25.湖上の城の昼餐会<3/4>
「やっぱり……なんだよな」
グランは軽く左手を持ち上げ、ひらひらとさせた。やはり伯爵夫人が近づいてくると、左の手のひらがちりちりとするのだ。虫の粉で軽い痒みを感じるような、火に近づきすぎたような。
「お前はなにか……」
問われたエレムは、やはり伯爵夫人を見ても特に感じるものはないらしい。グランに向けて軽く首を振り、アルディラの従者達に目を向けた。
ヘイディアは少し離れたところに立っているのだが、表情も顔色も相変わらずで、夫人の姿を見たからといって特別に反応をした様子がなかった。
「元騎士殿と、ヘイディア殿やエレム殿とでは、引っかかる部分が違うのかも知れないな」
「かもなぁ」
キルシェが言うに、フィリスとかいう火の鳥は、グランの守護に回っているらしい。
ということは、エレム達が感じる城の違和感の原因になっているものに関しては、グラン自身に直接害を及ぼす可能性は少ない、ということなのだろうか。
そうなると、夫人自身には、一歩間違うとグランや他の者に害を及ぼすようななにかがある、ということなのか。
グランは軽く首を振った。もともと自分自身が持っていた感覚ではないから、示すものが漠然としすぎていて、グランにはあまり頼る気になれない。
ホールからゆるやかに続く階段をのぼりきると、いつの間にか城の三階部分になっていた。一階二階にある部屋は、ほとんどが使用人達の居室や作業部屋らしい。三階の屋上庭園からは町を一望でき、天気が穏やかな日はお茶会などもよくここで行うのだという。
実際通されてみると、屋上庭園と呼ぶには多少規模が小さい気はしたが、緑の圧倒的に不足なこの島で、ここだけ花や小さな木が植えられて、自然の生命の色合いが身近に感じられる。
今日はあいにくと曇り気味だが、ヒンシアの町や湖ばかりでなく、川の先にクフルの町まで望めて、確かに気持ちがよい。さすがに高さが足りないので、郊外に展開しているエルディエルとルキルアの部隊の天幕までは見えないが、川を行き交う船や、浮き橋とつながった防波堤で控えている兵士達の姿がよく見えた。アルディラが、楽しそうに岸の向こうに手を振っている。
ひととおり見える風景の説明を受け、また中に戻った一行が次に通されたのは、ヒンシア周辺がひとつの国だった頃、玉座の間として使われていた部屋だった。天井が四階までの吹き抜けになっていて、部屋自体は縦長に広い。奥の一段高い場所に玉座の為の場所があるが、今は玉座はただの飾りのようで、そこに続く階段の前に縄が張られている。玉座自体は見かけは大丈夫だが、老朽化しているので触れたりすると危ないらしい。
古いが、さすがに玉座の間というだけあって、壁も天井も豪華な装飾になっている。床に描かれた模様も、壁に描かれた絵も、ひとつひとつが歴史的資料としての価値も高そうだ。維持するのも大変そうである。
エルディエル側の一行に続いてグラン達も奥に進もうとしたら、入り口近くでヘイディアが立ちすくんでいるのに気付いた。ほかの者らは平気で中に入り、夫人に代わって説明している案内役の話に耳を傾けているのに、ヘイディアは入り口の扉をくぐっただけで、そこから奥に行こうとしない。こころなしか、顔色がさっきよりも悪い。
さすがにまずいんじゃないのか、とグランがエレムに耳打ちするより先に、エレムがヘイディアの方に近寄っていった。妙に真剣な表情だ。
気付いたヘイディアが、顔色は悪いながらも淡々とした視線を向ける。
「ヘイディアさん、無理しないでここは廊下で待っていたほうがいいですよ」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃなさそうだから言ってるんじゃないですか」
小声で言っているエレム自身も、あまり絶好調とは言い難い顔つきだ。ヘイディアは頑なに首を振ると、エレムから離れるように奥に向かって一歩進もうとした。見ているだけで、足下が頼りない。
「無理してはだめで……」
「触らないで!」
支えようと伸ばしたエレムの手を、思わずといった感じでヘイディアが振り払った。近くにいた何人かの従者が驚いたように振り返る。ヘイディアは自分の口から出た言葉に自分で驚いた様子で、うろたえたように周囲を見回した。
それまで黙って様子を見ていたエスツファが、近くにいた館の使用人に軽く手を挙げた。
「……すまぬが、このご婦人を少し風通しのよいところに案内していただけぬかな。エレム殿と元騎士殿も少しついてて差し上げるといい」
「いえ、私は大丈夫にございます」
「いいから少し場を外しておられよ。オルクェル殿には適当に話をしておくから」
気遣っているようで、エスツファの声は有無を言わせない。エレムの調子が悪そうなのも判っているのだろう。ヘイディアは気圧された様子で頷いた。
結局さっきの屋上庭園に、グラン達は逆戻りである。椅子に座り、使用人の持ってきた水を少し飲むと、ヘイディアも幾分気分が持ち直したらしい。顔色が悪いのは相変わらずだが、さっきよりはましだった。
「……さっきの玉座の間ですね、入ったとたん、今まで感じていた違和感というか、変な感じが強まったんです。なので、ヘイディアさんはもっときついんじゃないかと思ったんです」
使用人を少し遠ざけると、ヘイディアと同じ長椅子に、距離を置いて腰掛けてエレムが言った。エレム自身も、さっきよりはだいぶ顔色がマシになっている。
「嫌な思いをさせる気はなかったんです。すみません」
「いいえ、私こそ大きな声を上げて申し訳ございませんでした」
口だけでは謝っているものの、ヘイディアは相変わらずグランともエレムとも目をあわせずに、淡々とした表情で前を眺めている。エレムだって謝ることはないのに、ヘイディアがなにが気に入らないのか判らないからか、なんだかおどおどした様子だ。
「……あんたさぁ」
近くのテーブルに軽くもたれて話を聞いていたグランは、腕組みをしたまま軽く首を傾げた。
「ひょっとして、人が怖いんじゃないか?」
「そ、そんなことはございません!」
ヘイディアはいきなり顔を上げて、叩きつけるように答えた。すぐに慌てた様子で口元を押さえる。
また視線を落としたヘイディアを、エレムが目を丸くして見返した。グランは逆に納得して頷いた。
「やっぱりそうか。特に自分の年齢に近い男がダメなんじゃないかと思うんだが?」
「そんなことはありません……」
ヘイディアはうつむき加減のまま力なく首を振った。それはそのまま肯定の返事だった。エレムが問うようにグランを見上げる。
「どうして気付いたんですか?」
「いやまぁ……最初はただ気位が高いだけなのかと思ってたんだが」
グランは軽く息をついた。
「気位が高いだけなら、クフルに子どもを捜しに行くのに、俺について来ないで自分一人で行ったろうし、帰ってから俺に礼も言わないだろうなと思ったんだよ。それに、どう見たって俺より無害なお前の方が、扱われ方がひどいだろ。これは身分とか関係ねぇなと思ったら、無表情の意味がやっとわかった」
お高くとまっていたわけではなく、単純に、怖さを隠すために無表情になっていただけだったのだろう。ほかの者たちから常に離れているのも、「あんな奴らと一緒にして欲しくない」というものではなく、ただ近寄れないのだ。怖くて。
ヘイディアはあいかわらずうつむき加減で黙ったままだが、今はもう無表情と言うよりは、途方に暮れたような顔つきだ。対人恐怖の気があるのを人に知られるのは恥ずかしい、とでも思っていたのかも知れない。
「なぁんだ、そうだったんですか」
エレムは逆に、ほっとした様子で笑みを見せた。
「知らないうちに僕らがなにか失礼なことをして、気分を悪くされてたのかと思ってました。そういうことなら、しょうがないですよね」
ヘイディアは、意外なことを聞いたとでも言うようにエレムを見返すと、目が合ったことでまた気後れしたように視線を戻した。人と接することが苦手な人間は、まず目を合わせて話すのが苦手なものだから、これくらいは仕方ないのかも知れない。
「……まぁそれはそれとして、あの部屋、なんかあったのか?」
「なにかというか……」
エレムは少し考えるように、自分のこめかみに指を当てた。
「僕には、最初から感じてた変な雰囲気が強まった、くらいしか。落ち着かなくて、そこにいたくないというか……でも、なにがそう思わせるのかは相変わらずわかりません」
「玉座の奥の……」
なにかをこらえるように目を伏せて、ヘイディアが言葉を継いだ。