9.湖上の城と水の街<後>
レマイナ教会の神官は、医療の知識に長けているので、併設されている診療所では状況によっては安価で病気や怪我を診てくれる。もちろん町医者との兼ね合いもあるから、なんでも安く面倒を見るわけではないが、災害や疫病の時などはいちはやく教会の診療団を手配してもらえるなど心強く、どの町でもレマイナ教会はありがたがるものなのだ。今まで無かったのなら、なおさら歓迎されそうなものだ。
とりあえずおおまかな町の様子は判ったので、三人は船着き場を出た。
町の外で駐留しているルキルアの部隊に顔を出さないといけないのだが、その前にせっかく近くまで来たので、湖畔から城を眺めてみることにした。
ランジュは橋を渡るのも面白いらしく、アルディラにもらった麦わら帽子のつばを両手で押さえながら、ぱたぱた先に立って駆けていく。よほど気に入ったのか、ちいさな鞄も斜めがけにして、それにうさぎの人形を押し込んで一緒に連れ歩いていた。
橋を渡った先は細長い出島のような作りになっている。これが海なら、防波堤と呼んでも差し支えないのかも知れない。かなり横長に広く、観光用の展望広場も兼ねているらしく街灯も備え付けられてあった。街中を周回する乗合馬車の停車場もあり、旅人や散策に来る町の人間を当て込んだらしい露店もあちこちに立っている。
混雑というほどでもないが、人出もそこそこある。やはり湖上の城を望めるこの場所は、ちょっとした町の名所なのだろう。
島へ続く浮き橋の入り口らしい柵や鉄の門も見えたが、ここからだと結構な距離だ。今回はそこまで行くのはやめにして、三人は手近なところから湖を眺めた。
確かに、城への荷を運んでいるらしい船があるだけで、釣りをしているような船もない。
湖の、どちらかといえば対岸寄りに小さな島があり、その上に風情のある古城が建てられていた。確かに夕焼けや月明かりの下で見る分には趣がありそうだが、明るい日差しの下では相当年代物なのがよく判る。浮き橋もあるとはいえ、あまり住むのに便利そうな場所には見えない。
「……どうした?」
柵にしがみつくように湖を眺めているランジュとは対照的に、なぜかエレムは柵の近くに寄ろうとしない。なんとなく気味悪そうな目で城を眺めている。
「いえ……なんだか、雰囲気の良くない城だなぁと」
「そうかぁ?」
確かに古いは古いが、特に不気味な外観でもない。よく晴れた夏の空の下で見るからなおさらである。周りにいるほかの者は、気持ちよさそうに湖からの風に吹かれながら散策したり、椅子に腰掛けたりと、ごく普通の様子だ。
エレムも自分がなぜそう感じるのかまでは判らないようで、首を傾げつつもやはり端までは近寄ろうとしない。
「ま、一度ルスティナ達に顔出してからまた来るか」
「そうですね……」
ランジュはすぐに、湖上の城の風景には興味を失ったようだ。すり下ろした魚の身を練って串に刺して焼いている露店の前で物欲しそうにしているのを見つけて、慌ててエレムが駆け寄っていく。ランジュは本当に、食べるのが好きなのだ。
「お嬢ちゃん、一本買ってあげるからおじさんと遊ばないか」
露店の向こうから声をかけられ、ランジュが目をぱちくりさせながら首を向けた。人混みの中で三人を見つけたのか、数人の若い兵士を連れたエスツファがこちらに近づいてくる。どうでもいいが、知らない者が聞いたら不審者扱いされかねない。
「あんた達はどこにいても目立つなぁ。ずいぶん早いが船で来たのか?」
「はい、ついさっき」
「そうか、嬢ちゃんも船に乗れて良かったな」
言いながらランジュをひょいと抱き上げ、露店に並んでいる串のどれが欲しいか選ばせてやっている。
「あんたはなにしてんだ?」
「おれは今日明日は、市街の巡回だよ。悪ささえしなきゃ休暇中の奴らがなにをしてても構わんのだが、エルディエルの部隊の手前もあるから、それなりに監督してますよってところは見せておかないとな」
にやりと笑うエスツファの口調には、やはりどこかしらいい加減さが漂う。
「雑魚寝でいいなら兵士用の宿を取ってあるから、部隊の天幕には戻らなくてもいいぞ。浴場もあるし、天幕にいるよりは休んだ気分になれるだろう」
「お休みは一人一日では?」
「あんた達には、いつ急にお呼びがかかるかも判らないからな。休めるときは休んでおけばいい。特に元騎士殿」
同じ町にいるのだから、いつまた気まぐれにアルディラから声がかかるかも知れないという事か。お断りだが充分あり得る話ではある。
「もちろんほかの場所に泊まるのも自由だが、あんまり派手に遊んでエルディエルの従者なんかに見つかったら、姫のご機嫌に関わるんじゃないか。特に元騎士殿」
返事に詰まったグランの横で、エレムがさもありなんといった顔で頷いた。
そうだった、エルディエルの者たちもこの三日間、この町で交代で休暇をもらうはずだ。グランは昨日の件で、アルディラ付きの従者達に顔が割れている。自分がアルディラのご機嫌取りに気を遣う必要は全くないはずなのだが、あのじゃじゃ馬の機嫌をこじらせたら、また面倒なことになりそうだ。
今からでも俺一人でクフルまで戻るかな……。ちらっと思ってしまったが、
「そういえば昨日、ちょっと気になる事があったんですよ」
アルディラの話で思い出したのか、エレムが多少声をひそめてエスツファに切り出した。
周りを気にするような態度に気付き、エスツファは少し下がって待っていた兵士達に少しその辺を歩いてくるように声をかけ、露店から少し離れた場所に作り付けられている石の長椅子にランジュを座らせた。
「……領主が魔女と。ふうむ……」
昨日のクフルでの、ヘイディアと町の子どもとの一件を聞かされ、エスツファはどう受け取っていいか判らない様子で腕組みした。
「四〇歳を越えているのに、二十代そこそこにしか見えないとは確かに不自然であるな。成熟した女人には、娘の時とは別の良さがあるのに、もったいないものだ」
「なんの心配だよ」
「まぁそれは冗談として」
あながち冗談ではなさそうに言いながら、エスツファはエレムを見返した。
「やはり、それだけではなんとも言い難いな。単に、領主が若さと美しさを必死で保とうとしているのを揶揄した大人の言葉を、子どもが真に受けているだけかも知れぬし」
「はぁ……」
「エレム殿は元騎士殿と違って真面目で心優しいから気になってしまうのだろうが、あまり深く考えなくても良いのではないか?」
「いちいち俺を引き合いに出すな」
エレムは曖昧に頷いたものの、やはり納得いかなそうな顔で、湖に目を向けた。
「でも、見てるだけでやっぱり、いい気持ちがしない城なんですよ。これもただの先入観でしょうか」
「うーん……」
戦士の勘とか、女の勘だとか言われる、いわゆる直感的に感じる印象はなかなか侮れないものだと、グランは思っている。
初めて見た時、瞬間的に、「こいつはやばい」「この場所は危ない」と思わされるものがたまにある。だが、なぜそう感じるのか、その時は自分でも判らないことが多い。
それが、後になって腑に落ちる裏付けがいくつも出てきて、やはり最初の印象は正しかったと改めて驚くことがままあるものだ。
自分自身の過去の経験や持っている情報が裏付けになっているのに、その裏付けになるものを自分自身ですぐに記憶から探り出すことができない。直感というのはそういうものではないかと、グランは思っている。
エレムがこうも、子どもの訴えが妙に気にかかる、城の印象が悪い、と言うのなら、今ははっきりと気がついていないだけで、それなりの理由があるのかも知れない。
「……僕、役場に行って、あの城のことを調べてきたいと思うんですけど、いいでしょうか」
「おれは別に構わぬが……」
エスツファは言いながら、伺うようにグランを見た。
「元騎士殿はどうする? 嬢ちゃんは散歩がてら、こちらで見ていてもいいが」
エレムがランジュを見ているというならともかく、半分仕事のエスツファにランジュを押しつけて、自分は遊び回るというのもなんだか落ち着かない。嬉しげに串にかじりついているランジュを見て、グランは息をついた。
「……俺はとりあえず、ルスティナに昨日の報告にいってくる。その間だけ頼むかな」
「まぁ、元騎士殿が遊びに行くなら夜の方がいいか」
エスツファはしたり顔で頷いている。余計なお世話である。