていいと言った覚えはありません! そんな恰好をしていたら、またあの尚巴志めにお体をっ……じゃなくて、お命を狙われますぞ!」
なんだとう~、と男……テーハラを睨み付けた娘は両拳を握りしめる。
「だったら我は今日も男装に戻る! この胸を覆う布など取ってやるぞ! 北山の猛将・攀安知はビキニなど着ないからな!」
もがく娘は腕を上げると、本当にビキニの上の紐をほどき始めた。
「アンさまっ! それはだめですさすがにだめです攀安知が男装の麗人だとばれてしまう! あっ、ちょっ……っていうかこのテーハラの理性がもう無理‼」
ぎゃー……きゃー……と騒ぐ男と娘の光景に、アカハチはぽつりと呟いた。
「なんだよこの茶番……」
その傍らでは、自了が白い砂に木の枝で文字を書いていた。
──リア充。
顔を見合わせ、深く頷き合ったアカハチと自了の視線の先で、いつの間にかデカパンを脱ぎ捨てたビキニの娘……アンはスタンドアップパドルボードに立って海に漕ぎ出していた。
「ははははは見ろモトブぅ! 我はSUPも上手い! 沖まで漕ぐぞ!」
「アン様、千代金丸でSUPを漕がないでください! 海水は駄目っ! 錆びるッ……!」
「はーはははは、国宝のパドルはよく進むなあ!」
刀を櫂にしてすいすいと漕ぎ去って行くSUPの端には、必死にテーハラが掴まって騒いでいる。絶え間ない叱責の言葉と裏腹に、その目はしっかりとアンの肢体にくぎ付けになっている。
「……爆発してほしいな」
呪いの言葉を漏らしたアカハチに、自了はまた一つ深く頷きを返した。
やがて日が暮れる。
海の家の中でくつろいでいた美女三人組と賢雄も、べろべろに酔っぱらった仲宗根豊見親と川満と尚泰久も、アカハチの傍らに佇むマツーも……皆が沈む夕日を眺めに砂浜に出て来ていた。
「まあ、ごらんなさい賢雄、あなたとみたゆうひのなかで、このゆうひがいちばんきれいなようにおもえますよ」
「踏揚様……私にとっては貴方が夕陽で太陽です……!」
うぜえ、とアカハチが眉を顰める横では川満が仲宗根豊見親の腕にしがみついている。
「豊見親様っ……いつも給料安いとかうちの社長はクズだとかボーナスよこせとか対外的には色々言ってますけどっ……! やっぱり豊見親様は私のかけがえのない上司です大好き!」
「……よく分かった。次の査定を楽しみにしているのだな」
足元がおぼつかない上司と部下の傍らでは、切ない顔をした尚泰久が体育座りをして夕陽を見つめていた。
「早く引退したいなァ……クルーザーを買って、それからもずくを育てるんだ……」
ちら、と目をやれば乙樽の腰に手を回したチルーが木陰に消えようとしているのを、両手で口を抑えたマツーが真っ赤な顔をして見送っているのだった。
ふふっ、と笑って視線を戻せば、自了がまだ木の枝で砂浜に絵を描いている。そして弾ける波の先からは、SUPに乗ったアンとテーハラの歓声がまだ聞こえて来ていた。
「海の家かあ。結構悪くないかもな」
そういって伸びをしたアカハチの上に、影が落ちた。
「……え?」
驚いて見渡せば、砂浜の上の全員が空を見上げていた。
ぱたぱたぱた。上下に羽ばたく、手作り感あふれる軽そうな翼。
空を覆い隠す真っ白な──飛行機? のようなもの──が夕暮れの空に翼を広げていた。
華奢な骨組みを合わせた操縦席の中で、パイロットグラスをかけた若い男が必死でペダルを踏んでいるのが見えた。自らを鼓舞しているのだろうか、男の叫び声が空から降って来る。
「オレのオーニソプターはまだ飛べる! 飛ぶぞ! 飛びます! 飛びアサト! リウクーの空はオレのものだ飛びアサト‼ 負けるなオレはまだ飛べるっ……!」
見上げた真っ白な翼には、青いペンキで書いたTOBI★ASATO の文字が踊っているのだった。
「誰だこういうマイナーな人呼んできたのは!」
「マイナー言うな! 飛びアサトさんは地元の有名人なんだぞ!」
「わあああ落ちるよう‼」
砂浜の上で騒ぐ一団の視線の先で、華奢な両翼がぽきん、と根元から折れた。そのまま風を受けた飛行機がふわん、と海に落ちてゆく。
「あ~~もったいない!」
「おい、SUPに突っ込むぞ‼」
壊れた飛行機が一直線にアンとテーハラのSUPに向けて突っ込んでゆく。やはり空を見上げた二人は悲鳴を上げながら凍り付いていた。
「だめだ……っ!」
絶望に満ちた声をあげたアカハチの視界の隅で、何かが素早く動いた。
驚いて見つめた先では──宙に躍り出た、真っ白な牛のような、羊のような体をした不思議な生き物が、一直線にSUPに向かって天を駆けて行くのだった。
「まさかあれは……!」
驚きに息を飲むアカハチの横で、仲宗根豊見親も頷く。
「あの純白の体と対照的な気持ち悪い老爺の顔……。間違いない……!」
彼方の海で、その不思議な生き物はアンとテーハラを素早く拾い上げて背に放り投げ、さらに海に突っ込んだ飛びアサトを引っ掴んで宙に舞い上がった。
「神獣・ハクタク……!」
声を合わせたアカハチと仲宗根豊見親の見つめる前で、煌めく光の粉を撒き散らしながら神獣──ハクタクはくるりと踵を返すと、優雅に天を駆けて砂浜へ戻って来る。
浜に三人を下ろしたハクタクは、老爺の顔に満面の笑みを浮かべて自了に体をこすりつけた。自了もにこにこしながらその背を撫でてやっている。
ぽかん、とする一同に、自了は流れるような手話で説明した。
「え……召喚した? ああ、砂浜に描いた魔法陣で……? あ、なるほど……」
茫然と相槌を打つアカハチの目の前で、奇妙な神獣は砂浜の魔法陣の中に再び消えて行った──。
「今回は自了さんが大活躍だったねえ」
にっこりと笑うマツーはきょろきょろとあたりを見回した。
「そういえば、どこ行ったの自了さん? 僕たち、まだちゃんとお礼も言ってないのに……」
アカハチは肩をすくめる。
「なんかヤマトの『祭り』とかいうのに出るらしくてさ。急いで行っちまった。『アリアーケ』とか言う場所でやるらしいんだけど」
ふうん……? と首を傾げるマツーの向こうから、大声の叱責が聞こえてくる。
「こらっ、そっちじゃないわよ! もっとしっかり潜りなさい!」
沖に停泊しているのは仲宗根豊見親のプライベート・クルーザー。甲板で指示を出しているのはチルーである。優雅にパラソルの下に入っているのは乙樽と踏揚であろうか。
チルーが叱咤しているのは、ウェットスーツに身を包んだ飛びアサトとテーハラとアンである。三人とも何度も素潜りをしては、何かを船上に投げている。
「海に散らかしたプラスチックごみの責任は取ってもらうわよ! 一かけらも残すんじゃないわよ!」
「なんで我まで巻き込まれる! 我は水着が着たかっただけで、ウェットスーツなど着とうない!」
不満げに水面で怒鳴るアンの横では幸せそうなテーハラが波間に漂い、飛びアサトがシュノーケルをくわえて潜ってゆく。
「とにかく、プレオープンは大成功だったね。明日から頑張ろう。じゃんじゃん稼いでクーラー買い替えないと」
明日からマツーの経営するなーたFOODSは夏季休業。その間はこのパーラーOyake・海の家でアルバイトをしてもらうのである。
おまえは給仕の練習しろよ、と小突くアカハチをマツーは小突き返す。
「なんだい、水着なんかにデレデレしちゃってさ! 不潔だ!」
ちぇっ、とアカハチはごまかすように舌打ちすると、気を取り直したように砂浜の上で伸びをする。
「まあ、仲良くやろうぜ。海の家、結構楽しいもんな」
もう、調子いいんだから……と口を尖らせるマツーにアカハチは太陽のような笑みを向ける。
「じゃあ、いつものやるかあ!」
「……わかった。じゃあ、僕も言うからね!」
見つめ合って笑った二人は頷き、声を合わせる。
海は群青、空は快晴。
「今日も開店、パーラーOyake!」
《おしまい》