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ヤマダヒフミ自選評論集

文体と認識

 レフンという映画監督を僕は気に入っている。それで、レフンの作品というのは、一人称なのか三人称なのかわからないように描かれている場面というのがある。見ている方としては、映し出されている映像は事実なのか、それとも主人公が見ている幻想なのか、わからないようになっている。


 作品に言及すると、「ドライブ」のラスト、あるいは「ネオンデーモン」の終盤部分などはそうだ。視聴者は見ている映像が事実なのか幻想なのか、わからないままに放り出される。でも、それが気持ち悪いわけではない。(「ネオンデーモン」は内容だけ見ればグロい) それは監督の哲学であると、僕には素直に信じられるし、見ている方として違和感を抱くわけではない。


 むしろ、僕が違和感を抱くのは一般的なーー一般的に流通しやすいーー作品の方だ。例えば、「小説家になろう」のランキング上位の作品を見ていると、一人称的視点と三人称的視点を混同している作品に出会う。それは例えば、次のような文章となる。


   外の光が見えた。出口はもうすぐのようだ。息をあえがせながら歩く。

   このトンネルは百年前にファミリア王国によって作られた。その時、この場所にトンネルを作るのは無理だろうと女王は言った。


 これは僕の作文で、実際の作品にあるわけではない。が、こんな文章は頻出する。

 この文章の一行目では、作者は主人公の内面に入って、トンネル内部から外を見ている。だが、次の文章では、トンネルを外部から、神の視点から客観的に説明している。


 こうした混同が平気で行われるのは何故なのか。これは結構、難しい問題だし、場合によっては、「どうしてそれがいけないのか?」と問い詰められるだろう。実際、こうした作品も人気を博していたりするし、人気・面白さという観点からは否定できない。


 では、この混同とは何か。僕は、こうした作者は「客観的な現実」というものを素朴に信じているのではないかと思う。主人公の内側に入り込んで見る外の世界と、神の視点から見る現実世界に違いがあるとは考えていない。つまり、現実とは意識に映じた現実だという認識はなく、現実とはあくまでも客観的な現実だという考えに立っている。では、この考えはどのようなものだろうか。


 音楽家の坂本龍一と哲学者の大森荘蔵が対談した本に興味深い事実が載っている。それを例に考えてみよう。


 坂本が言うには、例えば、今、僕の場所からして左前と右前にスピーカーを置いて、同じ音を同時に流す。(短めの音) 図にすると次のよう感じ。


 スピーカー1    スピーカー2

            


 

         僕



 これでスピーカーから音を流すと、音は当然、斜め左右から聞こえるはずだが、同じ音が同時に発せられると、まるで正面から聞こえるように聞こえるらしい。つまり、スピーカーは二つではなく、一つ、正面にあるように感じられる。(スピーカーの存在を隠しておく事にしよう)


 さて、この実験の際、被験者が「前方から音が発せられた」と言うと、人は「本当は音源は二つ、斜めに配置されていた」と言う。それは、人が「客観的な事実」を知っているからだ。だが、スピーカーの存在を隠されていると、僕には目の前から音が出たようにしか聞こえない。これを「錯誤」と普通は言うが、どうしてこれが錯誤かと言うと、客観的には二つあるという事を知っているからだ。しかし、実は僕達だって、もっと大きな錯誤を犯しているとも限らない。僕達にとっての世界はより大きな意味での誤謬であって、例えば、この世界は誰かが見ている夢で、二秒後には破裂するシャボン玉のようなものかもしれない。そして、そのシャボン玉について知っている第三者がいるとすれば、僕達は錯誤して世界を見ている、と彼は言うだろう。


 こういう事について「そんな事はありえない!」という人は、自分が何故そう言っているのかについて考えてみて欲しい。その「ありえない!」という論理の外側自体に、別の論理があるという可能性を僕は言っているのだから、こうした事は簡単に否定できないはずだ。


 さて、以上のような事を考えていくと、スピーカーの音を聞いた私は、錯誤していたのだろうか。もちろん、誤っていたのだが、それは、誤っていたという事を知っている第三者がいる限りの話である。もし第三者がいなければ、「正面から音が発された」というのが「真実」という事になるだろう。


 こうして考えていくと、僕らの現実は相対的なもの、こちら側の主観が大きく作用したものだという事になる。これに関してはカントがはっきりと言明した。


 さて、話を戻すと、僕が一般的な作品について、抱いている疑問は次のような事になる。つまり、そこでは語られるべき事実は何ら疑われていない。世界は、客観的なものとしてあり、それをどの観点から描いても結構で、面白い物語を読みたい!という人は、物語を構成する事実について疑わない。作者もまた疑わない。主人公の内面から月を見た時、見えた月と、「客観的な世界」に浮かんでいる月は全く同じものとして扱われている。だからこそ、視点を内に外に移動させて、なんら不都合なく、「事実」の集積を語り、一編の物語を生む事ができる。


 認識されている事実が事実であるという思考は省かれ、事実は単に事実だ、という単純な立場に作家は立つ。これは一般的にはわかりやすいはずだ。なぜなら、僕らは皆、そんな風に現実を考えているからだ。


 現代の作家における文体の欠如というのは、作者が自分の認識に対して自意識を持っていない事の証明だと言えるかもしれない。その先に向かうのは、客観的事実の集積としての物語だ。事実は事実だ、という観点から、硬い事実を連続的に組み合わせていけば、即、僕らにわかりやすい物語となる。


 ちなみに、僕は朝吹真理子や黒田夏子に「文体」があるとは思っていない。文体とは作者の認識の現れだと考えると、彼らの文体は認識としての文体ではなく、形骸化した文学というフィルターを通して世界を見たいという屈折した欲望だと思う。つまり、そこには本当に、世界を違う目玉で見たセザンヌやゴッホと、世界をセザンヌやゴッホのような視点で見たいと思っている画家くらいの差がある。そういう風に考える。


 話を最初に戻すと、レフンの映画では途中から一人称的視点を取っている。これはレフンの認識であるのか。僕は映像を見る限り、そう言って差し支えないと思う。つまり、世界とは、主体が見た限りでの真実であると考えると、例えそれが幻想であろうと、夢であろうと、見たものは見たのだ、と言う事ができる。


 そして、主体が見た真実とは、カメラが見た真実なのかもしれない。カメラは客体的だと僕らが信じる所に、事実の連鎖としての物語が成り立つ。


 物語作者は、文体に気を払わない。物語作者は「事実」を積み重ねて、それを一つの筋にする事に気を使う。最近では「ネタバレはよくない」という声が多い。それは逆に言えば、作品の筋のみを着目して見ている人が多いという事の現れでもあるだろう。


 こうした領域では、作者の認識には注意を払われていない。作者が提出した事実を事実として信じ込み、それが物語として綺麗に構築されている事が望まれている。その構築が可能なのは、その一つ一つのブロックーー事実ーーが堅固なものだからだ。この堅固さを保証するのは、僕らが生きていて、現実世界を疑わないという共同体の習性に依拠する。僕らは客観的世界を信じる。それを信じる事は、フィクションの中では、その組み換えにより理想的な組み合わせができる事の希望へと繋がっていく。


 よくこんな声を聞く。もっと面白い話を読ませてくれ。もっとわかりやすい話にしてくれ。そうでなければプロ失格。物書き失格だ。


 僕が思うのは、例えば、セザンヌの絵やゴッホの絵は、単にわかりやすいものでないという事だ。また、それは面白くもないかもしれない。面白いもの、わかりやすいもの、それが望まれる事、あるいは、黒田夏子や朝吹真理子のように、故意に文体をひねくり回す事、ダリやマグリットのように、細部にまで認識が行き届かず、画家の着想で全体の絵を仕上げてしまうという事。そのどちらでもない道に、認識のーーつまりは、本当の芸術の道があるのではないかと思う。

 

 日本画の一流の人の絵、そこに出てくる虫とか、植物とかを見ると、実に彼らはよく自然を観察していたのだと感心する。彼らは僕らが見ていない自然を見ているが、それは同時に、画家の客観的な自然探求であったはずだ。認識というものが、作者の立ち位置を示し、作者の見た主観的真実を表すと同時に、それが僕達視聴者にも、「客観的」だと信じざるを得ない、そういう領域というのは確かに存在するように思う。


 モーツァルトの楽曲が、彼の聴いた真実を表したと考える時、僕らはモーツァルトという主観を客観的に聴く事になる。かつて確かにそのように、世界を聴いた個人はいた。それを知る時、僕らはイミテーションでもなく、僕らにおもねる面白おかしいものを作る人でもなく、それ自体、主観であると共に客観であるような存在に出会えるはずだ。


 自分独自の視点、と言うと、すぐに思い浮かぶのが「他人とは違う視点」という事で、わざと差異化を計ろうとする事だ。芸術家と呼ばれる為に、わざとそのような場所に立とうとしたり、奇妙な物の見方を「個性」と取り違える芸術家(らしき人物)もいる。それとは反対に、「わかりやすさ・面白さ」をと言う事で、僕らの視点から一歩もはみださない事を前提とした上でそれなりに高度な作品を作る人もいる。『君の名は』はそんな作品で、僕らがあの作品を受け入れたのは、そもそもあの作品が僕らの認識を最初に受け入れていたからだ。


 こうした二つの極を越えて、自分独自の認識が、客観性を帯びる事ができるような芸術作品は現在ありうるだろうか。作者の認識が文体として現れ、技法として現れる事は可能だろうか。文体が文体を目的とし、技法が技法を目的とするのではなく、文学(絵画等)を通じてのみ世界を見られないが、そこにのみ真実があるとはっきり言明できる芸術家は現れるだろうか。


 …とここまで、書いて、この先の事については、おそらくそれぞれの手に委ねられる事になるだろう。再三言うべき事は、一般的な解がないからといって、その人の解がないという事ではない、という事だ。また、その人にとっての解が僕にとっての解だとも限っていない。しかし、それは極めて興味深い解かもしれない。


 ニーチェとパスカルは似通った魂の持ち主だと思うが、それぞれの辿った道も答えも違った。全く同じ魂が違う時代、違う環境に生まれたとしたら、それらーー魂ーーは自らを証明する為に、違う形式を持つだろう。それは時に、画家の色彩に現れたり、哲学者の観念の相違となって現れるだろう。


 作者の主体的認識が作品に現れる時、それは、作者の姿を雄弁に語るものではなければならない。が、作者は自分を語る必要は少しもない。作者が世界を見つめるその目それ自体が、裏側から作者が何者であるかを証す。それは画家が自然風景を描いていながら、風景が逆に画家の目を特定するようなものだ。一視聴者としては、芸術家の自分語りなど聞きたくない。みたいのは彼の表現だ。その客体的表現こそが彼を最も雄弁に語るだろう。


 しかし、現在では既に書いたように、様々な誘惑が溢れている。現在の芸術家は、かつての画家が王や貴族につかえたように、大衆につかえなければならない運命を持っている。いくら芸術家が自分の特殊な個性を主張しても、この社会的趨勢は極めて強い。例えば「きゃりーぱみゅぱみゅ」がいくら自分をアーティストだと言っても、大衆が彼女をそのような視点で見て、扱っていない限り(そしてその視点内で運動している限り)、彼女は結局の所、アイドル、タレントでしかない。本当の芸術家はどこか取り扱いにくい印象を常に持っている。それは彼が世界に反抗しようとしているから、というより、彼が自分自身であろうとする事が必然的に世界と衝突する運命を持っているからだ。


 多くの人に面白く、わかりやすい物語を提供するアーティストは、世界の物の見方について、多くの人と物語を共有する。物語もまた一つの認識形式と考えると、物語それ自体を共有する。それは僕達の殻を破らない。むしろ、僕達の殻を肯定する。支持してくれる。


 二十世紀には、宗教から離れ、岡本太郎の言うように、芸術家は個性的な存在、自由な存在となったようだ。その行き着く先が、個性的という「良い」性格から、単に、偏執的な変わり者になったとすると、どこに問題があったのか。芸術家が芸術にのめりこむ以前に、芸術家らしい姿を構築する為に多大な努力を支払わなければならないというのはどういう事だろう。


 認識がその人の文体を表すとすると、どんな個性的な文体も「芸術らしいよね」という僕らの一般的認識に吸い込まれる、とすると、もうどんな反抗も無意味だろうか。どんな反抗も最初からシステム内部に巧妙に位置づけられているとすると、反抗する事自体が従順である事を意味してしまうのではないか。


 (年配の人が最近の若者は反抗しとらん、みたいな事を言う。そういうネットニュースを見たが、最近の若者にとっての問題はそもそも反抗する事自体が全く反抗にならない事ではないかという気がする。デモ活動もメディアに取り上げられ、すぐにシステムに吸収される。反抗自体が不可能なのが今の時代ではないか)


 …長々と書いたが、今回の愚痴はこれで切り上げようと思う。別に、現代に一流の芸術がなくても困る事はないのだろうが、個人的には困るので、こういう文章を書いてみた。現代において、認識という事が、決められた認識パターンを守るという事を意味して、なおかつ、過去の整然とした形式を破壊・解体するというのも、二十世紀に色々な芸術家によって徹底的にやられた以上、僕らの世代は何をしていいのか、さっぱりわからない。結局の所、というかやはり、この分からなさを解明する所から始める他ないのだろう。


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― 新着の感想 ―
[一言] むしろ高橋源一郎辺りが意図的にやっていたように、フィクションである事を開き直って、徹底的に現在の社会状況を書ききるような方法しか無いのでは?
[一言] まず読んで感じたのが、いかにも小林秀雄的な文章だなあということでした。彼も書きながら考えるタイプですが、この文章もそのようにして書かれている。だからその思考方法が自然と通じ合ってしまっている…
[良い点] なんだかわかったようなわからないような、やっぱりよくわかんないけど、最後まで読んじゃったので、なにかよかったんだと思います。
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