副官フォルツの勇壮なる帰還<10>
ルキルア城の本館から伸びる渡り廊下を歩くと、左手に陽光宮、右手に月花宮がある。ほぼ崩壊した上部は解体され、瓦礫も運び出されて、月花宮は以前よりだいぶ背が低くなった。
その月花宮に寄り添うように、ガラス張りの温室があり、その手前には南国の草花を集めた庭園がある。カイル王子が前妃から引き継いだ、偏執的……こだわりのある提案だ。
アルディラは渡り廊下を歩きながら、ぼんやりとその庭を見下ろした。
護衛役の眼鏡の副官と、エルディエルの騎士が距離を置いてついてくるが、案内役というわけではないので、基本的にこちらから声をかけないと近寄ってこない。アルディラも、遠巻きに注意を払われながらの行動は普段から慣れているので、特に煩わしく思ったりもしない。
庭での騒ぎが終わった後の、夕刻までの『自由時間』だった。
眼鏡の副官に、「なにかご要望はございますか」と問われたので『城内を探検してみたい』と答えたら、こういうことになったのだ。普通の国は『見学』と解釈して、宰相なりがつきっきりで案内したりするのだが、どうやらあの堅物、『探検』をそのままの字面で解釈したらしい。
どこまで『探検』させてもらえるものかと、午前中に子供達が整列していた中庭をうろついたり、騎兵隊用の厩舎に顔を出して世話係に話を聞いたり、城壁の上まで階段で上って城下を見下ろしたりしたが、危険さえなければ構わないという方針らしく、なにも咎められず、行き先の提案もされない代わりに、口も出されなかった。
多分陽光宮が健在だったであろう頃は、既に日が陰っていたであろうこの時刻も、先の騒動で傾いた陽光もまだ穏やかに差し込んで、南国風の庭は緑鮮やかに輝いている。
その片隅、渡り廊下から降りるための石段に腰掛けて、小さな背中をこちらに向けた子供が膝に乗せた大きな板を机代わりに黒鉛で絵を描いていた。
庭の様子を描いているのかと、手すり越しに上からのぞき込んでみたが、どうも目の前に広がる光景とは全く違う絵のようだ。ただの風景画ではなく、空想的な花畑のような構図だ。
着ているシャツとズボンも、粗末ではないが、微妙に着丈があっておらず、袖も裾も折って止めている。城に出入りできるような貴族の子供なら、きちんと着丈に合わせて仕立てられたものを身につけるはずだ。
しばらく黙って眺めていたら、庭園の奥から麻袋を抱えた少年が現れた。庭師かその弟子かと思ったら、庭園の主であるカイルである。
カイルは目をぱちくりさせた後、ああ、となにかに思い当たったようで笑みを作った。そのまま地面に麻袋を置くと、アルディラに声をかける代わりに、伸ばした人差し指を口の前に立て、少し離れた場所にもうけられた、庭に降りられる階段を手振りで示した。どうやら、絵を描いている子供の邪魔をしないようにという配慮らしい。
使用人が扉を開け、庭に招き入れる。少し遅れてやってきたカイルは、手を拭いていたタオルを使用人に預けると、気持ち小声で目を細めた。
「姫、お散歩ですか」
「ええ、せっかくなので探検させていただいてます」
「探検ですか、小さな城だから、あっというまだったでしょう。」
謙遜でもなく、へりくだりでもなく、事実を述べているだけのようだ。嫌みのない穏やかな口調に、アルディラも笑みを見せ、階段に腰掛けて絵を描く子供に目を向けた。
「彼はどちらのご子息なのですか?」
「ああ、あの子供は、お昼にご挨拶させていただいた、レマイナ教会の孤児院の子です。絵が得意で、できれば絵の勉強をしてみたいというので、時々城に来てもらって、僕の庭の草花の記録をとってもらうことにしたんです。といっても、本格的に専門家からの指導を受けたりなどは、これからなんですけど」
「まぁ、あのような子に?」
草花の専門の画家は確かに存在する。芸術ではなく、学問書の絵を描く写実画家だ。もちろん、昆虫や動物を描く者もいる。細部まで細かく、間違いなく描かなければいけない、重要な分野だ。
しかし、その分野を志し、学んでいる者はほかにもいるはずだ。あえてあの子供でなくてもいいのでは、とアルディラは聞こうとしたのだが、
「あの子は、とても貴重な才能を持ってるんです。一度見たものを、記憶の中に一枚絵として保存しているんです。目で見た記憶は薄れることがなくて、実物が目の前になくても、記憶の中の絵を見ながら描くことができるんです」
「記憶のなかの、絵……?」
アルディラは目を瞬かせた後、
「そういえば、本の内容を、文字ではなく、絵として記憶する者があると聞きます。わたしが聞いたのは、写本の仕事をしている人の話でした。元の本を絵として覚えているので、写し書きされた本の内容に間違いがあると、すぐに判るのだとか」
「なるほど、きっと、同じ種類の才能ですね。やはり、世の中には法術以外にも、神からの贈り物を持った人がいるんだと思います」
にこにこと、カイルは頷いた。
「草花にはいろいろ種類があります。たくさんの花を長く花を咲かせているものもあれば、年に一度、一晩の数時間だけ咲いてすぐ閉じてしまうものもあります。その短い間に、正確に写し取るのはとても難しいです。でもあの子は、ただ見ているだけでは気がつかないような細かな部分も、しっかり『絵』として覚えているんです。すごいことだと思うんです」
「その才能を、あの子が更に生かせるように、絵の教育も援助されるということですか?」
「そうですね、でも、絵の勉強をしていうくちに、やっぱり他の分野のことをやりたいと思ったら、それもいいと思うんです。写実画家としての修行をしていく中で、いろんなことを学んでほしいですよね」
のほほんとした顔で、なかなかしっかりしたことを言う。意外に思ったのが顔に出てしまったのか、カイルは気恥ずかしそうに頭を掻いた。
「実は、この庭や温室の今後について悩んでいたときに、エレム殿に、潰してしまうよりはみんなの役に立つ方法を考えた方がいいのではと助言を受けたんです。それにはどんなことができるか、城のみんなにも一緒に考えてもらいました。ここには、普段の生活では見ることの難しい、異国の草花が多くあります。それを子供達や、創作を生業にする者達に見てもらうことからはじめようということになりました」
「それで、孤児院の子供達を招待しているのですか」
「はい、まだはじめたばかりなので、成果を聞かれると困ってしまうんですが、まずは単純に、面白いんです。同じものを一緒に見ているはずなのに、いろいろな感想が出てきます。それに子供達からは、町での話や普段の生活のことも聞けますし、参考になることがたくさんあります」
形式的な説明ではなく、カイルは本当に、『面白い』と思っているようだ。にこにこと話を続けた後、
「姫も、この旅で、たくさんのことを見てこられたんでしょうね。帰ってきた兵士達が言ってました、姫のおかげで、海というものを見ることができたって。城のように大きな船が、陸地のように広い水の上をたくさん行き交っているだなんて、想像するだけでも驚きです」
「ああ、それは……」
正直、今から思うといきすぎた感のある寄り道だったかもしれない。しかし、ルキルアの兵士達が好意的に捉えてくれていたとは思わなかった。
「いろんなことがあって、エスツファ閣下、ルスティナ閣下にも、そのたびにご尽力いただきました。王子に、ルキルアの部隊との同行を勧めていただいて、良かったと思っています」
「あ、いえ、どうせ行くなら、みんな一緒の方が楽しいですよね」
そういえばそんなことを言ったっけ、くらいの軽い感じで、カイルは笑っている。
どうもこの少年、今まで散々見てきた、「エルディエルの末姫に、あわよくば取り入って云々」的なものがない。言葉の中に、アルディラのご機嫌を取ろうという意図が全くないのだ。
この少年なら、忖度なく、逆に詮索もせず、自分の問いに答えてくれるかもしれない。
カイルはそこまで話して、やっとなにかに気がついた様子で、近くにあった長椅子をアルディラにすすめた。人一人分の間を開けて二人で長椅子に腰掛けると、アルディラは改めてカイルに訊ねた。
「……ルスティナ閣下は、王子の叔母にあたる方だと聞きました。普段から、あのように穏やかで、落ち着いた方なのですか?」
「あ、いや、うーん」
カイルは困ったような、苦笑いに近い笑みを浮かべながら、腕組みをして考え込んでいる。




