22.皓月将軍の休日<後>
「雷雲と言うからには、雷が落ちるじゃないですか」
「そりゃそうだ」
「で、法術で呼んだ雷雲から雷が落ちた草原に、火事が起きた記述があるんですよ」
「ああ……」
よほど水が足りないから雨を呼びたいと思うのだ。ということは、水不足で草原の草木も枯れかかっていた中に雷が落ちて火がついた、という状況もあり得る。雷がなぜ火を呼ぶのかはグランもよく判らないが、実際に雷が原因と思われる山火事も多い。
そういえば、火打ち石で火をおこしたり、剣の打ち合いや斧が金属鎧をこするときなどにも、雷に似た火花を放つ。雷のあの光の中にも、火の成分があるのかもしれない。
「そうすると、あの四本腕の神様にも、雷を呼ぶ力があるかも知れない、ってことか……?」
「その辺はなんとも言えないんですが、もしそうだとしたら、雷がなにかの拍子に火を起こすということは、あるかも知れないですよね」
「うーん……」
キルシェの操る火の鳥は、燃えるものもないまま自在に空を飛んでいた。それなら、雲のないところでも雷を起こせる魔法というのも、あるのかもしれない。
しかし雨を伴わない雷というのは、農耕神的に意味があるのだろうか。いや、あの像の「神」と言われる存在自体、人間が勝手に農耕神として祀っているだけで、実際は神でもなんでもない、ということもあり得る。
……結局、雷の話以外は、なにが判ったというわけでもない。そこまで調子よく話していたエレムも、それ以上は考えようがなくなったらしく、グランと一緒に黙り込んだ。
とにかく、ルスティナが髪を整えてしまえば、あとはエスツファ達に追いつくだけだ。行き倒れに関して、あれこれ考える理由もなくなる。
そう思ってルスティナに目をやると、巻き上げられた髪をほどかれて、大きなブラシで全体を梳かれていた。やっと一段落ついたらしい。
どこか納得いかなそうなルスティナの様子とは対照的に、店の女はとても満足そうである。
「なにか不思議な感じなのだが」
「とてもよくお似合いですよ」
言いながら、店の女はケープを取り払い、隙間から入り込んで服についた細かな髪を払っている。ルスティナは鏡の中の自分を見て少し首を傾げると、あまり気が進まなそうな動きで立ち上がった。困った様子でグラン達に体を向ける。
「どうであろう? 焦げたところはとてもうまくやってもらえたと思うのだが」
ならいいんじゃねぇの。と適当に返事をしようとルスティナに顔を向け、グランは言葉を失った。
確かに髪の方は、焦げた部分を切って全体を合わせた程度で、少し軽くなったくらいの変化である。違うのは、顔の印象なのだ。
なぜだろう、おしろいをはたいたとか、頬紅を乗せたとかいう判りやすいものではない。唇に紅はさしてあるが、そんなものは今までもやっていたので驚くことではないはずだ。
強いて言うなら、目鼻立ちが、さっきよりもくっきりしている気がする。しかし理由がさっぱり判らない。
「お顔と生えぎわのうぶ毛を剃って、眉の形を整えたんですよ。あと剃った後のお肌に糸瓜水をつけましたけど」
それだけで顔の印象が違って見えるのか。心なしか顔色も良くなって見える。いや、今まで顔色が悪かったというわけではなくて、なんだか肌の色が明るくなった気がするのだ。なんというか、これは……
「いやぁ、もともとお美しいですけど、いっそうお綺麗になられてますよ」
立ち上がったエレムが、脳天気に賞賛の声を上げた。人当たりのよいエレムは、たまにしれっと、こういう社交辞令めいたことを口にする。
ルスティナは困惑した様子で、鏡を使わなければ見えもしない自分の顔を見ようとするかのように、落ちつかなげに首を巡らせていた。
「そうであるかな。しなれないことをするなと皆に笑われぬかな」
「そんなことないですよ、ねぇ、グランさん」
俺に話を振るな、答えなきゃいけなくなるだろうが。言葉もなくルスティナを眺めていたグランの視線は、どこか不安そうな目のルスティナに捕らえられてしまった。思わず目をそらしそうになるのを必死で堪えながら、グランはなるべくそっけなく頷いた。
「お……男だって床屋で顔を剃るんだし、同じようなもんだろ。誰もおかしいなんて言わねぇよ」
「ああ、それもそうであるな」
こちらが拍子抜けするほどあっさり納得して、ルスティナは今度は鏡を見ながら自分の頬に指を触れている。エレムが妙に責めるような目でグランを見た。
「この水はさっぱりとしていて良いものであるな。顔を洗った後に使えと、城の侍女達が似たようなものを持ってきてくれるのだが、妙に匂いがきつかったりべとべとしていて、あまり好かぬのだ」
それは、その糸瓜水とかいうのよりも、いろいろと肌にいいものが入っている高価なものなのではないのか。グランは次女達の心中を察して同情したくなった。美しいが飾り気のないルスティナを、侍女たちもあれこれ心配してやっているのだろう。
「閣下は普段おしろいも使わないようだから、お肌もお綺麗ですものね。かえってこれくらい簡単なものが、楽に使えていいかも知れませんよ」
ルスティナは少しの間鏡を眺めていたが、なにを思いだしたのか、あっというようにグランに視線を戻した。横顔を眺めていたのがばれたのかと思って、思わず居住まいを正してしまったが、
「グランにすっかり荷物番をさせてしまったな、すまなかった」
「あ、いや」
慌てる必要もないのだが、つられてグランは急いで立ち上がり、預かっていた剣を手渡した。帯きなおしたところで、マントを肩にかけてやると、さっきまではなかった香りがほのかに鼻先に触れるのに気付いた。髪を梳くときに霧吹きで吹いていた水に、なにかの花の香りでもつけてあったのかも知れない。
店の女は、グランの髪もいじりたそうだったが、これ以上時間をとられても困る。やっと勘定を済ませて店の外に出ると、見物に集まっていた街の者たちが、ルスティナを見て軽くざわめいた。
女の将官というだけでも珍しいのに、ルスティナは男の将官と変わらない形の服とマントを着こなす、見た目は颯爽とした美人なのだ。普段から半月将軍だの皓月将軍だのと言われて人気も高いのに、理髪師の女が気を利かせたせいで見栄えが増しているものだから、若い娘達までうっとりとした様子でルスティナに目を奪われている。本人は単純に、異国の軍人が珍しいだけなのだろうとでも思っているようだが。
ほかには特に買いものの用もない。さして見るところもない田舎町なので、三人はすぐに町の出口へと向かった。門の前では、年かさの衛兵が若い兵士達と退屈そうに立ち話をしている。グラン達に気付くと、近くの粗末な詰め所に三人を手招きした。
「さっきの話の後、改めて行き倒れた男の荷物を調べてみたんですけどね」
粗末なテーブルの上に、年季の入った荷物袋を置いて、衛兵は中身を広げて見せた。中に入っていたのは、使い古した水筒に、簡単な生活道具が放り込まれた布袋と、家族とやりとりしていたらしい手紙が何枚かくらいである。衛兵が布袋を開くと、歯磨きのための棒やカップと一緒に、薬らしい紙包みがいくつか入った小さな紙袋が出てきた。紙袋には、処方した店の名前と、薬の名前らしいものが書き付けてある。
「……心臓の薬?」
薬の名前を確認したあと、紙包みのなかの薬の匂いをかいで、エレムは小さく頷いた。
「胸の動悸や息切れを和らげる薬ですよ。ひょっとして、行き倒れた直接の理由は、胸の持病のせいだったのかも知れないですね」
「意識が戻って薬を飲もうとしたのに、荷物を持ち去られていて、薬が飲めなかったのか……?」
「それで助けを求めて、人がいそうな建物に向かって歩いていって、途中で力尽きたというところであろうか」
「街道でそのまま倒れていれば、ほかの通行人は知らない振りをしたとしても、エルディエルの部隊が通りかかって見つけていたはずだったのに……。下手に街道から集落側にそれてしまったから、発見が遅くなってしまったんですね」
グラン達が見た時、死体は死んでからそれほど時間は経っていない様子だった。エルディエルの部隊の先頭があの辺りを通りかかった頃は、きっとまだ生きていただろう。
当人には不運が重なったとしか言いようがない。エレムは気の毒そうな顔で、紙包みを元に戻した。
「それと、家族に当てて書かれた手紙の中に、『家族の誰かのための贈り物を買ったからこの手紙と一緒に送る』という文があるのですが」
言いながら、比較的新しい紙にかかれた手紙を、年かさの衛兵が広げる。
「この手紙があるということは、その贈り物も入っていなければいけないのに、それがないのです。荷物を持ち去ったものが抜き取ってしまったのでしょう」
手紙の中には、「自分は期日までには帰れないが、この髪飾りを使ってほしい」という一文がある。
読み書きはできても、どうやらあまり言葉の巧みな者ではないらしく、その期日の日になにが行われるか、誰に使って欲しいのかまでは書いていなかった。
「この男は長い間仕事で自分の家から離れていたようで、なにかのために戻る途中だったと思われるのです。宛先の町は、ここからだとそれほど遠い場所でもないので、ひょっとして手紙は書いたものの、急げば期日に間に合うと思って手紙を出していなかったのかも知れません」
「なんだか……やりきれない話ですね」
エレムの言葉に、ルスティナもため息を隠すように頷いた。年かさの衛兵はそんな二人を、真面目な目つきで見返した。
「正直言って、私ら衛兵も今までは、強盗ですらない小さな盗難だと、あまり深く考えてなかったのです。犯人も通りすがりの者と決めつけて、ろくに調べようとは思いませんでした。今回のことだって、たかが行き倒れだと思って深く考えておりませんでした」
朝、死体を回収に来たときとは顔つきがまるで違う。グラン達のことだって、こんな行き倒れにどうして、といった様子だったのだ。
「それなのに、通りすがりでまったく関係のないはずのルキルアの皆さんが、我々よりも親身に遺体のことを考えて、一晩遺体に付き添って下さった。我々に引き渡した後も、あれこれ亡くなった経緯を推測して、今もこうやって同情までしておられる」
「……」
「思えば、倒れた者を介抱もせず荷物を奪うような行為が続くのを、軽視していた我々もいけなかったのです。もっと警戒して、人々にも互いを気遣うよう呼びかけておれば、人が死ぬような事態にはならなかったのかも知れません。我々は街道を護る兵として、もっと民や旅人の安全に気を配るべきでした。それを他国の将である閣下に教えていただくことになるとは、お恥ずかしい限りであります」
「我らのは、ただの物見高さの延長に過ぎぬよ」
言いながらル、スティナは柔らかく目を細めた。
「しかしそなたらが、被害にあった者達の気持ちや事情を気にかけるきっかけになったというのであるなら、我らのしたことも無駄ではなかったのであろう」
「はっ……」
「そなたのように、民を思いやれる兵士が増えれば、自ずと民の意識も高まるものだ。民同士がもっと互いを思いやれるようになれば、街道の治安は今以上に良くなっていくであろう。無理をすることはないが、己の心に恥じぬ仕事を心がけるがよい」
ひとまわり以上年の若いルスティナの言葉を、衛兵はなんの抵抗もなく、むしろ崇拝に近い敬意すら見えるまなざしで拝聴している。エレムまで感動に声もない様子だ。
いつの間にか、建物の外にはほかの衛兵達まで寄ってきて、それこそ女神でも見るような顔でルスティナの言葉に耳を傾けていた。これも人の上に立つ者に必要な、才能のひとつなのかも知れない。