8.湖上の城と水の街<前>
ヒンシアは、クフルの側に流れるメルテ川沿いの下流にある。
ヒンシアにある湖は、今でこそメルテ川とつながっているが、古い地図で見ると島の周囲だけが沼になっていて、川とは独立している。大きさも、今の湖の三分の一ほどでしかなかったのだそうだ。
古い戦乱の時代、町は敵軍に包囲され、地形を利用した水攻めを受けた。しかし周囲が水浸しになり、川岸にあった町の半分が沈んでも、沼の中央にある島に建つ城には水が届かなかった。周囲に満ちた水のために、逆に攻撃側が手を出せない状態になったところで援軍が来て、島の上の城も、城に逃げ込んだ住人達も無事のままだった。
その当時の水攻めに使われた堤を利用して水門がもうけられ、沼は湖となって川とつながり、その岸に改めて町が広がって、城は今も当時の姿のまま、湖の上に浮かんでいる。
……という話を、ヒンシアとクフルを行き来する船の船頭が、景色を案内するついでに教えてくれた。船にはグラン達のほかにも、商人や町の住人らしい者らが数人と、船員が数名乗っている。
クフルとヒンシアの間では、陸を使って荷馬車で輸送するよりも、船の方が早いのだという。
クフルで荷を降ろし、ヒンシアに一度戻るところらしく、本来は荷が山積みになっているはずの場所に、今は人間を乗せているのだ。ヒンシアは下流なので、舵を取る以外はほとんどすることもないらしく、船員ものんびりしたものである。
天気はいいが、水の上なので風が心地よい。ランジュは船に乗るのが嬉しいらしく、時折すれ違ったり追い抜いていくほかの船に手を振ったり、魚が跳ねるのを指さしたりと楽しそうにしている。
「ヒンシアに住んでいる領主様は、とてもお美しい女性だそうですね」
ランジュがはしゃぎすぎて帽子やものを落とさないように気を遣いながら、エレムが船頭に問いかける。多少年配の、ずんぐりむっくりとした印象の船頭は、だいぶ薄くなって陽に焼けた頭を撫でながら笑った。
「あんた、よく知ってるねぇ。オレたちみたいなのが姿を見る機会はほとんどないが、一度城に荷を降ろしに行った知り合いが見かけたとかで、えらい驚いてたよ。いまは領主様の長男がヒンシアの市長をやってるんだが、その市長の奥さんよりもお若く見えるくらいなんだそうだ」
「へぇ……」
「市長も男前だから、あれは母親に似たんだね。でも、あんたのほうがいい男かも知れないよ」
最後のは、船縁に腰をかけて風に吹かれていたグランに向けてである。グランは黙って軽く笑った。自分よりいい男など、そうそういるものではない。
「息子さん達は市街の別の場所にいるって聞きましたけど、どうしてご一緒に城で住まわれてないんでしょうね。湖上のすばらしい城だって聞きましたけど」
「そりゃ見た目は綺麗だけど、古い城だからねぇ」
グランが照れもせず受け流したので多少気の抜けた様子ながら、船頭はエレムの問いに愛想良く答えている。
「水場の上だし、住むとやっぱりじめじめして、冬なんかは大変らしいよ。それに、浮き橋か船じゃないと入れないのは不便だからね。領主様は、旦那との思い出の場所だからって離れたがらないんだそうだが、その割に若くてきれいな男女をはべらせて楽しんでおられるようだよ」
「はぁ……」
「表向きは客好き世話好きってことで、下級貴族や旅人まで気さくに招いて宿を世話をしてるってことになってるがね。あの美貌で独り身なら、そういうこともあろうさ」
船頭がからから笑ったので、エレムも曖昧に笑みをつくって頷いている。金も時間も余っている貴族のすることなど、どこに行ってもたいがい変わらないものだ。
喋っているうちに、だんだんとヒンシアの町が近づいてきた。こちらは川面から望む形になるので全体の形はよく判らないが、湖は人工の割になかなか広い。
人工湖のほとりに町ができているだけの、単純な形かと思ったらそうでもないらしい。船の上から、湖の上の島が見えたのはほんの少しの間で、船は街の中を通るもうひとつ川のような水路をたどり、いくつかの石造りの橋をくぐってようやく船着き場に降ろされた。あとで地図でも見てみないとはっきりとは判らないが、どうも川岸と湖の島との間に、もうひとつ出島があるような様子だ。
川に直接つながっているので水路はそんなに狭くはないが、橋との兼ね合いもあって、町中の船着き場にはあまり大型の船は入れないようだ。停まっているのはグラン達が乗ってきたような、せいぜい十数人が乗れる程度の運搬船ばかりだ。
荷のほかに人間も乗せてきたので、船が接岸したところには検問の衛兵が待ちかまえていた。大きい町だと、こうしてよそ者から取り立てる通行税も立派な収入源なのだ。
だがグラン達は、事前にエルディエル側からヒンシアの衛兵に話が通っていたらしく、すんなり船を下りるのを許された。ここで上陸が許可されなかった者は、町の外の船着き場に放り出されるらしい。そちらなら、もう少し大きな船も停まれるという。
船着き場は、街全体の高さよりも一段低く作られているようだ。周りには背の高い柵があって、船着き場から町に入るには、ひとつ門を通らなければならない。その門の横が衛兵の詰め所になっていた。
町の中にも水路があって、小船が行き来しているのが見えるが、川から直接水路に乗り入れるのには別の許可が要るという。大きさにも制限があるようだ。
どうやらここの船着き場は、クフルと違って、許可のない者は簡単に出入りできないようになっているらしい。湖上に領主の城があるせいかも知れないが、せっかく湖があるのに気軽に船も出せないのでは、町の人間は魚釣りもままならないのではないか。
「この町の人間で、船まで出して湖で釣りをしたいと思う奴なんかいないよ」
詰め所で観光用の地図を見せてもらいながら訊ねたら、中年の衛兵は笑いながら顔の前で手を振った。
「湖には、魚がほとんどいないんだよ。いるのは川から入り込んだやつぐらいで、湖に棲んで殖える魚はいないんだ。別に水が悪いわけでもないんだが、昔からそうなんだよ」
「へぇ……」
「釣りをしたいなら、水路の脇で糸を垂れてた方がよっぽどいいよ。川から入ってくる魚がかかるからね」
見せてもらった町の地図は、思っていたのとは少し違った地形が描かれている。
漠然と、川にくっついた丸い湖のように想像していて、それはあながち外れてはいなかった。想像と違うのは、町のある岸と、湖の上にある島を隔てるように、更にもうひとつ細長い島のような陸地があることだった。水路を隔てた湖側の、橋でつながれた場所だ。
幅は本来の川幅の三分の一ほどで、もとは、湖がまだ川と離れて沼として存在していた頃、川の中州になっていた場所を出島として埋め立てたものだという。橋を越えて入るのは自由だが、出島には湖上の城へ続く浮き橋の入り口があるので、その付近だけは、許可のない者は近寄れないらしい。
「……あれ?」
なにを探していたのか、一緒に地図を眺めていたエレムが怪訝そうに顔を上げた。
「レマイナ教会はどこですか?」
「ああ、よく聞かれるんだけど、この町に教会はないよ」
「レマイナ以外のもですか? これだけの規模の町なのに?」
エレムは大地の女神であるレマイナの神官だから、行く先々の町に教会があれば必ず顔を出しに行く。レマイナ教会は大陸中央部では結構よく見かける部類で、どんな国にも必ず一つ二つは教会がある。
「何度か打診はあったようだがね。今までもなかったから特に不便はないってことで、落ち着くようだよ」
「そういうものなんですかねぇ……」
どうも納得がいかなそうに、エレムは首を傾げた。