26.湖上の城の昼餐会<4/4>
「奥の壁が、歪んでいて私にははっきり見えませんでした」
「壁が?」
グランはさっきざっと見た風景を思い起こした。玉座の後ろの壁には、金そのものではないだろうが、金色に見える顔料が塗られて、手の届く所より上の部分に、鳥や動物を象った模様が均等に描かれていた気がする。エレムはあまりよく見ていなかったらしく、思いだそうと首を傾げている。
「今までに、こういう経験はあるのか? 得体の知れない力が作用してるせいで気分が悪くなったりっていうのは、普通にあることなのか?」
「いえ……ルアルグの神官は、ほとんどエルディエルを出ることがないのです。他国にも、少ないですがルアルグ教会がありますので、そこにたまに出かけていく者はありますけれど、私も国を出たのは今回が初めてですし……。エルディエルの領内には、ルアルグの神官を拒むような場所はありません」
「拒む……」
ヘイディアが無意識に使った言葉が、グランには妙に引っかかった。
神官達の扱う法術は、その属する教会の神から借りる力だ、というのが基本的な考え方だ。神の力だから、それは神聖なもののはずだ。
その神聖な力を扱う法術師に、近寄りたくないと思わせ、実際近寄ると気分が悪くなる、そんな力の源はいったいなんなのか。
……気にはなるが、今自分達がやらなければいけないのは、城の謎を解明することではない。グランは思考を振り払うように頭を振った。
この城の昼食会が何事もなく終わって、招待された側が無事に陸に戻れば、問題はないのだ。あまり余計なことを言って、変に関心を強めさせてもまずいかも知れない。
城の中から、穏やかな音楽が聞こえてきた。昼餐会が始まったのだろう。
「……大丈夫そうなら、そろそろ戻るか?」
ヘイディアはなにか言いたげにグランを見上げかけたが、やはり目が合うの避けてしまうらしく、結局うつむき加減に頷いた。
離れた場所に控えていた使用人に案内を頼み、三人はまた建物の中に戻った。昼餐会の会場は、さっきの玉座の間の前の廊下を通った先にあるという。ヘイディアの不調の原因が、玉座の間そのものにあるものとは夢にも思わない使用人は、当然ながら玉座の間を避けようとしない。さっき入った扉は開かれたままで、中にはもちろん人の気配はなかった。
また気分が悪いのがひどくなりはしないか、エレムが心配そうにヘイディアに視線を向ける。ヘイディアは相変わらず硬い表情のまま、二人の後を少し下がってついてきていたが、玉座の間の前を通りかかったところでなぜか足を止めた。
「あの」
声はグランでもエレムでもなく、使用人に向いている。振り返った使用人に、ヘイディアは固い声で言った。
「さっきはよく見られなかったので、もう一度玉座の間を見せていただいてもよいでしょうか」
「構わないと思いますけど……」
使用人は、なぜそんなに固い声なのか判らない様子ながらも、形だけは穏やかに答えた。
「壇上の玉座に近寄らなければ、特に入るのを咎められたりはしません。私では詳しいご説明はできませんが、それでもよろしいでしょうか」
「構いません」
構いませんって、体調の方が構うのではないか。というか、グランとしてはできればこの部屋は関わらずにいたいのだ。
だが、ヘイディアはこちらの視線を避けているので、当然ながら止めようとするグランの表情も見えていない。使用人は扉の横に立ち、彼らが中にはいるのを待っている。
グランとエレムは顔を見あわせたが、ヘイディアが迷う様子もなく中に入っていったので、仕方なく後に続いた。
人気のない玉座の間はさっきよりもひどく広く見えたが、もちろんグランにはただの古い豪華な部屋にしか見えない。ヘイディアは一旦足を止めると、大きく息を吸ってゆっくりと奥に進んでいく。扉の側に控えたままの使用人には聞こえないように、グランは小声でエレムに声を掛けた。
「お前には、普通に見えてるんだよな?」
「はぁ……落ち着かなくて変な感じはしますけど、さすがにものが歪んで見えたりはしないです」
ヘイディアは、多少おぼつかない足取りを、錫杖にすがってごまかすように進んでいく。さっきは入り口で立ちすくんでいただけだったのだが、なにか確かめたいことでもあるのだろうか。エレムも心配そうだが、支えようとすればさっきのような拒絶反応があるかもしれないので、手を出すのをためらっている。
不意に、廊下の遠くから人を呼ぶ声が聞こえてきた。どうやらついてきていた使用人が呼ばれたらしく、扉の横に立っていた使用人は、静かに頭を下げると呼ばれた方向に出て行った。
ヘイディアは、段差の前に張られたロープの手前でやっと立ち止まった。顔色は悪いが、さっきほどではない。
「壁じゃない……」
「ん?」
「玉座の後ろに、力の柱が……」
主のない玉座は、威厳を表すためかひどく大きい。グランは少し横に回って、玉座の後ろをのぞき見た。
どうやら、段差の上の床には、縦に並んで二つの円形の模様が描かれているようだった。ひとつは玉座の真下にあってよく見えないが、もうひとつは玉座の真後ろにあたる。大人が両手を広げたくらいの大きさで、円の縁取りの部分には、いろいろな動物を記号化したような図形が並んで描いてあった。
円の中にも、やはり記号化された花のようなものが描かれている。図形としてはありふれた形なのだろうが、初めて見るような、どこかで見た覚えがあるような、奇妙にちぐはぐな印象があった。
エレムもグランと同じ印象を受けたのだろう。自分のあごに手を当て、記憶をたどるように細めていたその眼が、不意になにかにぴんと来た様子でグランを見た。
「古代文字ですよ! たぶん、古代文字で法円が描かれていたのを、更に上から似たような形の動物の絵を描いて判らないようにしてるんです」
「ああ……」
どこかで見たと思ったら、古代文字の形だったのか。アルディラは古代文字が読めるはずだが、さすがに玉座の裏の床に描かれた図形にまで目が届かなかったのだろう。
「てことは、この花のみたいにごまかしてあるのは……『古き太陽』か?」
「そんな感じですね……なぜこんなところにこんなものが」
古代人の都市遺跡の中央部には必ず、太陽を模した壁画のある『神殿のような建物』が建っている。どういう目的で描かれたのかは未だに判っていないが、古代人にとっては重要なものであったらしい。
ただ、その太陽の絵が、壁ではなく床に描かれている例は、いまのところどんな文献にも載っていないはずだ。グランとエレムが床に描かれた『古き太陽』を見たのは、ラグランジュのありかへ続く「扉」と、その先にある普通は誰も入れない部屋の中でだった。
「文字のほうは読めるか?」
「それが……形は古代文字だというのは判るんですが、意味がいまひとつ……」
「ふーむ」
エレムに読めないのに、グランに読めるわけがない。ヘイディアは、二人がいきなり活気づいたのに驚いたらしく、気分が悪いのも忘れた様子でこちらに目を向けている。
「あんたの言う『力の柱』っていうのは、この円の上にあるのか?」
「はい……床からわき上がるように、力の柱が伸びています。その影響で、陽炎のように周りが歪んで見えます。私には、あなた方の言う『動物の絵』や『花』もはっきりとは見えません」
「そんなに強い力なのか……」
もちろんグランには全く判らない。そのままグランは、張ってあったロープを乗り越えた。
「グランさん、近づいて大丈夫なんですか?」
「俺にはなにも判らないし、危ない感じもしないんだよ。それに……」
エレムは続いてロープを乗り越えようか、戸惑っている様子だ。グランは床の模様の上で屈み込んだ。円の中の『花』の中心にあたる、床板の一枚に指を伸ばす。
「やっぱりだ。塗られた顔料のせいで判りにくくなってるが、この部分の板だけ、周りと素材が違うぞ」
「ええ?」
触れた床板の素材は、グランにはなじみのある手触りだった。同時にこれは、一般にはほとんど出回っていないはずの素材という意味だった。
グランの剣の柄と同じ素材。これ以外は、古代都市の遺跡でも、限られた場所でしか見ることができないはずの、石のような手触りの不思議な金属。
「……って、グランさん!」
どういうことなのか、思わず考え込んでいたグランは、エレムの声ではっと我に返って立ち上がった。
中央の板にグランが触れたことでなにかが反応したのか知れない。『花』の絵に隠されていた、本来の『古き太陽』の絵が乳白色の光を放ち始めたのだ。この現象も、二人は一度経験している。ラグランジュのありかへ続く『扉』が開かれたときの光だ。
だとしたら、次に起きるのは空間を転移する魔法……?!
すぐにこの光の中から出ないと、どこかに飛ばされる。判っているのに、足が動かない。
焦っているとか足がすくんでいるという意味ではない、いつもなら本当に危険な時は頭で考えなくても体が勝手に動くのに、頭の命令を完全に体が無視している。
グランの動きがおかしいのに気がついたエレムが、ロープを乗り越え、段差を掛け上がってくるのが見えた。グランを突き飛ばしてでも、円の上からどかそうと思ったのだろう。
だが、エレムがグランの体に触れたのと、一段と強まった乳白色の光が辺りの風景を真っ白に染めたのはほぼ同時だった。
強いめまいに似た浮遊感に、グランは思わず目を閉じた。